『神楽』シリーズについての雑感。
『紅神楽』(※リンク先はアダルトゲームサイト注意)は寺岡健治氏が復帰されるようなので期待している。伊東サラ&青井美海両氏のツートップキャストでもあることだし。このシリーズ、誰かにおすすめしたいという種類のものではないが、しかしこの日本の-男性向け-アダルト-美少女系-SLGの複雑な土壌から生まれたことに由来するその特有のコンセプトとその不思議な肌触りは、新作が出る度にアンビヴァレントな気分とともについプレイしたくなる。
ゲームパートの基本仕様はオーソドックスなステージ制SRPGあるいはローグ型多階層RPGなのだが、ゲームパート上でヒロインユニット(ちなみにシリーズのほぼ全員が神社付きの「巫女」キャラクターだ)が撃破されると、彼女を撃破した当の敵種族――各作品に十数種類存在する日本妖怪――からの蹂躙を描くAVGパートに移行する、というもの。プレイヤー次第で、ヒロインたちを一切そうした被害に遭わせずにエンディングを迎えることも可能である(そうすれば物語上のベストエンドに到達できる)が、イベントCGの配分からしても作品全体において被蹂躙シーンはかなり大きな比重を占めており、それらを一切見ずにゲームを終わらせようとするプレイヤーはほとんどいないであろうし、撃破されても即座にデッドエンドになるわけではない(その都度ヒロインは救出されることになる。過度に繰り返せばバッドエンドのフラグを満たしてしまうが)という余裕も与えられている。他方で、ゲームパート(SLGパート)と交互に発生する物語パート(AVGパート)では、温和なコメディ基調のストーリーがゆったりと展開される。一般的なラブコメAVGと比較して、このシリーズのキャラクター造形はそれほど極端に恣意的なものではなく、それなりに道理に即した節制があり、また、それらのストーリーイベントの描写はそれほど濃密なものではなく、距離を置いたユーモアに包まれている。そして、しかも、そうしたAVGパートの進行フラグは(ということは、そのシーン構成とそれらのムード全体は)原則としてSLGパートで蹂躙シーンを発生させたか否かに影響されず、表面上は――その経緯の異同をプレイヤー個々人がどう感じるかは別として――同一のままである。
要するに本シリーズの奇妙さは、クラシカルに風通しよく肩の凝らない美少女コメディへの志向(ただしヴォイス付き男性主人公の魅力を表現することも躊躇されていないが)と、巫女ヒロインに対する醜怪な妖怪たちのグロテスクな蹂躙シーンという、男性向けアダルト美少女ゲームならではの、しかもどちらかといえばいささかオールドファッションな――とりわけ寺岡テキストにおいてはアダルトシーンも官能小説的(と言えばいいのか)な粘ついた地の文を伴って三人称的に表現されている――二つの分野的要請が、SLGパートを媒介しつつ一見無頓着に同等の比重を持って併存していること、しかもそれを後押しするのはalicesoftのような露悪趣味でもなくSHCのようなハーレム志向的支配欲の表出でもなくEscu:deが時折覗かせたような酷薄さでもなく、またEushullyのようにSLGパートの鈍重さによって塗り潰されてしまうこともなくtriangleのように敵対関係というエクスキューズを与えられることも無いままに、すべてがこの難易度の低いゲームパートにおける他ならぬプレイヤー自身の操作の帰結として――すなわちプレイヤー自身のまったき責任の下に――生じていくという点にある。システムによる許可/不許可の形式的機能的区分を別とすれば、その敵対者へのツッコミすら躊躇されないアモラルなコメディ基調のゲーム世界の中では、プレイヤーに対して特定の実体的道徳(プレイヤーとしての行為規範)が直接的に突きつけられることは、(所与として作品コンセプトそれ自体の中にあらかじめ埋め込まれている「巫女」の清浄性の表象を除いては)幸か不幸か基本的に生じない。PLの主体的選択の結果であるという条件とその結果それ自体はPCの目を離れた場所でしばしば三人称的に遂行されるという事実性とのギャップ、そして巫女と妖怪との間の無惨美的結合、そしてこれらの奇怪な――こうして外在的に記述すれば「奇怪」と言いたくなるような――共存が、作品それ自体の中では男性向け-アダルト-美少女-シミュレーション-ゲームの大きな因習的共通了解の膜にくるまれてむしろ率直かつ自然なもののように捉えられるようになっているというその体験の(当事者にとってはおそらく幸せな、しかし局外者の目で見ればきっとおぞましい)肌触りである。
(2012/06/06公開。2013/05/15単独記事化)
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