2012年12月1日土曜日

経過報告11

  こほこほ……けほっ(喉痛)。


  2013/01/31(Thu)
  『ヒメゴト・マスカレイド』、プログラム担当の水鼠氏のスタッフコーナーのコメントより。
  「ゲームプログラム的な仕様構成はそれほど難しくは無かったのですが、毎度のことながらクリックを押した時の演出動作に時間を持ってかれますね。/一つ動きをとってもフェード処理にするか、拡大縮小を使うか、移動、回転を使うか、はたまたアニメーションを使うか等、多岐に渡ります。/全体を意識しながら、ここはこの方がクリックして楽しいとか考えながら付けるのが何気に結構大変だったりします…。/ボタンを押したら、パッと次の画面に切り替わるのと、動作を付けて切り替わるのとでは全然受け取る感覚が違いますし。/切り替わりテンポも重要なので、気をつけないといけません。/天秤の動作とかでも本当の物理的な慣性で停止させるとしたら何十秒とか……待ってられませんし。/そういった所のウソの表現とか、細かい調整など、普通にゲームをしていると当たり前すぎて、プログラム処理としてはあまり気づいてもらえない箇所とも言えます」。

  この引用に対して、私に付け加えられる言葉はほとんど無い。私がEscu:de作品の「良さ」を自然に信頼できているのは、多分にこういうところの「作りの良さ」、つまり操作感の気持ち良さがあるんだと思う。そしてこれは、比較的初期のアクションゲーム『とびっきりRUIN』の各ステージでも、『メタモルファンタジー』のバトル演出にも、『英雄×魔王』SLGパートのあのリボルバー弾倉型のコマンドアクションに際しても、純AVG作品の『ヴェルディア幻奏曲』の例えば場面転換エフェクトやバックログスクロール動作においても、『あかときっ!』の戦闘時の浮遊表現や切り替わり演出にも、時には意識し時にはほとんど意識せぬままずっと感じてきた心地良さだった。そしてこの『ヒメゴト・マスカレイド』の中にも、そのシステムリアクションの適切にコントロールされた操作性の快さは十二分に感じられる(――もちろん、実現されている演出面だけでなく、実装されている機能面で見てもこのブランドは非常に洗練されている。例えば動作の軽快さについても、あるいはCG閲覧モードの使いやすさについても)。このEscu:deこそは、初期Littlewitchが指し示していた可能性を完全に自分のものとして実現している、プログラム演出のトップランナーの一人だと信じる。
  あと、BGM(の音質)もとても素晴らしいので、できるだけ良い音響設備でプレイしたいところ。

  それにしても「北板利亜(きたいた・りあ)」ってどんな名前やねん。


  その設定上の直接的なつながりや本編中の「お母さんの[雑巾の]絞り方」「私が守るもの」といった明示的示唆にもかかわらず私個人はアヤナミに「母性」の属性を感じ取ったことがまったく無かった――それは母親像の残照(あるいは碇君による主観的投影)のようなものとしてしか感じられなかった――ので、そのようなキャラクター把握がピンと来ないのだけど、一度あの銀髪赤目姿をすべて茶髪白衣姿だと頭の中で置き換えながら視聴したら何か分かるだろうか。……司令の気持ち悪さがいっそう際立つだけかも。
  個人的にはユイさんの外見はわりと好きなんだけど、今ふと考えてみたらもしかしたらそれは私の(本編中ではしばしば副司令からの眼差しを通じて示されていた)横顔萌えの現れでしかなかったのかもしれない。例えば『ブレイズハート』もパッケ背表紙の横顔(なかば見返りに近いが)で購入を決意したし、アニメ『IS』のディスクパッケでは感涙に咽び泣かんばかりに感激したし、一時期はtwアイコンも横顔画像にしていたくらいだし(――もちろんその彫塑美は、親しみやすさを犠牲にして獲得されているものなので、これらの分野のイラストでは残念ながらなかなかお目にかかれないポーズの一つなのだが。これに関しては、女性向け作品の方が強いという印象)。



  2013/01/28(Mon)
  twID:taptos3氏の背景画像に写っているゲームパッケージは450本程度(約30本×14段+α)なので、私が所持しているPCゲームをすべて陳列するとだいたいこのくらいに収められるということになる。これなら全部棚に並べることができるかも(――ただし、写っているタイトル群からも窺われるとおり、この方が所持しておられるパッケはこのだけではないようだが。サイトに書いてあるところでは、1700本以上プレイされているらしい。EGScapeでも、ID:kakari1017氏とかは2300本以上プレイされているようだし……すごい)。


  PCゲーム(またはAVG)の画面は何であるかという問について、私自身はおおむね以下のように考えている。すなわち、しばしば写実的視界としてもそれなりに違和感なく捉えられるように設計されはするが、それが目指しているのは主人公の視界の表現ではなく、そういったものに還元されきらない「ゲーム画面」という独自の存在であり、そのことはLiar-softの様々な挑戦や初期LittlewitchのFFD表現に限らず、Purple softwareのように映像的表現文法を部分的に取り込んだ作品においても、ApRicoTやageのような擬似アニメ的画面構築スタイルにおいても、その都度ユニークなレイアウトを採用する数多くのSLG作品においても、変わらない(※ただしアニメ様式を選択的に採用しているOverflow作品群のみは特殊だが)。あえて既存の概念を参照しつつ呼称するなら、プレイヤーとの間の「インターフェイス」の画面と呼びたい。
  それに対して、[ http://onthearmchair.blog110.fc2.com/blog-entry-160.html ]:主人公視点を実在的所与乃至様式的標準と見做すこの論考は、この私の立場とは出発点からして異なっているが、しかしながら、ゲームの成り立ちを問う意欲的な問題設定と、ここで挙げられている個別作品の特質についての示唆に富んだ言及は、たいへん興味深い。
  そういえば、AVG画面それ自体の意義や機能については、twなどでこまごまと言及してはいたが、まとまったテキストを公開したことは無かった。一度取り組んでみたい論点だが、話が抽象的になりがちなのと、テーマの規模が大きすぎる(つまり、ある程度の結論や展望を提示するために要求される射程が長大なものになってしまう)のとで、非常に難しい。この問に対して十分に答えるには、「立ち絵の機能」「一枚絵の意義」「プレイヤーの地位」といった関連する論点についても明確に態度表明できなければならないし。

  暫定的にメモしておくと:
  写実志向の表現文法や、明示的な主人公視界表現が採用されている例はけっして少なくない。例:『明日君』の見切れ表現、『オルタ』の精緻な写実的コクピット表現、『AYAKASHI』のピント表現、ぱれっと作品群の立ち絵空間表現(側面立ち絵、背面立ち絵による)、千世作品群の「サイティングシステム」(主人公視界の向きを操作できる)、『奥さまは巫女?R』の着ぐるみ視界表現(着ぐるみの中から覗いたような影が画面上下に付与される)、『沙耶の唄』の主人公視界表現(奇病を発した主人公の世界の見え方が描写されている。まさに「主観そのものを描写する」アプローチ)など。
  ただし、ApRicoT(『Maple Colors』『AYAKASHI』)では、ピント表現(後景ボケなど)を遂行するのと同時に主人公の姿が画面内に登場している場面もある。ボケ表現の「VFXとしての意味(効果)」のみを応用的に取り込んでいるが、写実的忠実性が目指されているとは言いがたい。ぱれっとも、立ち絵空間表現を行いつつ、しばしばそれと同時に主人公立ち絵を表示している(『復讐の女神』しかり『MERI+DIA』しかり『えむぴぃ』しかり)。つまり、上記論考の言葉を借りれば、これらの作品においては「主人公視点のカメラを再現」するような表現と同時に「主人公目線からの解放」に該当する表現が行われている。私見では、これらは両立可能な二つのアイデアであって、対立概念として捉えられるべきではない。さらに、千世の「サイティングシステム」は、視点操作であるのみならず、プレイヤーがフラグを操作するためのインターフェイスでもある(※上記リンク先で言及されている『trade▼off』もこれと同じようなものだろうか?)。また、非常に微妙な例として、『days innocent』のレイアウトのことも想起しておきたい。3D系作品も、もちろん物理的に特定の視点がその都度設定されるが、それらは必ずしも主人公の両眼の位置ではなく、むしろそうであることは少ないとすら言えるだろう。
  他方で、一般的なAVG作品における画面レイアウトについて、それらが写実的視界表現としての説得力を発揮しているか(そうした説得力が目指されているのか)は、問われる余地がある。この点で、上記論考の「一人称的画面というのは実質的にほとんどのビジュアルノベルで指向されて」いるという想定は、飛躍が大きすぎるように思われる。それは、複数のキャラクターがきれいに正面横並びしている(それが表現スタイルとして認められている)立ち絵シーンに照らしても、主人公視界の観念がしばしば完全に無視される一枚絵シーン(とりわけアダルトシーン)に照らしても、AVG画面における主人公視界忠実性の想定はけっして自明ではなく、さらなる議論を展開していくための基盤とするにはあまりに不安定であるように思われる。
  SLG作品の中には、主人公が画面内に登場するとしないとにかかわらず、主人公の(物理的な)視界や(認識上の)視点に拘束されない様々な自由な状況表現がシステマティックに実現されている。「主人公が画面上に存在する」ことは、「主人公目線からの解放」を実現するための必要条件ではない(――上記論考も、そこまで強くメルクマールとして主張されているわけではないだろうが)。類型整理のうえでは、少なくとも、画面レイアウトが主人公の視界を表現しているか否かの次元と、主人公の認識上の視点の特権性が提供されているか否かの次元とは、区別して別個に扱われるべきだろう。
  さしあたっての私見としては、AVGの画面が主人公の視界におおむね近いかたちにレイアウトされているのは、なんらかの特定の価値を体現するものでもなければ、それ自体が実現目標として追求されているものでもなく、いわば映像作品における「イマジナリーライン」や演劇における「第四の壁」と同じような、プレイヤー(読者)のための便宜的作法に過ぎないと捉えている。そして、そのような便法的テクニックは、AVG画面とは何かを問うための基準となる資格を持たないし、実際にもその役に立たない。――もちろん、この見解それ自体、説明乃至例証を必要とする主張であろうが。

