PCゲームにおけるワイド化の目的と意義をめぐる小考。
【 はじめに 】
ワイド化を機縁として演出強化がもたらされた(あるいは補填的な演出的加工が強いられるようになった)という説明がなされることがある(――例えば[tw: 326291356060368896 , 326291571467227136 , 326294114570215424 ])。これは筋の通った説明であり、そうした側面もあったのであろうが、しかしおそらくこれはあくまで後発メーカーの視点(あるいはいかにも10年代時点からの回顧的評価)であって、最初期にワイド画面を意識的に導入したパイオニアたちの認識(問題意識と導入意図)はむしろこれと逆の経緯だったと言うべきだろう。具体的にはPurple SW(『秋色謳華』[2005]で初めてワイド化)、age(『オルタ』[2006])、緑茶(『片恋いの月』[2007])のことだが、これらのブランドはいずれもワイド解像度採用以前からそれぞれ独自に複雑な画面演出を追求してきたブランドでもあった。00年代後半のゲーム画面ワイド化は、ユーザー環境においてワイドディスプレイ比率が高まっていたことに対応するための、その意味では受動的な側面もあっただろうが、けっしてそれだけではない。そしてむしろ、緑茶作品に典型的に見られるように、ブランドが追求する表現スタイルから要請された(あるいは表現スタイルの追求から演繹された)選択でもあったと考えるべきだろう。
【 すたじお緑茶のばあい 】
すたじお緑茶は『巫女さん細腕繁盛記』(2004)の頃から多人数会話劇に注力してきたブランドである(※――日常シーンのコメディ会話劇を重視する趨勢は『はぴねす!』[2005]を大きな契機として普及したと思われるが、00年代前半当時としてはかなり珍しい志向だったと記憶している)。当初はフェイスアイコンを多用することによって、多人数の同時存在を表示しており(cf. 拙稿「フェイスウィンドウについての覚書」)、次いで『プリンセス小夜曲』(2005)では立ち絵スクリプト振り付けとフキダシ型テキストボックスを導入することによって、その複雑な視覚表現を展開していた。しかしながら、4:3画面のままでは立ち絵の並列表示数には限界があり、フェイスアイコンでも多人数表示は縦に並べるしかなかったし、立ち絵振り付けには限界があったように思われる。そうした過去作品の延長上に置いて見る時、『片恋い』のワイド画面(※WSVGA相当)導入には、「ユーザー環境への対応」のような消極的対応にとどまらない、画面レイアウトのための積極的意義が見出される。この作品では、その主な舞台となるサークル部室で、しばしば十人以上の多人数が立体的に立ち絵配置され、複雑でにぎやかな会話劇が展開されていく。その後の作品群を見ても、ACTGパートを含むミドルプライス級タイトル(『マジカライド』[2008])では4:3画面(SVGA)に立ち戻って3Dアクションゲーム空間の奥行きを機能的に表現しつつ、フルプライス級のAVG作品(『恋色空模様』[2010]、『祝福の鐘の音は~』[2012])ではワイド画面で水平方向の広がりを生かして多人数会話と立ち絵振り付けに注力するといったように、目的に応じた使い分けが見て取れる(cf. 演出論Ⅰ章2節)。
【 Purple softwareのばあい 】
Purple softwareの推移はいっそう複雑であり、特徴的であり、そして示唆的である。『秋色謳華』は、『秋色恋華』(2005年発売、4:3画面)のFDであるが、敢えてワイド画面が採用されている。インターフェイスや背景素材がそのままでは流用できなくなる(※例えば背景画像については、本編『~恋華』のものを拡大表示することでワイド画面に対応させるという強引な対処が採られた)にもかかわらずこのような転換を敢行したのは、明確な挑戦的意志を想定しなければ理解できない(※――なお、『秋色謳華』の実験的性格は、当初は即売会での限定販売アイテムであったという事情も含めて考慮すべきだろう。市場で一般発売されたのは、三年後[2008年]のセット商品『秋箱』になってからである)。このブランドは『謳華』に続いて『プリミティブ リンク』(2006)でもワイド画面を試み、そこでは主に立ち絵の空間的展開という点でみずからの見識の先進性をはっきりと示したが、(一見すると奇妙なことに)『明日の君と逢うために』(2007)からはふたたび4:3画面に回帰した。『明日君』『春色』でプレイヤーが目にすることのできる演出技術上のいくつもの実験(背景アニメーション、ズーミング表現、見切れ演出、等々)に鑑みていえばこれは表現上の要請に即した妥当な解像度選択と思われるし、そしてこのことは、画面解像度の選択が画面レイアウトの設計を初めとする表現スタイルの選択と深く結びついた問題であることの優れた例証にもなっている。そしてこのブランドが『初恋サクラメント』(2010)でふたたびワイド画面(1024*576)を採用した時には、多人数会話に最適なフキダシ型テキスト表示システムを伴っていた(cf. 演出論Ⅰ章3節)。
【 ageのばあい 】
ageについては、『君が望む永遠』(2001)と『オルタ』(2006)の間に発売された一連のタイトルをきちんとプレイしていないので十分に根拠づけられた展望を示すことができないが、『君望』の時点で立ち絵距離感演出(奥行き演出、立ち絵サイズ変更など)、字幕志向のテキスト表示、そしてエンジン制御された数々のVFXに代表されるように様々な技術的開拓を行っており、それゆえここで立ち絵演出や多人数状況や空間表現がワイド採用に(時間的論理的に)先行していたことが窺われる。『マブラヴ オルタネイティヴ』の場合は、冒頭の国連軍兵士の潜入シーンの造形からすでに明らかなように、映像作品に擬した雰囲気が追求されており、ワイド画面の選択はここでも作品内在的に意味のあるものとして受け取ることができる。
【 おわりに 】
このように、個々のブランドとその作品内容を振り返ってみるとき、解像度の変更はただ単に外在的な事情からの機械的な帰結であるだけでなく、その都度の表現の目的に照らして意識的に選択されたものであるという側面も十分考えられるし、あるいはもしかしたらゲーム表現技術の実験と開拓そのものも彼等の実質的目標――例えばプログラマ個人にとっての――となり得るということも想定されるべきだろう。
【 余録 】
歴史的/技術的/分野的なオリエンタリズムは注意深く避けねばならない。「当時の技術的限界のおかげで~だった」(例:PC環境の制約)とか、「○○分野だからこそ~なのだ」(例:アダルトゲーム分野)といったものに還元する思考は、社会的現象について安易に適用することが不当である以上に、創作物に対して適用しようとすることははるかに不当なものになる。
……いえ、上で言及した方がその弊に陥っているという話ではないが。ワイド化に関してはおそらくパイオニアの側ではなく、ワイド化の波を後から被ることになった大多数のゲーム制作者の側に属する(あるいはそれらを観察者として見た)と思われるその方の、ご自身の置かれた状況とその経験においては、ワイド化に対応することによって演出上の新たな問題に直面することになったというのが実情だったのだろうし、それは事実の問題であって議論の(論理的/道徳的)正当性の問題とは基本的に関係無い。
(2013/05/07公開。2013/05/15単独記事化)
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