2012年7月8日日曜日

PCゲームにおける黙説

  はじめに
  1. テキスト上での(通常の)黙説
  2. 音声表現を利用した黙説
  3. 視覚表現と連動した黙説
  4. AVG作品における構造的分割と黙説
  5. SLG作品における構造化された黙説
  むすびにかえて



  《 はじめに 》
  多様かつ複雑に広がっているPCゲーム表現は、様々な表現技巧を独自に発達させ、あるいは他分野における様々な表現技巧を摂取し応用してきている。その中には、修辞学でいう「黙説」に相当する表現技巧もまた様々な形で現れている。ここでは、伝統的な修辞学において――ということは純粋に言語上の表現に関して――展開された「黙説」定義からは自由に、「具体的に描写していない(語らない)にもかかわらず、あるいは描写しないことによって、特定の意味内容を表現する」技法のことを意味しつつ、いくつかの実例を紹介検討していきたい。
  もちろん、視聴覚複合メディアであるPCゲームにおいては、それらは「修辞」というよりも「演出」の語の下に置かれるのが相応しいであろうし、AVG演出論の各論的一部とすることを意図しているが、さしあたってはその相違は重視しない。ここで重要なのは、PCゲーム――すなわちデジタル媒体の視聴覚メディアでありかつユーザー(=読者=プレイヤー)の参加によって成立する媒体――に特有のシステマティックな修辞的表現を見出し、それらを適切に評価していくことである。

  《 1. テキスト上での(通常の意味での)黙説 》
  現代のPCゲーム、とりわけAVGは、原則としてテキストとともに進行していく。それどころか、ゲームの進行をユーザーが制御する基盤それ自体がまさにクリックによるページ送りメカニズムに、すなわちテキスト更新命令に、依拠している。局所的オート進行や複数テキスト同時表示あるいは副音声科白といったいくつもの逸脱的=修辞的事例の存在にもかかわらず、その基本構造それ自体は保存されており、それゆえ、通常の言語表現(小説等)における黙説をそのままPCゲームにも転用することは可能であり、そして実際にも度々行われている。

  《 2. 音声表現を利用した黙説 》
  プレイヤーによる参加的側面を必然的に伴うPCゲームは、それに由来する一種の主観規定性を持つため、ある登場人物の科白が他の登場人物には聞こえないといった描写が物語進行の中で黙説相当の効果を帯びることがある。例えば、登場人物の科白の一部が、テキスト上では三点リーダで省略されている(そして他の登場人物には聞こえなかったことになっている)にもかかわらず音声上ではプレイヤーがはっきりと聞き取れる声を出している場合、そのテキスト上でのかりそめの隠蔽が逆説的にその部分の重大性をプレイヤー(読者)に対して強く印象づけることになる。一例として『Signal Heart』(Purple software、2009年)に、その美しい実践を見る(聴く)ことができる。

『Signal Heart』 (c)2009 Purple software

テキスト上では「その……みたいだなって」と省略されている箇所で、声優(五行なずな)は「その、運命の人みたいだなって」とはっきり発声している。したがって、その台詞を聞き逃した主人公とは異なって、プレイヤー自身はその言葉を正確に認識することができる。
(※左記引用画像はバックログ画面)