  このブログ上では、たとえば以下のところで言及していた。
- 立ち絵の機能について:  http://cactus4554.blogspot.jp/2011/10/blog-post_01.html
- 立ち絵演出について: http://cactus4554.blogspot.jp/2011/09/blog-post_3552.html
- ぱれっとについて: http://cactus4554.blogspot.jp/2011/09/blog-post_2409.html
- カットインについて: http://cactus4554.blogspot.jp/2011/09/blog-post_6706.html
- 2012/4/9付。強く言いすぎているが。 http://cactus4554.blogspot.jp/2012/03/diary4.html
- 2012/8/17付。インターフェイス説。 http://cactus4554.blogspot.jp/2012/08/diary8.html
- 間接的にこれと関連する論点。 http://cactus4554.blogspot.jp/2012/03/facewindow.html

  twでは、以下のあたりでの断片的な言及。……あまり掘り返したくはないが。
- http://twilog.org/cactus4554/date-091211
- http://twilog.org/cactus4554/date-100303
- http://twilog.org/cactus4554/date-100330
- http://twilog.org/cactus4554/date-100407
- 12140728370
- http://twilog.org/cactus4554/date-100414
- 19437194833
- http://twilog.org/cactus4554/date-101016
- http://twilog.org/cactus4554/date-101119
- http://twilog.org/cactus4554/date-110619

  第三者のサイトでは、
  [ http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-556.html ]
  [ http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-691.html ]※私もコメント投稿している。
  これらも関連する論点だろう。

  テキストと音響と画像(と、個人的にはここに「システム」も加えたいが)を交錯させ混淆させる複合表現の旗手としては、この業界ではやはり丸戸氏の名前が挙げられるべきだが、少しだけ範囲を広げれば「かざみみかぜ。」氏も有力だろう。

  ……うーん、あらためて体裁を整えてきちんとした形で文章にしておきたい。AVG表現における「一人称」のあり方(視点設定においても視界表現としても)という上記の視座は、大きなポテンシャルのある問の建て方だと思うし、上でリンクした記事は実例に即した展望としてすでにしっかりまとまったテキストになっているので、こちらもこんないいかげんな独白コメントだけにしていては失礼だし。



  2013/01/27(Sun)
  メモ:『ハピメア』を予約し忘れていたので、来週末の『虚』購入時に予約してくる。
  来月(と3/1)は、とりあえずフルプライス4本と、あとは気分次第で。


  プレイした個別作品の感想も書いていった方がいいのだろうか。これまでPCゲームに関してはたいていのことを――個別作品攻略記事、データ収集系記事、個別テーマの論考記事、個別クリエイター紹介記事、等々――してきたつもりだけど、個別作品レヴューと(二次)創作だけはどうも水に合わず、ろくに試みすらしていない。各構成要素に対して万遍なくコメントしていく要素分割型レヴューなんて今更書けないし、かといってコンセプト主導的or局所評価的な取り組み方はしばしば非常に面倒なものになるし……。



  2013/01/26(Sat)
  梅田SfMpで買い物。4本購入したが、予約していなかったタイトルのいくつかはすでに店頭には無かった。うぐぅ。
  それにしても、つくづく不思議な商材だ。1)比較的高額であり(:1万円弱。最近では希望小売価格1万円超のタイトルも稀ではない)、2)単発の作品であり(:その多くは漫画続刊のような連続ものではなく、その都度ゼロからアピールされセールスされている。FDは一定数存在するが)、3)新作は毎月十数本もリリースされ(:制作規模及び市場規模からすれば驚くべきことだ。最近では低価格タイトルも増えているとはいえ)、4)しかもアダルト商品である(:一般的には、話題性に牽引されることが少なく、時期を問わず長く売れ続けやすい筈)、にもかかわらず、上記のように物によっては即日店頭完売してしまい、ユーザー側もその多くが数日のうちにコンプリートしてしまうほどの速度で消費している。5)さらに言えば、例えばSfMpのように新品と中古品が公然と同一の売り場に並べ置かれており、しかも中古品は本来の品質を保持したまま(つまり機能制限などのデメリットをほとんど被らないまま)新品の半額~3割程度の価格に下落しているにもかかわらず、毎月その隣で新作商品が大量に売れ続けている。現在のPCゲーマーたちが備えている美徳、つまりその健啖さ、その熱意、その情報収集能力、そしてその真面目さに大きく依存している危うい市場なのではないかと、いささか不穏な想像を走らせてしまうことがある。もちろん、規模の大きくない(そしてそれゆえバッファも大きくない)市場では、制作サイドでの「(採算が見込める範囲での)少数製造」、小売サイドの戦術として「(控えめに発注して)早期売り切り」というのは、コストとリスクを低減するための非常に理に適った方法ではあるのだが(――ただし、最近の品薄傾向に関しては、製造数を絞っている[or絞らされている]のではないかと疑っている)。


  低価格コーナーを見ていて『軍人狩り』というタイトルを見つけてつい買ってみたのだけど……イベントCGは軍服を思い切りはだけている絵ばかりのようで、なんとなくしょんぼり。ぐんぷくもえは、えろくてもえろくなくてもとにかくぐんぷくがたくさんえがかれていることがだいじなのに……。その点では同じく低価格黒箱系タイトルでも『虜囚市場』はちゃんとしてくれていた。
  美しい軍服CGを満喫できる作品というとやはり『蒼海』シリーズが圧巻の出来だが、『オルタ』『大帝国』あたりも良い(――後者はその状況設定の割には軍服要素は控えめだったが)。『群青』と『Dies』のlightも軍服ものの良き産地だ。全年齢作品だが『eden*』も。『Apocalypse』でも軍服のヤオーさんに萌えていた憶えがある。『ときパク』の沢しゃんも、軍人ではなく警官だが、黒髪赤目制服黒タイ双龍原画のとても良い黒ずくめだった。……要するに、黒髪よりも黒服の方が好きかも。
  ばあさんや、『花御女』はまだかいのぅ。


  大野哲也はワイド画面で映える。今回の新作も良い絵だ!



  2013/01/25(Fri)
  [ http://www.heat-soft.com/okada.htm ]:何この不可解なコラボ……シロたん氏が関わっておられるようだが[tw: 294718307867713536 , 294720324002529280 ]。



  2013/01/24(Thu)
  『しろぴか』カウントダウン2日前ヴォイスの「うーわんわん」に興奮しすぎて、本当に気絶しそうになった。鼻血を出さずに済んだのが信じられないくらい。……こんなので私は本編を、生きて(あるいは正気を保ったままで)最後までプレイしきれるのだろうか?
  もしも本当にこんな法悦境の中で放心したまま死ねるなら、それは本望だと言いたい。


  ケモ役声優といえば、ナチュラルボーンな金田氏&佐々氏と並んでまき氏(わふわふ)と金松氏(レオナ)が挙がるくらいだと思っていたけど、そういえば木村氏も異種族系キャラクターでの主演作品が妙に多いのだった(――玉藻の狐神様、睦月な狐神様、猫神様、みかんなわんこ)。



  2013/01/22(Tue)
  「絶頂フラッシュ」と俗称されるあの瞬きVFXは非常に因習的な表現であって、嫌っているユーザーもそれなりにいるようだし私もあまり好みではないが、先日プレイしたある作品のそれは、普段見かけるような刺々しく視覚を貫くフラッシュではなく、優しく包まれるような静かで柔らかな白光で、おそろしく心地良かった。女性側のそれを表現していたとおぼしきそれは、数クリック毎にぴかぴかふわふわして、プレイしている私の気分も浮き上がっていきそうになった。言うなれば、トノイケ氏のテキストに似合いそうな感じ(――実際にはF&CやCUFFSの作品ではなかったが)。もしかしたらそれは、同じシーンを再プレイしたらこの感覚の痕跡すら見出せないかもしれない、そんな体調の偶然か心理的な錯覚でしかなかったのかもしれないが、あの時の不思議な多幸感はしばらく忘れられそうにない。
  ……こんなこともあるんですね。


  や、やっぱり予約しないと駄目でふよね……。
  ninetailはしばしば(毎回?)予約特典として攻略小冊子を付けてくれるが、これは本当に上手いやり方だと思う。慣れないプレイヤーへのアドヴァイス提供手段としても有効であり、ユーザーに提示する攻略情報を制作側がコントロールする手段としても実効的であり、攻略情報の提供回路としてもユニークかつ巧妙なものであり、攻略屋たちに対する防衛手段(または攻略情報に関するスタンスの表明)としても明快であり、予約特典のあり方としても非常にまっとうなものだし、もちろん購入誘因要素としても十分に効果的な筈だ。


  もちろん私は蠍座でs…悪かったな予想どおりで!(と内心キレるのはいつものこと。射手座や水瓶座に憧れているのはもちろんあれの影響。漫画版もアニメ版もちゃんと通して鑑賞したことは無いけれど)



  2013/01/21(Mon)
  [ azanashi.sakura.ne.jp/blog/?page_id=9 ]:アザナシ氏のお名前の由来って「字(あざ)」「無(な)し」なのか……なるほど。確かにゲームプログラマの方々が書かれる文字は基本的に、ユーザーの目に触れることが無く、いわば影のみ見える存在だ(――とはいえ実際には、FFDの起動時には環境チェックを行うテキストが表示されるけれど)。
  氏の開発されているゲームエンジンでの、デカールならぬ「デーカー」スクリプトの話もたいへん明晰かつ示唆的で、私のような素人が読んでも実に興味深い。


  EGScapeに所持作品データを入力していたら、「せっかくだからもう少し頑張って木村ファンの中でプレイ本数上位20位に食い込みたい」という邪念がつい……大波氏に関しては、SHC作品(16本連続出演中)のおかげもあってそこそこの本数になっているが。他方で、私自身それほど熱心には購入&プレイできていないクリエイターさんのファン統計で私ごときのアカウントが上位に入ってしまっていたりすると、たいへん申し訳ない心持ちになりつつ同時にそのクリエイターさんがもっと注目されることを望まずにはいられない。秋華ファンもたまひよファンもTOMAファンももりたんファンも籐太ファンも寺岡ファンもそして大槻ファンも、もっと多くてしかるべきですよムキー!(――商業的事情によって大きく規定される領域では、個人は多数派的な嗜好を持っている方が、自己の嗜好に沿った商品が安定供給される見込みが高くなるという点で有利である。他方で、自分の持つ嗜好がマイナーであればあるほど、その嗜好に即した作品は商業的に成立しにくくなり、そしてそれゆえ自己の嗜好を満たす作品が供給されにくくなる。もちろんこれ以外の観点では、自分の趣味嗜好がメジャーであるかマイナーであるかなど、どうでもいいことだが)



  2013/01/20(Sun)
  受験者は57万人だったのか……夏コミ三日間より多かったんだな!(そういう問題ではない。人数だけなら祇園祭は日程全体で毎年100万人以上来ているのだし、明治神宮の初詣参拝者はもっと多いらしいし。)


  モデラー経験の浅さにもかかわらず私見を展開してみる。
  キャラカー模型は、「萌え+自動車+模型」という複数の趣味が交錯して出来ているので、一般的な(あるいは、多くの人が特別な前提無しにストレートに理解できるような)趣味ではないということを踏まえたうえで、しかしいくつかの既存の趣味との間にも類縁性を備えつつ確立された(or確立されつつある)一つの趣味だということは理解可能だと思う。
  (1)一つには、アイマス航空機やEVAバイクのような、近年の萌えデコレーション模型としての側面がある(――もしかしたらデコトラ模型[という製品も以前から実在する]の伝統にも接合されるのかもしれない)。「(現実の)車が好き」というのもカーモデル趣味を支える重要な要因だろうが、しかしこの趣味を成り立たせるための必須条件だとは限らない。そもそも、(とりわけミリタリー系スケールモデルにおける)考証面での再現性(正確性)追求と並んで、塗装面(装飾面)でのオリジナリティ追求は、広くモデラーたちの自らの作品の価値を賭けるべき最重要関心事なのだ。模型趣味は単なる購入/所有/誇示のみの活動ではなく、主眼は「制作」の趣味であるという側面は看過されるべきではない。そして、そういった模型制作の文脈の上に、キャラ装飾スタイルも模型趣味の一つのあり方として確立されつつある、ということだろう。
  (2)もう一つは、萌え部屋や痛PCといった空間的/立体的萌えデコレーションの一形態として。例えば、現在市販されている「きゃらdeCAR~る」シリーズのパッケージに「車をキャンバスに、『萌え』をアーティスティックに表現!」とあるのは、この見方を端的に表現している。この場合にも、カーモデルであること(あるいは車[模型]が好きであるべきこと)は必然的ではないが、しかしキャラデコの側から見れば「ミニチュア」かつ「自動車」であることには大きなアドヴァンテージがある。というのも、
  (2a)第一に、ミニチュア(模型)としては、(模型としての)製造/制作/鑑賞の文化的伝統及び技術的蓄積、採りうる可能的選択肢の多さ(車種ヴァリエーション)、手軽さと安価さ(制作にも過大な技術が要求されないし複数所持も容易)、実際的な差し障りの無さ(純粋に鑑賞目的であり、痛PCなどとは事情が異なる)のメリットがあると考えられる。要するに、「飾ったり手に取ってみたりしつつ、見て楽しむものだ」という共通了解が確立されているので、萌えデコレーションとの間にも高い親和性がある。そして、
  (2b)第二に、自動車(模型)ならではのメリットとしては、特に平滑面の大きさ及び多さが挙げられる。バイク模型やロボット模型では、表面に大きなキャラクターイラストを描きにくいし、大きな平滑面を持つ模型は他には航空機の翼面か空母等の甲板程度だろうが、翼面は輪郭が特殊で扱いにくいし甲板は一枚しかないし、どちらも画像部分を鑑賞しやすいディスプレイ角度はかなり限定される。他方で自動車模型ならば、前面(ボンネット)、側面(ドア&ガラス)、上面(ルーフ)、背面(トランクカバー~リアガラス)など、複数の面にいくつもの装飾を盛り込みつつ様々な角度で鑑賞することができる。うねりのある曲面構成も、航空機の寸胴胴体や空母のマナ板甲板と比べて、その「色気」の点で強みになっているかもしれない。キャラデカール追加型「カー」モデルが何種類も製品化され購入されているのは、現実の「痛車の」模型が目指されているからというよりも、そうではなくてむしろこのような審美的理由が大きいように思う。
  いずれにせよ、複合的な成り立ちに由る趣味なので、「自動車(の模型)を、可愛くデコレーションさせて見ていたい」のか、「好きなキャラor好きなイラストを、デジタルデータだけでなく様々な形で(とりわけ「形ある立体物」として)身近に具体化させておきたい」側なのかは、人によってウェイトが異なるだろう(――ただし、そのいずれであっても、武骨な戦車模型やメジャーなGプラの箱を手にした諸兄に混じって『HoneyComing』痛車模型をレジに持って行くのはおそろしく恥ずかしいということは、容易に想像される筈だ)。
  商業的には、既存の金型を流用すれば車体パーツの製造原価はかなり安価に抑えられるし、パッケージやデカールも高価な素材ではないし画像自体も既存イラスト等からの流用が非常に多く、商品化&製造のコストは比較的小さく済んでいるのではないかと推察される。素材が調達容易なので、何種類もの製品がリリースされていることも不思議ではない。ただし、そのかなり割高な価格(通常の1/24カーモデル商品と比べて、五割増あるいはそれ以上の価格になっている)を見るに、市場規模自体はきわめて小さいと思われる。「大きな需要がある」ということではあるまい。
  ただし、私見では、品質面での限界は大きい。デカールの形状的/縮尺的/品質的な限界からして、実在痛車の車体プリントに比べると発色でも精密度でも質感でも平滑性でも大きく劣るので、鑑賞者による「見立て」の下支え無しには素直に享受しにくいかもしれない。かといって、「既成デカールに頼るな、ネイルアートばりの細密な筆遣いで、あるいは毛筋一本に至るまでの多重マスキングで、自力で描いてみろ、それがおまえにとってのそのキャラの姿だ」というのは酷だろう。痛車模型を楽しみたがるのは、本格派モデラーだけではないのだし。

  ……べっ、べつに模型好きになってもらいたいとかじゃないんだからね! ただちょっと自分で整理してみたくなっただけよ! 言い出した話に引っ込みが付かなくなったとかじゃ……とかじゃ、ぐすん……ないんだから!!!(顔真っ赤)


  たまひよ氏の新作画像を見ていると、どことは無しに水無月氏の画風変化が思い出される。



  2013/01/18(Fri)
  インテリアやファッションにお金を投じてアメニティを向上させたり駅地下で季節のスイーツやお高めの食材を買い込んで舌鼓を打ったりするのは、それはそれで良いことなんだけど、しかしその金員を書籍やディスクに投じていればどれだけのものが買えたかと計算するにつけ、(いまだ未熟な)オタクとしては忸怩たる思いが抑えられない。うぐぅ。
  ただし、ゲームに集中するための防音カーテンや、ディスプレイがきれいに見えるようにするための室内照明であれば、それらは音声を十分な品質で聴取するための高級ヘッドフォンを買うのと同様に「関連性のある支出」として認められるべきだろう。



  2013/01/17(Thu)
  『英雄*戦姫』は何度もお気楽に再プレイしていて、最近では卯衣氏に注目するきっかけにもなった。口調にも繊細な柔らかみがあり、声色もまさに「まろやか」と呼ぶ他ない温和なトーンで、さらにフレージングにもしっかりした繋がりがあって、妙に聴きごたえがある。作中では2役演じておられるが、眼鏡っ娘キャラの方が節回しの面白さを良く感じられて楽しい。出演作を検索して、『Friends』(これも艦船系名字)や『もろびと~』を早急に開封したいと決意したところ。それと、新作『~修羅場なオレ』にも眼鏡っ娘キャラ(ただし脇役)で出演されるので、これも必ず買ってプレイしたい。『初恋予報。』とかも買っておけば良かった……。