  《 3. 視覚表現と連動した黙説 》
  ある現象、ある存在、ある像が画面内に描かれないことが、その描かれないものへの想像を強くかき立てる。一枚絵のレイアウト設計、画面外へのツッコミ、顔の見えない主人公など、それを実現するための契機はAVGの中に無数に存在する。
  なかでも、立ち絵表示というごく一般的なAVG画面構成要素を手掛かりにした『片恋いの月』(すたじお緑茶、2007年)の大胆な試みを紹介しよう。早期のワイド画面採用例である本作では、その横幅を生かしてしばしば多数の立ち絵が同時表示される――つまり、その都度の台詞を担わないキャラクターたちも、その場面に居合わせていることを表現するために、常に画面内に立ち絵が表示され続けている。ところが、複数の立ち絵が賑やかに表示されるその物語の中で、ある登場人物がその世界から消滅する(――名高い『ONE』[Tactics、1998年]のそれと同じように、その人物の物理的存在が消滅し、そして人々の記憶からも失われる)。ただし、消滅直前の暗示的なシーン以降、その消滅の事実はいかなるかたちでも直接的には指摘されない。多くの登場人物たちが集合し歓談しているサークル室内風景に、そのキャラクターの立ち絵のみが現れなくなっているだけである。それまでの長い日常シーンが各キャラクターの存在を忠実に視覚表示し続けていたからこそ、この隠微な不在表現は明白かつ決定的な修辞として作用している。

『片恋いの月 えくすとら』 (c)2008 すたじお緑茶

本作は、フキダシ型テキスト表示を導入しつつ、ワイド画面上に多数のキャラクターを立体的に配置することによって、多人数会話を明晰に表現している。この画像はファンディスク作品のものだが、本編タイトルにおいてもこのスタイルは同じである。


  《 4. AVG作品における構造的分割と黙説 》
  伝統的な小説理解におけるような単線的進行の観念(とそれを踏まえた直線的把握)を明示的に覆す様々な手段をPCゲームは備えており、そしてそれらのその都度誂えられたメカニズムの間隙に、いくつかの描写を溶かし込むことができる。ここではAVG作品におけるa)分岐並列による分割、b)周回プレイに内在する分割と接着、c)システムによる分割、d)その他、の四者を概観する。

  a) 最も代表的なのは、物語の分岐展開とそれらの各分枝の間の(時として非対称的な)照応関係を設けるものであり、遅くとも『果てしなく青い、この空の下で…。』(TOPCAT、2000年)には、あるいはさらに遡って『痕』(Leaf、1996年)や『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf、1996年)の時点でも、すでにこの意識は成立している。ある一つの物語分枝のある時点で、他の場所で何が起きているであろうかを、プレイヤーは他の周回において経験していたとしても、しかしそれは今回の周回のこの物語の中では前景化されていない、あるいは、この周回の物語の中では「語られていない」。そのような焦点化による描写の奥行きを、分岐構成は提供することができる(――ただし、分岐展開を含む物語進行の総体的把握に関する大きな議論は、この小論の射程を超える。単なる開放的併存ではない分岐間の全体的整合性の観点の導入;唯一の正解とも異なる「トゥルーエンド」概念の成立;複数の結末を再統合する「ループゲーム」との関係;恋愛SLG由来のマルチエンディングとミステリ作品における正解追求との絡まり合い;読み物AVGの出発点としての『かまいたちの夜』[チュンソフト、1994年]における、すなわち当初からの開放的多様性;システム要素と物語要素の関係、等々。検討すべき論点は多岐に亘る)。

  b) 複数の分枝結末が含まれるという事情もあり、現代のPCゲームは、低価格作品に見られるようなごく例外的な一本道AVGを除いては、複数回のプレイを予期した構成になっているのが通例である。併存する複数の展開を、水平的併存のままにするのではなく、システムの側がそれらの間に一定の(進行上の/内容上の)序列を設定することも多い。グローバルフラグによる進行ロックから包括的なループゲーム構想に至るまで様々な手段があり、そしてそれらの順序立てられた展開群の間に――それらの間の間隙に、あるいはそれらの間の関係のうちに――様々な隠蔽と暗示そして黙説が差し込まれている。

  c) 物語の非直線的進行は、選択肢による分岐以外にも、様々な手段によってシステマティックに表現される場合がある。例えば、視覚化されたイベントフローそれ自体が、分割と断絶による黙示的飛躍の作用を果たす場合がある。そのメカニズムは、単なる視点移動(ザッピング)の視覚化を超える組織だった強調機能を持つ。