  音声キャストが選択式(切り替え可能)になっているタイトルというと、私が知っている範囲では、『Queenボンジョルの!』の他にも、『Wanna.』 (男装メインヒロインのみ、同社旧作の男装ヒロインのキャストに切り替えられるパッチ)、そして後発的事情によるものとして『星空のメモリア』(FD発売の際にキャスト変更が生じたため、本編タイトルの方も新キャストの音声を付け直した)、『波の間に間に 外伝』(音声変更パッチあり)、アトリエかぐやの再発売タイトル(『恥辱診察室』)がある。コンシューマ化した作品にも類似のものがある(例:『BALDR FORCE』)。『Wanna.』のブランドの『遠隔操作』と『床屋の~』のは知らなかった。
  積極的な意図の下に置かれたものであれ諸般の事情に由る半偶然的現象であれ、こうした試みが実際に面白いかどうかについては、一概には言えないが、演劇や音楽における同曲異演と同様に個々の役者による解釈の違い(キャラクター造形の方向づけや個々の科白に対する理解)を聴き比べて楽しむ可能性は常に存在する筈だ。個人的には、AVGではとりわけコメディシーンが、そうした相違を楽しめるポテンシャルが大きいのではないかと思う。


  もうすぐ、阪神のあれを「憶えていない」どころか「当時まだ生まれていなかった」世代が大学生になってくるのですよね……。
  若かりし頃の私は、「不幸な経験は、忘れてしまうのが一番だ、つまりまるでそれが無かったかのような生活に到達することこそが、その不幸を完全に克服することなのだ」という(非常に幼く観念的な)考えだったのだが、しかし当事者たちにとっては、その日の災害経験のみならずその災害に起因したあらゆる事柄が、彼等のその後の何年もの生活全体に対して甚大な影響を及ぼし続けており、それは自身の人生全体に対して抜き差しならないかたちで刻み込まれたものになっていて、そしてそれゆえけっして「無かったこと」に出来るようなものではないのだと理解した時、ようやく彼等のとってのあの災害の大きさを感じ取れた(ような気分になった)。


  え……ヘビと……キスって……これ、ほんとに……そんな……(呆然)



  2013/01/16(Wed)
  森瀬氏の「猊下はかく呟きたり」に対しては、その訳業の意義については高く評価しつつもそのタイトルについてずっと違和感が拭えず、それは一つにはいかにも現代語らしい助詞「は」と古語「かく」「たり」の併用の明らかな居心地の悪さでもあり、また「呟く」という単語のひねりの無さでもあったのだが、もう一つ、おそらく私の感性にとってより大きな違和感の原因であった点は、敬語が含まれていないことだったのだとようやく気付いた。私自身はキリスト教徒ではないけれど、少なくとも慣習的儀礼的観点だけからしても、敬意表現に伴われてしかるべきかと思う。いや、無くてもいいのだけど。あと、「つぶやく」は古文でいえば四段活用になる筈だから、完了の助動詞を接続するなら文法上は「つぶやき-たり」ではなく「つぶやけ-り」なんじゃないかというのも。……しかし、こうしていろいろ考えてみたところを総合すると「猊下かく仰せられたり」(二重敬語)となり、これはこれで仰々しすぎてなんかアレ。


  差し入れのお菓子を持ってコミトレ21に顔を出してきた。ああいう場で、個人的な知り合いでもないただの一ユーザーがどこまで長居しておしゃべりしていいのかはよく分からないので、新作の感想などをほんの少しだけ伝えてそそくさと退散したのだけど、帰宅して思い返してみると、やはり「もっとお話しできたら」との思いが強まるばかりだった。


  [ twilog.org/kaolu4s/date-130112 ]:この一連の発言に関してどれが最もイタいかと言えば、この発言者が標的としている作品でもなければこの発言に反駁した別のIDでもなくこの発言者と呼吸を合わせて仲良く特定作品を貶しているIDでもなく、それらよりも、1)ただ特定作品を腐すために、2)特別な実績も権威も無いごく普通の素人(知人同士なのか?)の発言をまるで箴言のように引き合いに出しつつ、3)しかもその引き合いに出す仕方が原文の文脈とはむしろ正反対の結論のためのものになっていて引用として意味を成しておらず(※さすがにその論旨転倒が認識できないほど愚かではない筈だから、分かっていてその不誠実な引用を行っているのだろう)、4)さらにそこにもっともらしくお手製の箴言をかぶせて来ているという、その発言者自身の安っぽい振舞いの痛々しさだろう。投稿を目にしたこちらが赤面させられたほどだ。この人物は比較的まともだと思い込んでいたのだが、こんなふうに模造の権威の空手形を発行し合って表面上の価値を高め合うような、悪い意味でのサロンの猿真似的振舞いを公然と行って恥じない人物だったのだねえ。思い返してみれば、そういえばこの人物は元長氏の初期作品を論評したテキストの中でも批評的過褒レトリック(過度の一般化)のために分析の正確性を大きく犠牲にしていたのだった。この人物に対して幻滅し、そしてあのあたりの批評サロンもどきの不毛性にあらためて失望させられた。
  そして、このような人物が言論のマナー(誠実と「不実」)について講釈を垂れることも同様に滑稽なものになる。上記投稿の後の発言のことだが、その内容面についてもそもそも複数の芸術作品の間で比較を行うのは優劣を決するためではないと思うのだが……。問題なのは複数の創作物の間で比較を行うことではなくて、それらの間で優劣を定めなければならない(ということをこの発言者は前提にしているように読める)という思考それ自体だろう。もちろん、比較した上でそれぞれの特質(その特有のコンセプトとその実現された造形)のありようを際立たせるようにそれらを布置整理することには十分な意味があり、実際にそのために作品間の比較はなされ得るしなされている。ディーセントな意味での評価の作業とは、優劣を決するなどというつまらないことではなくて、そういう作業だろう。もちろん、複数の体系的/技術的立場の間で優劣を決する(ことを目指す)ことが重要である学問分野は確かに存在するし、創作物についても形式的に限定された形での技術論の次元ではそうした有効性の比較評価が成立する局面はあるが、この人物がここで行っているのはそういうものではなく実質的評価の次元なのだし。

  自分の権威にせよ第三者の権威にせよ、無根拠な――あるいは「その発言内容に関して十分な個別的論証乃至論拠を提示せずとも、その発言は信用に値するものであり、正当性の推定をもって遇されてしかるべきである」という態度を取りうるための背景的根拠を提示できないにもかかわらず――権威を笠に着て他人や物事を腐す人物は、web上では(遺憾ながら)たまに見かけるが、もしも当人が正当な実績乃至卓越を持ち合わせておりかつそれを証明できる形(典型的には専門家の顕名発言)でやるならともかく、そうした裏打ちの存在しない場でそうした言動に及ぶ人物は、忌憚なく言えば滑稽でしかない。「あなたはどれだけ偉いの?」と尋ねたくなるのはいるよね、FXM某とか。

  そういえば、[ tw: 13482439201 / 13843174073 ]:こんな発言もあった。教養が「豊富」だというぎこちなく洗練されない表現は初めて目にしたので、この発言者自身の教養の程度を疑うきっかけになっていた。教養というのは、何かに含まれる成分量の問題ではないので、「豊富」とは言わないだろう。普通は、質的評価として「深い(つまり深甚な洞察にまで達している)/浅い」、あるいは単純に存否の問題として「ある/無い(「無教養」)」、あるいはせいぜい「豊か(に湛えている)/(教養が『ある』と称するには)足りない」ではなかろうか。同じように、個人の人格全体に関わる質的属性である「学殖」「思慮」「徳」「情(愛情)」なども、「深い」または「ある」とは言うが、「豊富だ」とはまず言わない。……もしもそういう用例が権威あるテキストの中に多数存在するならば、この節は撤回するが。
  「豊富」と「豊か」はほぼ同義語である(どちらも"rich"と訳せる)が、日本語の中では使い分けがなされている。例えば「ビタミン豊富」「情愛豊か」とは言うが、その逆の組み合わせは通常用いられない。その基準はおそらく、「豊富」という場合は保有される要素(ビタミン)とそれを保有する主体(フルーツ)とが同一ではなくそれぞれ別個に存在しうるが、「豊か」という場合はしばしば保有要素(情愛)が保有主体(特定個人)それ自身の中に深く内在している性質と見做される、といった感じだろうか。あるいは、似たような趣旨だが、「豊富」は計量可能な要素に対して用いられがちだが「豊か」は不可算的な特定の状態を呼称するもののように思われる。


  ……それにしても、某アニメが期せずしてリトマス紙の役割を果たしてしまっていて……特にあの作品を躍起になって否定しようとする中で見苦しく底が割れた人たちが何人もいて……ただしその中には以前からその言論態度が嫌いだった人々が何人も含まれていて、それらについては「ああ、またか」でしかないのだけど……。
  個人的には、今のところ観てはいない(原作も読んでいない)ので具体的な感想を持ちようもないが、期待しているクリエイターが注目作の監督を務めているという外形的事実のその一点においては上手く行ってくれればよいと思っており、全体としてはほぼニュートラルなままでいる。


  [ tw: 286852928680099840 ]:こういう発言もあったりして、シナリオ偏重派は相変わらずバイアスまみれの平常運行のようで。絵も可愛くて、音楽も良くて、インターフェイスも洗練されている(そして脚本も悪くない出来である)ならば、それは本当に楽しく素晴らしいゲーム体験の時間を過ごせるものの筈であり、そこには十分確かな価値があるし、それが優れた脚本を持つ作品と比べて高く評価されたとしてもなんら不当ではないと思われるのだが、この発言者は何故「シナリオ特化」作品をそれよりも高い位置に置くことを、しかも個人の選択的嗜好の範疇を超えて一般的に、要求できるのだろうか?(――しかも上の発言は、特別に卓越した脚本を引き合いに出すのではなくただ単に制作バランスの点で「シナリオ特化」であるというだけで高評価を要求している)
  結局のところ、 マルチメディア媒体として成立しているゲーム作品の中で、脚本面のみを過剰に大きく取り上げつつ、それ以外の諸要素を作品の「価値」とは無関係な外的装飾とのみ見做して切り捨てようとするその不公平な態度を公然と示して憚らないのは、ほとんど脚本偏重ユーザーに限られている。この「シナリオ特化で、絵とシステムがショボいゲーム」の要素を入れ替えてみて、「美術面に大きく注力しているが、脚本とシステム面はおおむね平均的な出来のゲーム」(Innocent GreyやHOOKSOFT?)、あるいは「創意溢れるゲームシステムを試みているが、グラフィクスと脚本は月並な作品」(ninetailやでぼ?)、「インターフェイスの操作感がたいへん心地良いが、それ以外は特筆すべきほどではない作品」、「音響面が抜群に素晴らしいが、それ以外のパートにはあまりコストを掛けられなかった作品」、「アダルトシーンの掘り下げの深さとその性描写嗜好の先鋭性は絶品だが、その他の要素はさほどでもない作品」、「企みの深い野心的なキャスティングを敢行しているが、(以下略)」のようなゲームを、「シナリオ特化」作品の擁護者たちと同じように傲慢に称揚してそれ以外のバランスの作品をはっきりと貶める(当然に低く評価しても差し支えないという態度を取る)者は管見のかぎりほぼ皆無であり、そして、しかし、「シナリオ特化」作品を好むユーザーの中にはそうした発言がしばしば現れている(――ただし、一昔前は「ゲーム性」に献身するグループも、その本来性や特権性を主張していたように記憶するが、現在では完全に棲み分けが完了しているようだ。ちなみに、私がこうして脚本偏重主義者たちの偏見を咎め立てするのは、彼等[のみ]がまさにこのようにナチュラルに他の趣味嗜好を貶すのを何十回[あるいはもしかしたら何百回]と目にしてきているからだ)。
  さらに、上記のようなシナリオ偏重が問題なのは、ゲームにおいては脚本は演出全体によって支えられることによって(つまりそのゲーム表現全体の中に、その設計の中で適切に位置づけられることによって)初めて成り立つという認識が欠如しているという点だ。「素晴らしいテキストがありさえすればいい」という認識は、理念において偏っているだけでなく、自身のゲーム体験をおそらく偽られている(あるいは見落とされている)。優れた感興をもたらしてくれるシナリオは、大抵の場合、シナリオのみの功績ではない。
  後日追記:そういえば、アダルト要素志向のユーザーの中でも、「"アダルト"ゲームなのだからアダルト要素の出来が作品全体の品質評価に対して決定的に影響すべきである(そしてそれゆえアダルト要素の乏しい作品はその分だけ価値が低いと当然に見做されてよい)」といった趣旨の教条的主張は時折提起されており、その立場は歴史的にも広報上も受容実態に照らしても一理あるものなので、個人的にはそれは一面的に過ぎるとは思うものの反駁しきるのはいささか難しい。


  フランクフルト駅とフランクフルト中央駅 #同じような駅名なのに歩けないほど離れている駅(外国編) それぞれドイツの北東部(ポーランドとの国境)の中規模都市と南西部の中核都市なので、混同されることは無いが。上手いと思ったのはこれ:[ tw: 289435806186233856 ]。距離の長さでみると、板橋駅(板橋区)と板橋駅(台湾)が直線距離で3000km以上。



  2013/01/08(Tue)
  いろいろ考えてみたけど、この分野で分割販売を行うメリットがよく分からない。
  おそらく中心的効用だと想定されているであろうのは、「部分々々は安価になるので、気軽に買いやすい筈だ」というもの(※低価格ソフト戦略と同じ)であり、それに伴って「コアファン以外のより広い層に興味を持ってもらえる(そして長期的に新たなファンを増やすチャンスになる)」ということ、そして売上の大きくないブランドにとっては「大手ブランド中心の購入層に食い込むチャンスになる」という点、逆に大手メーカーにとっては「市場に対して継続的に新作or話題をアピールできる=広告効率を良好にし、ブランドネームをより強力に周知させられる」といったメリットだろう。
  しかし、その一方で分割販売はいくつもの困難を抱え込むことになるように思われる。前編/後編のようなリニアな連載型(例えばminori。alicesoft/Eushullyのような大型のシリーズものは一つ一つがフルプライス規模なのでこの議論の視野からは外れるだろう)か、ルート別販売のようなケーキカット型(現時点では特定ヒロイン攻略パッチのような弱い形態でしかほとんど存在しない。『ツゴウノイイ彼女』くらいか?)か、ゆるやかに相互関連するオムニバス型(例:lightの『さかここ』シリーズ)かによって事情は多少変わるが。いずれにしても、まず第一に、市場全体が(とりわけ人数の観点で)それほど大規模ではなく個々のユーザーの趣味嗜好に大きく依存するこの分野では、期待されるような「ついで買い」作用は働きにくいように思われる。また、長大な体験版が常態化している現状では、「試し買い」のための分割販売はほとんど意味を成さない。そして、分割販売によってその限られた既存顧客(自社のファン)を失う虞もある。現在の"忠実な"そして健啖なアダルトゲーマーたちの中には、分割販売に対して「不完全な状態の商品であり、好きな時に好きなようにプレイする自由が失われている」と忌避する者もけっして少なくないだろう。継続的な顧客確保を別論としても、個々のユーザーが全部を購入する前に中途脱落してしまう様々な危険が含まれている。それが「気に入ったヒロインだけのつまみ食い」であれ、「連続リリースを途中で買い逃してしまう場合」であれ、「途中までプレイして飽きられた場合」であれ。要するに、「途中まででも買ってくれる新規層を増やす」ことによる上積みと、「中途脱落等によって、全部を買ってくれない層が増える」ことによる目減りとの間で、最終的にその差し引きがプラスに傾くかどうかということなのだが、これはかなりの賭けだろう。
  制作コストの観点では、そもそも現在のアダルトゲームが長期制作化している(フルプライスの企画であれば1年を超えるものも珍しくないだろう)ことを考えると、たとえば「第一作の売れ行きを見てから続編制作を判断する」といった暢気な対応は難しいように思われる。また、フルプライス並の品質でユーザー層を継続的に引きつけていこうとする場合には、いくつかの初期投資(キャラデザ、背景画像、BGM、主題歌など)はどうしても欠くことができないため、連載型分割販売が不採算等で中途終了した場合にはその初期投資の分が割高な支出で終わってしまう(――ただしその一方で、他作品からの素材流用が容認されやすくなる場合も作れる。やり方次第ではある)。付随的に、後半部分の入金が遅延していくことのデメリットもある。
  このように様々な側面を考えてみると、この分野では分割販売はリスクの大きいアプローチであり、そしてそれが有効なものになるのは、たとえば「単体での採算に齷齪する必要の無いフラッグシップ的タイトル」(とりわけゲーム以外でその投資分を取り戻せる場合:とりわけTM)か、あるいは「メーカーの収支が一つのタイトルに決定的に依存することの無いような形で、売れ行きを見て気長に制作する低価格シリーズもの」(lightが採った手法。手の空きがちなパートや外注スタッフを中心に進めさせるのが無難だろう)のような場合だろう。さらに、フルプライス/ロープライスの位置づけを逆転させているパターンとして、「ヴァラエティ豊かな低価格タイトルを多数制作しつつ、好評だったコンセプトのものをフルプライス化していく」というsofthouse-sealの手法も理に適っている。他方で、年一本ペースでフルプライス作品を発売するのがやっとというような(大多数の)ブランドでは、その主力商品をケーキカット式に分割販売化するのは危険な賭になるだろう。現に、HOOKSOFTなどの純愛系ブランドが行っている分割化は、初回特典や予約特典の形でのごく局所的な「特定ヒロイン攻略フラグのブロック解除」方式であり、そしてその対処の控えめさは賢明なものだろう。



  2013/01/07(Mon)
  ゲームメーカーからライセンスを受けて専用キャラクターステッカー等を同梱している痛車模型はすでに何種類も発売されているのだけど、「車の人」タイアップモデルのようなものは無いんだろうか? つまり、TOYOYAシエナの『LOVELY QUEST』痛車模型(もちろん「八乙女いろは」フィーチャー)とか、MATSUDAデミオの『PrismRhythm』モデル(「エルステリア・マリーゴールド」ヴァージョン)とか、SUBARUステラの『秋空に舞うコンフェティ』モデル(メインは「上城雪」)のような発想。ざっと調べてみたところ、そうしたものはまだ存在していないが、出演ブランドとネタ元自動車メーカーのニアミスはすでに実在する(TOYOTAマークIIの『タユタマ』モデル、『HoneyComing』のSUBARUインプレッサ痛車模型など)ので、いずれ本当に実現する可能性は十分見込める筈だ。そして、もしそうした企画が成立して発売されれば、ゲーマーたちはその趣向をはっきり理解したうえで喜び勇んで購入し制作するに違いない。
  てなことを、久しぶりに訪れた四条B'sHobbyの店内で妄想していました。その上の階の「談」も、ずいぶん様変わりしちゃいましてねえ……。


  SkyFishは今回も純愛+SMの模様。似たような趣向のブランドが無いわけではない(例:ApRicoT)が、これはもう「お家芸」と呼んでよいと思う。予約して買う。/公式サイトの『九十九』玉ちゃん壁紙2枚も眼福。こういうキャラのこういう絵を楽しそうに描いて出してくれるブランドはほんとうに貴重だ。



  2013/01/04(Fri)
  [ http://www.rcc.net/hirogaku/ ]:いいなあ。2012年9月から四齣漫画をすでに100話も掲載されているのか。
  手旗信号で日常会話するキャラクターとはなかなか斬新だと思ったが、手話で言葉を表した漫画は存在するし、PCゲームにも似たような表現はある。たとえば『コンチェルトノート』か何かで授業中に手話で私語をするヒロイン(一枚絵あり)がいた憶えがあるし、ちょうど新作『百機夜行』にも手話キャラがいるらしい(――「瑪瑙」。買いはしたものの放置してしまいそうなので、優先順位を上げておこう)。有名なところでは『ONE』のスケッチブック少女(スケブ立ち絵あり)も。ggってみたら『種憑け村』にも手話が趣味という女性キャラクターがいるようだが、その設定が作中でどのように扱われているかは不明。ひとしきり考えてみたところ、立ち絵差分で手旗表現をしても格好が付きそうには思えないが、もしかしたらSFC時代のドットキャラ芝居のようにユーモラスな身体言語表現として成立するかもしれない。相手の肌に指文字を書くという描写も――どこかの作品で見たような憶えがある――センシュアルな愛らしさがあって良い。
  明示的な身体障害としての難聴ヒロインは『星空のメモリア』にもいたか。あまり良い扱われ方ではなかったが。『夏日』のそれはちょっと真面目すぎて辛かった。以前にも書いたけど、車椅子キャラもいまだに苦手。


  tencoの新作ティザー、アイテムドロップとアイテム合成? 特に後者のシステムは、いくつもの作品で見かけるわりに、良い印象を持ったことが――つまりそこに面白さを見出せたことが――記憶のかぎり一度も無いのだけど……。とはいえ、前作の低音系風音ヴォイスのキャラクターが宇河絵のような猫耳形態になって再登場しているのは嬉しい。


  ウェディングドレスCGには弱いかも……。最近では『俺と5人の~』がまさにそれで、華やかで可愛らしくてとても素晴らしい。


  Ariesの楽しさに開眼できたっぽい。


  1/13のコミトレ21にはたぶん顔を出せると思う……たぶん、望むらくは。


  手持ちのCDやゲームパッケを箱詰めしているんだけど、CDはおそらく10箱程度、ゲームも20箱前後で収まりそう。……あれ、これならもっと買っても大丈夫?(※こう錯覚している私は、傍らにある書籍の山のことは考慮していない。同人誌をほとんど買っていないだけマシか) それにしても、まだ『M×S』が見つからない……ディスクかマニュアル、どちらかだけでも見つけてプログラム担当のクレジットを確認したいのだが。
  後日追記:『M×S』マニュアルは無事発見。その他、散逸したものと諦めていた書籍やディスクがいくつも発掘されて一安堵。


  先日のminori演出評価への言及にせよ最近のe-mote評価へのコメントにせよ、私が自分の仕事としたのは、個々の作品乃至技術を幅広い文脈の中で公平に捉え直そうとすることだった。それは、主題としてクローズアップされた個別作品を分野全体の中で相対化する作業を意味し、そしてそれゆえ(その過褒を諫めるという体裁によって少なくとも表見上)当該作品の評価を引き下げることを帰結し、さらにはもしかしたらそれとともに議論の焦点を一般化することを通じて捉えにくいものにしたかもしれない。
  それに対して、読み手にとって刺激となることを目指す批評は、もしもそれ自体としては一定の誤謬や偏頗を含んでいたとしても、まさにその目標が達成される度合いに応じた成功を収める。とりわけ、優れた読み手はすでに自身の中に「幅広い文脈」を涵養しているので、テキストに含まれるエラーやバイアスを自ら除去しつつ自身の思考に対する豊かな示唆を得る(自ら[再]構成していく)ことが出来る。批評が果実を実らせ得るのは、そうした優れた読み手(つまりここでは「作品享受に熱心で、経験も知識も豊かな、善良なオタク」)たちによって支えられている場合であろうし、そしてこの分野にはそうした良く鍛えられた人々は十分に多い――ただし、00年代初頭までの幸福な時期ならいざ知らず、現在ではそうした言論の啓発性ポテンシャルがどこまで信用されているかについては省みる余地があるとしても。しかしながら残念ながら私個人は、経験も浅く知識も偏っており善良でも寛容でもないので、その触発作用と個人的沈思のみでは飽き足らず、そしてその都度あらためて文脈を可視化させようと試みるところから始めてしまうのだが。



  2012年12月27日(木)
  「カレーがけアイス」と言われるときれいなアイスクリームの上に冷えかけた油っこいペーストが乗っている様子が想像されてきついけど、これが「アイスがけカレー」であれば、味がまろやかになった甘口カレーになってくれるんじゃなかろうか。一度試してみよう、あ、もちろん後者を。
  しかし、[ http://maitonaru.jugem.jp/?eid=256 ]:実際にこういうお写真を見てみると、熱々ごはんの上にアイスという図は、やはりなんとも……うーん。


  物語の主要な部分で人類が実際に滅亡するSF作品は、この分野にはあまり無いかも。『終末の過ごし方』『うたわれるもの』『腐り姫』『沙耶~』『マブラヴ』『R.U.R.U.R』など、あるにはあるけれど。『パンドラの夢』は、最後に事実上滅亡していたんだっけ?(わすれた) 『ひめしょ!!』も、人類の生体機能が大きく作り替えられた世界だった筈。ネタ枠(?)で『うさデリ』も。Eushullyの共通世界設定(どうやら旧人類の機械文明が滅びた後の魔法文明世界らしい)はよく知らないのでノーコメント。『世界に男は自分だけ』はちょっと違うか。滅亡に瀕しているorカタストロフを経験した世界というストーリーなら、他にもまだいくつかある(『はるまで~』『SWAN SONG』『イ号型局地迎撃天使NANAKO』『Vagrants』『REVOLVER GIRL HAMMER LADY』等々、あるいは海面上昇ネタの『青と蒼の~』『MERI+DIA』など。キャラメルBOX[『あえかなる~』『アリスマチック』]やCLOCKUP[『ジオグラマトン』『Zwei Worter』]が複数本制作しているのがちょっと面白い)。低価格タイトルやダーク系にもある筈だけど、残念ながらそちらは詳しくない。



  2012年12月26日(水)
  ふと思い返して自分のtwアカウントを見てみようとしたら、いつの間にかフォロー関係が非ログイン状態では閲覧できなくなっていた。私がtwにいた時代もtw上での関係も、いよいよもって過去のことになってしまっているようで、少々寂しい。ご縁のあった方々や、あるいはそれ以外の様々な方のアカウント(ログページ)を、ちょくちょく拝見してはいるのだけど。

  奇妙なtwアイコンといえば、実在、存命、無関係の他人――具体的には前Apple社CEOとか前都知事とかのことだが――の写真を、しかも茶化すようなコラージュを掛けて、自分のアイコンに使っている者を何人か目にしたけど、あれは本当にきつかった。こいつらは個人(他者)の顔貌に対する最低限の尊重の意識すらないのか、と心底嫌気がさしたものだった(――私個人の感覚としては、写真が残っている実在個人の場合であれば、逝去から少なくとも50年は経って完全に歴史上の存在になっているくらいでないと、その人物の実写画像を恣意的な場面で使用することには抵抗を覚えるだろう。とはいえ、政治的文化的社会的な諸事情からして、北の前総書記の画像にはつい苦笑してしまったことがあるが)。
  そして、こういったもの(が彼等の周囲で看過されたままであること)を目にする度に、その場がtwであれ他のコミュニケーションサービスであれ、あるいは対象が侮蔑的なアイコンであれ公然ストーカー遊びであれ差別的なハッシュタグ大喜利であれ、不適切な行動を周囲がたしなめるということは滅多に行われないものだという(遺憾な)事実を、くりかえし認識させられ、その都度暗澹たる気分にさせられていた。実際、ほとんどの人は、好きこのんでわざわざ正論を提起してこれまでの人間関係をギスギスさせようとはしないだろうし、相手が何者であるかがほとんど分からない場であれば尚更、遺恨を残す可能性のある指摘をあえてしようと意志することはなかなか無いものだろう。そして、だから、まっとうな指摘をあえてしてくれる方々――オフライン実生活上でも、オンライン関係上でも――には深く感謝している。そういう方々が私の周囲に何人もいて下さったことは、たいへんな僥倖だと言うべきに違いない。個人は大いに可謬的であり、その限られた(自己)認識の中では気づけないことがあまりに多いが、しかし同時に個人は十分に可塑的でもあって、筋道だった誠実な他者の言葉は聞き入れられるものだ(と私は信じている)。その双方の観点で、他人に対して行動の善悪正邪当否を(ただし権威的にではなく)語りかけることは確かに意味のあることだと考えている。



  2012年12月25日(火)
  [ http://www.hormone.co.jp/radiopeach/infopage/sakuratail_index.html ]
  すでに終了した番組だけど。姫川氏は素のおしゃべりでも「ですぅ」キャラなのかと思ったが、口調やトーン変化を操るのがわりと得意な方のようなので、これは失礼な思い込みだろう。焦った早口の台詞や、コントロールされた上ずり口調なども、とても面白かった憶えがある。


  PCゲーム声優諸氏に対しては、ネーミングも好印象だったりする。男性声優の場合は駄洒落のような名前や当て字名前が散見されるが、女性声優の場合は、実名としては案外無さそうで、それでいて字面はシンプルで虚飾の無い、そしてしばしば温和なユーモアを感じさせるお名前が多い。画数の多くない漢字名字+平仮名名前とか、植物を表す漢字を取り込んでいる自然派なお名前とか。実際には、他のスタッフと相談して決めるということもあるようだが。
  「木葉楓」や「鳥居花音」というお名前には今もって特別な力を感じるし、「ルネッサンス山田」や「プロイセン萌木」というネーミングの印象は強烈だし、「湖月紅れ葉」氏や「越雪光」氏や「如月葵」氏はお名前にもムードがあってたいへん好ましい。


  HOOKSOFTの最近の頭髪彩色は、涙が出るほど素晴らしい。なかでも、明度を抑えた陰影を多めに乗せることによってゴージャスな印象を与えることに成功している金髪(水原小春、泉道ゆのか、寿々苗穂海)と、パステル調のブラウンが明るい雰囲気を振りまいている茶髪(上条朝陽、姫百合愛、日和橙子)は、見惚れるほど美しい。
  とはいえ、[ www.hook-net.jp/strawberrynauts/img/masterup/onsale_22.png , onsale_28.png ]:このように簡素なイラストも素晴らしいのだが。


  今月は6本購入。来月は『しろのぴかぴか~』と『GoD』など。『大空FD』はせっかくの五行ヴォイス眼鏡キャラだし、『えすっ娘』もいつものTOMA作品だし……そしてInnocent Grey三年ぶりの新作発売が2/8なのか。



  2012年12月24日(月)
  「今日は甘いもの、カロリーのあるもの、お値段の高いもの、脂肪分の多いもの、普段は食べないものを暴食しても許される(と思い込んでしまう)日だ~」などと嘯きつつその自己欺瞞に則って行動していたら歯の詰め物が取れて只今戦々兢々(明日歯科医に行く)。そういえば今年最大の危機も、「〆切3日前に詰め物が取れる」というものだった……。

  ちなみに、私が今年最も落ち込んだ事件は、「ワゴンコーナーにあるパッケージを不憫に思ってレジに持って行ったら、それは実は中古安売りコーナーだった」というもの。ごめんなさい。



  2012年12月17日(月)
  きららイラストに惹かれて叡電に乗ったら、そのまま勢いで鞍馬~貴船の山道を踏破してしまった。どうしてこうなった。山々の風景と森の空気と建物の雰囲気がとても気持ち良かったし、鮎そばも身がほろほろに崩れるくらい煮込んであって美味しかったから満足だけど。
  ……ゲームと関係ないか。『E×E』の風音キャラの名を借りてご容赦いただきたく。

出町柳駅にて(2012/12/16撮影)。


  「鞍馬」でweb検索してみたら、『大好きなご主人様に~』『さくら色カルテット』『シス☆ぽん』にも「鞍馬」名字があるらしい。ただし『大好きな~』は旧海軍の艦船名と思われるが。あと、『シス☆ぽん』にはどうやら野球シーンの一枚絵がある(getchu参照)。



  2012年12月15日(土)
  『ホーリープリンセス!』はタイトルロゴで『プリンセスうぃっちぃず』を連想したが、実際に見比べてみたらそれほど似ていなかった。『家族崩快』のシチュエーションにはいろいろな作品が思い出されるが、PCゲーマーとしてはさしあたり『ゆんちゅ』と『借金姉妹』だろうか(――と言いつつ、『ゆんちゅ』はプレイした当時はそのしつこい濡れ場連続に耐えられずエンディングまで到達できなかったのだった)。
  Devil-sealの話を繰返してしまうのは何故かと言えば、飯野氏が出演されているから。


  選挙カー等に声優を起用することは無いんだろうか。もちろん、声優ファンが票を捧げてくれることを当て込むという話ではなく、メッセージをはっきり聞かせる発声のプロという意味で。気付いていないだけで、実際には(特に若手の)声優が依頼されて仕事しておられる場合はあるのかもしれない。実際、例えば佐本ヴォイスや木村ヴォイスで「○○に投票して下さいね」と頼まれたら、断るのにどれほど大きな精神力が必要になるか想像もできない。


  PCゲームではないけれど、コッペリアの「皇帝の魂を受け継いで、本当の命を得たのです」のシーンは素晴らしかった。システム(世代を超えるステータス継承)と物語(個性を持ったキャラクター)が絶妙の仕方で交錯した瞬間。通常の皇帝継承システムは言葉少なに素っ気なく表現されるゲーム進行上のメカニズムであり、そこに世代を超えるドラマティックな物語を見出すのはプレイヤーの想像力の側の仕事なのだと割り切りかけていたところに、不意打ちのようにゲームシステムの内部からはっきりした(物語的)応答の手応えが返ってきたという点。そして、継承システムはそのシステムの支配者たるプレイヤーの管轄範囲だと見做していた――つまり各皇帝たちはプレイヤーの駒にすぎないように感じられていた――ところに、サブキャラクターのワンオブゼムであった存在がそのキャラクターとしての物語上の固有性を具備したままプレイヤーキャラの地位に食い込んできたという点(――しかも、皮肉なことに、そのキャラクター性とは「魂を持たない自動人形であり、戦闘中にはプレイヤーの行動指示を一切受け付けない」というものだった)。ピグマリオン趣味の琴線に触れたという個人的事情を別としても、「システムが物語を表現し、物語がシステムをつうじて展開される」というそのシステマティックな物語表出の一場面は、テキスト量にして百字程度、時間にして十数秒の簡素なイベントであったにもかかわらず、私のゲーム経験の中で最も美しい特別の瞬間の一つになった。



  2012年12月14日(金)
  [ http://www.c-agent.net/comike/kenketsu/ ]:私もコミケ行きたかったなあ……。WPについては相変わらずセンス無いなと思ったけど(――こんなに芸の無い面白味の無いしょーもないポージングの抱き枕カバー、初めて見た)。
  ところでこのOVERDRIVEの新作、「伊乃郷」市の紹介として「山と海に囲まれた異国情緒豊かな地方都市」(※getchuのテキストでは「~豊かな港町」)とあるけど、神戸のイメージでいいんだろうか。ただし路面電車があったのは随分昔のことだけど(※市電は1971年に廃止されたらしい)。

  私がPCゲーム関係で同人誌などを売り出すことは今後とも無いと思う。私が自分の内心だけに留め置かず公表したい事柄というのは「知られてほしい事柄」なので、その目標に最適化するためには「誰にでも、できるだけ容易に、アクセスできるようにすること」、つまり現状ではweb公開の一手しかない。長期の保全性という観点でも、私がこうして情報を公開しているwebページはできるだけ長持ちさせるつもりでいる(少なくとも、何かよほど特別な事情が生じないかぎり、自発的に閉鎖することはしないつもりでいる。このblggrを選択した理由の一つも、gglならいきなりサービス終了したりはしないだろうという信頼にあった)ので、紙媒体等で発刊するよりも確実だろう。また、メディアの特質としても、私がこうして取り組んでいる関心事項は、残念ながら(モノクロ)印刷媒体には適さない。さらに、個人的事情としても、頻繁に改稿(再編集)したがる性質なので、テキストの確定性の強すぎる印刷媒体はあまり好ましくない。
  ことほどさように私は自作公表手段に関しては実利一辺倒の価値観の持ち主なので、申し訳ないことに、評論系同人誌を刊行することの意義が理解できていなかったりする。「〆切を設けると執筆のモティベーションにつながるよね」とか「『ページ』が確定されるので参照指示を出しやすくなるかなあ」とか「フォントや改行位置やレイアウトを完璧にコントロールできるのは楽しいかも」くらいの認識しかなかったり……。とはいえ、そういえば、このブログはweb検索ではあまり上位に来ない――確かめたわけではないけど、きっとその筈――ので、「誰にでも容易にアクセスできる」ことが実を上げてはいないのだが。


  [ http://onthearmchair.blog110.fc2.com/blog-entry-156.html ]
  [ http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-699.html ]
  E-moteについてはユーザーサイドからその機能面及び演出面の分析/評価がいくつも出て来ていて喜ばしいかぎりだが、立ち絵が「動く(アニメーションする)」という点では目パチ口パク、触覚頭髪、胸揺れ、感情エフェクトなどの局所的アニメーションは以前から3D系作品群を初めとして多くのブランドが試みてきたことだし、台詞進行と歩調を合わせた立ち絵の時間的制御――つまりクリック進行と一対一対応ではない連続的変化――も先行者がいくつも存在するし、そしてそれらを活用した動的視覚演出もすでに数多く存在する(cf. 演出論Ⅲ章1節4款Ⅳ章4節1款βなど)ので、それらの功績の帰属先に関してE-mote過大評価になっているきらいが無くはない。もちろんこの作品がそれらの成果――もちろん、ういんどみる自身の作品群もその中の重要な一部である――を継承しつつこの新たなシステムの中に取り込んでいることも重要だが、暫定的な私見としては、このシステムの新規性は、立ち絵の差分変化を補間したこと(つまりシステマティックにいわば中割りを補ってその移行を連続的なものにしたこと。ただし大きなポーズ変化には対応しきれていないが)と、2Dイラストであったキャラクター立ち絵にはっきりした立体感(空間的な奥行きの要素)を与えたこと、要するに時間的次元においても空間的次元においてもキャラクターの存在を積分して厚みを与えたことにある。そして、もたらされた効果として重要なのは、2D画像表現を3D表現の柔軟性に肉薄させることにあった、という評価になるように思われる。そしてここから個人的見解としては、ここまでやるならば、現代の技術水準とスクリプトワークの手間を考えると、2Dとの折衷よりもTEATIMEやFrontWing(『タイムリープ』)のように3Dの側からオリジナルイラストの筆触を反映させるようにした方が効率的ではないかとも思った。
  また、細かな各論的評価としては、テキストを読む行為と視覚表現を観る行為とのギャップ(視線移動の困難や、双方の間の時間的齟齬の苛立たしさ)が問題であるという主張は私には相変わらずピンと来ないのだが、フェイスウィンドウに対する違和感には同感だし、運動性を増してきた立ち絵シーンと静止画のままである一枚絵シーンとの間の落差(あるいは立ち絵と背景/一枚絵との間の落差)が露呈している――そしてその観点では、一枚絵の価値下落すら生じつつある――という指摘は大筋として首肯できる。とはいえ、静止した空間の中で特定の人物だけがアニメーションしていることについては、例えばアニメでも、喋っている人物以外のキャラクターたちの絵は静止したままであるという映像は視聴者にまったく違和感を与えていないし、また実際に背景画像や一枚絵をアニメーションさせるアプローチも現れている(――アニメーションVFX[age、PurpleSWなど]、事実上の3D背景化[緑茶、elf]、MPEGアニメーション化[SkyFish、lightなど]、AfterEffects使用[SH-sealほか多数]、複数レイヤー化による柔軟性増大とアニメーション化[緑茶、ぱれっと、CUFFS]、SDアニメーション[緑茶、Tinkerbellなど]、等々)。その他、立ち絵のアニメーション化については演出論Ⅲ章2節4款を参照。もちろん、「動的」な印象を与えるのに動画をもってせねばならないとは限らないということは、CROSSNET(ApRicoT)やminoriの作品を見れば自明であるが。

  後日追記いろいろ。
自分がAVGのテキストをどう読んでいるかはほとんど意識したことが無い。クリックして新たなテキストが現れたらそれをまず瞬間的に把握して、それが音声台詞を伴うテキストである場合には画面全体と音声をゆっくり注視する、といった感じだろうか。古典芸能(台本)や映画(字幕)でテキストを読みつつ鑑賞するのと同じだと思うのだが……。
  しかし、AVG表現空間の中でテキストを読む速度またはタイミングをうまく処理しきれないという苦情が頻繁に提起されていることも確かだ。それに対するシステムの側からの処方としては、やはりフキダシ型テキスト表示が最善だろうか。Littlewitch(cf. 演出論Ⅰ章1節)、ALcot(同Ⅲ章2節6款)、緑茶(同Ⅰ章2節)などが採用しているスタイル。
  フェイスウィンドウの機能については、私の意見は以前の覚書で書いたことから基本的に変化していない。
  なお、E-moteも、立ち絵のみならず一枚絵にも利用できることが公式サイトで明言されている:「『E-mote』は立ち絵だけでなく、2Dの演出全般にも効果を発揮します」。
  公式サイトではツール利用ライセンス(参考)価格も公開されたようで、同人利用にはやや手が届きにくいだろうが、フルプライス商業作品としては十分割に合う値のように思える。もちろん、組み込みの手間(=コスト)は別途掛かってくるし見せ方のセンスも問われることになるので、話は単純ではないが。


  いずれにせよ、PCゲームは、「立ち絵+背景」レイアウトやテキストボックスの画面占有あるいは機能ボタン(セーブ、ロード、スキップ、音声リピートなど)の存在に限らず、他の表現分野と比べてもとりわけそのメディアの構造的技術的特徴が露出しやすく、そして同時に、そうした技術要因の変動もそこからの影響もきわめて大きい(あるいは少なくともそうした個々の技術要因が何をもたらしているか、いかなる表現効果と結びついているかが、個別的に把握しやすい)と考えている。実際にも、「システム」面が広報宣伝レベルでもしばしば大きく取り上げられるし、ユーザーもそれらに対して敏感に反応しているのは、ただ単にこの分野がマニア向けであるからということではないだろう。もちろん他分野において表現技術に注目することが相対的に困難であるとか価値が低いとかいうことではないが、このPCアダルトゲーム分野がこの点で喜ばしい状況にあると述べることは許されるだろう。


  北都秋葉と言われてしまうと、なるほどこれは納得するしかない。もし私がキャスティングするなら、ももぞのアルクか一色アルク(最近だったら渋谷アルクとか桐谷アルクとか)、松田シエルか春日シエル、そして翡翠は佐本氏か木村氏か鈴田氏、琥珀さんは姫川氏か有栖川氏か島香氏か宮沢氏でどうだろうか。西田シエルはもはや望むべくもないが……。
  こうしてみると、自分が各キャラクターを(あるいは各キャラクターのポテンシャルと各役者のポテンシャルを)どのように見ているかが否応なく露呈してきてどうにも居心地がよろしくない。


  ……あ、たまひよ氏原画の新作情報が公開されてる!(今頃気付いた)


  いったいどうやったらミィちゃんみたいな暴君にゃんこ様が育つのだろう?



  2012年12月10日(月)
  日中は「もしも『アトラク=ナクア』にキャスティングするとしたら」でずっと妄想に耽っていた。
  奏子役に水瀬氏(セリカ役、彩姫くるみ役)という配役はきっと賛同してくれる方も多い筈だ。たおやかさと芯の強さのバランスをしっかりと見据えて演じられるだろう。姫川氏であれば、無邪気さの中にその境遇の悲痛さを匂い立たせてくるようなスタイルになりそうだし、金松氏だったら想像もできないほど深く役を掘り下げてくれるだろうし、木村氏ならその可憐さとその鬱屈を切々と演じられるだろう。
  主演は難しい。超然的な落ち着きとその背後のゆらぎをうまく掬い上げて定着してくれる方というと、私としては青山氏(宝生聖佳役)を挙げたくなる。静かな述懐シーンでのゆったりとした気品ある語り口と、凛々しく引き締まった激情の科白の双方を演じるのに何の不足も無い役者さん。あるいは、青山初音ではベタすぎると思うなら、涼森初音ではどうか。あの真綿で締め付けてくるかのような巧緻を極めた芝居ぶりもこの役の中で発揮されるのに相応しいだろう。ただし、これは400年を生きてアルカイックな雰囲気を漂わせながらも同時に十代少女の気質をずっと保持してきたキャラクターであり、その落差に敏感に反応できる役者というと、水純氏(中家氏)、藤森氏、「車の人」、そして再び木村氏も、新しい初音像を造り出してくれるかもしれない。水純氏や藤森氏は、声色表現に関しては比較的慎ましくモノクロ志向の印象があり、全体としてはよく整った芝居ぶりを基調としつつも、時として「凄んでみせる」芝居も披露されてきた。強すぎない初音像を構想するなら、こういう方々の演技も良いと思う。個人的には、一番聴いてみたいのは一色初音。そして、西田氏が健在であれば……。


  [tw: 278020658615681024 ]:いいなあ、私もそういうお仕事したかったなあ……。
  ん? これ、"んじゃめな"の方なのか。



  2012年12月7日(金)
  あの食い倒れ制服や水玉多用に代表されるセンスの悪さにもかかわらず、あの目を覆わんばかりの骨格造形の描けなさにもかかわらず、あの変わり映えのしない正面顔とその目元周りの表情の品の無さにもかかわらず、あのイラストレーターが一定の人気を博し続けているのは、全体のプロポーションにくどみが無くて素直なところなのかもしれないと思った。胸部の立体感を過度に強調することもなく、脚部の伸びやかさへの偏愛を示すこともなく、見返り美人などの企みのあるポージングを採用することも(どうやら)きわめて少なく、要するに賛否の分かれる趣向やフェティシズムをほとんど主張することなく、ただ普通の体格のままにキャラクターが立っている。その意味では、分かりやすく付き合いやすい絵なのかもしれない。


  同一構図の再登場や同一画像(差分)の再利用がPCゲームにもたらしている表現効果についていつか書いてみたいとは思いつつ、なかなか着手できずにいる。映像(動画)や漫画の場合と比べても、AVGの一枚絵はその視覚的固定性と価値的特別性のゆえにその同一性が際立たせられやすく、また続編やFDのようにそれを支援する周辺事情もあり、さらには(以前に「ラフ画像」に言及したように)複数の様式の画像を使い分けまたは組み合わせて使える余地が大きく、そしてそれらを活用している例も少なくない。それゆえ、PCゲームという媒体の中でこれをトピックとして取り上げることは意味があると思うのだが、……個別事例の説明が総じて困難になる――分かりやすい事例があまり無い――のと、理論的展望に結びつけるのが難しいのとで、うまい構成がなかなか思いつかない。それが成功した瞬間は、たしかにとても素晴らしいものなのだが。



  2012年12月3日(月)
  添い寝CGの魅力に気付かせてくれたのは『宵待姫』(2004)が最初だったかなあ。良い作品でした。



  2012年12月1日(土) 
  この雑記も10ページ溜まったら簡易目次くらい作ろう、と過去に書いた憶えがあり、実際にもそろそろいつ何を書いたかがすぐに思い出せなくなりつつあるのでそういう整理は有用ではあるのだが……自分の書いたもの(つまり自分で一度思考した話題)を読み返していくのはやはり面倒に感じる。せっかくなので日付タグ(によるページ内部ショートカット)を設けておきたいところだが、何故かnameタグがうまく利かないので挫折。

  ふと気付いたんだけど、以前は"~.blogspot.com"だったのが、いつの間にかjpドメイン表示になってるんだね(――2012年3月~4月頃から?)。urlを".com"で入力しても".jp"として表示される模様。ユーザーアカウント準拠なのか閲覧環境準拠なのかは確かめられないけど。アドレスを書く時はどちらにしておくのがいいんだろうか。リダイレクトの仕様を考えると".com"にしておく方が無難なのかな。

  雑記欄目次のページを作ってみたけど……試してみたらいろいろと嫌になったので削除した。取捨選択のために各コメントの重要性を自分で再判定するのも嫌だし、かといって全てのコメントを網羅的に指示するのもバカバカしいし、仰々しく要約するのも私の趣味ではないし、そして読み返していくのに気が乗らない。


  年明けあたりに引越しをするので、 しばらく趣味生活が滞りそう。引越したら……自分のしたいことに集中できる環境になるといいなあ。

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