  d) その他。本編以外の要素の介在、あるいは単一作品を超える分割と延長など。例えば連作構成や、公式サイトの外部情報など。

  実例検討。この観点で最も明示的かつ最も徹底的な取り組みを示しているのが『マブラヴ』(age、2003年~)シリーズである。物語の基盤部分にSF的ループ状況を内在化している本作は、まず『マブラヴ』では最初の周回とその分岐群を扱い、続いて『マブラヴ オルタネイティヴ』ではそれら過去の周回を認識しつつ再挑戦する結末的周回を描いている。この『マブラヴ』と『オルタ』との2作品分割は、制作規模という外在的事情による偶然的な結果であったかもしれないが、しかしその分割によって『オルタ』の物語は、『マブラヴ』の物語を暗黙裡に前提としつつも、局所的にはフラッシュバック等による断片的示唆を提供し、周回進行ならではの重層的な物語構築とそれらの隠微な暗示表現とを両立させるものとなっている(――『オルタ』の内部でもヒロイン選択による部分的なイベント差分変化は存在するが、その変化は物語の全体的進行には一切影響を及ぼさず、また回想モードを拒絶している本作においては、その変化は重要なものとは見做されていないかのようである)。
  選択肢文言それ自体が、採り得たかもしれなかった代替的可能性を暗示するという場合がある。『雪影』(Silver Bullet、2006年)の一択選択肢はその典型であるが、その他にも選択不可能な選択肢(クリックしても実行できない選択肢候補)を提示するという形態もある(※――『雪影』については演出論Ⅳ章4節4款を参照)。
  PCゲームには、複数の周回プレイの間の連続性を物語上内在化するループゲームがいくつも存在し、そしてそれらはプレイヤーに対して以前の周回の内容を当然に前提とさせつつ、それによって様々な省略と暗示を行っている。例えば『夢幻廻廊』シリーズ(Black cyc、2005/2008年)は、以前の周回と同様である部分を大胆に省略し、あるいは以前の周回との相違を様々な形で示唆する(例えば特定のキャラクターの立ち絵が変化している)というかたちでプレイヤーに対する言外の示唆を大量に湛えている。さらに、「ANOS」という進行巻き戻しシステムを備えた『そう、あたしたちはこんなにも理不尽な世界に生きているのだらよ』(自転車創業、2008年)では、一続きの状況を繰り返しプレイしつつ、その映像と音響の時間的進行の中に隠されている黙説の手掛かりをプレイヤーが遂行的に解凍していく過程それ自体がゲームの目標とされている。
  Lassは、ループゲーム『3 days』(2004年)を手掛けたのち、『11 eyes』(2008年)においては視覚化されたイベントマップ(「クロスビジョンモード」)を搭載しているが、そのマトリクスは全ての視点全ての時点の桝目にイベントが用意されているわけではなく、そのためプレイヤーはその空欄に対する想像を刺激されることになる。システマティックな黙説の一種と言える。

『11 eyes』 (c)2008 Lass

「クロスビジョンモード」のゲーム序盤の状態。ゲーム進行とともに、 このマトリクス上に新たなイベントがオープンされていき(青色マス)、それら本筋以外のイベントをプレイヤーは任意に閲覧することができる。他方で、空欄のまま最後までイベントが充填されない桝目も多数存在する。

  その他、物語の重要な一部分を本編以外の場所に取り分けておくことによって、本編部分に対して様々な効果(暗示、謎、不確定性、余韻、等々)をもたらす手法は、PCゲームが得意としてきたことである。例えば過去の重要なシーンをOPムービーの数秒の中に紛れ込ませた『明日の君と逢うために』(Purple software、2007年)。あるいは本編クリア後の「おまけシナリオ」の中に物語の重要な情報を保管している『いつか、届く、あの空に。』(Lump of Sugar、2007年)。そして『はなマルッ!2』(Tinkerbell、2008年)は、大量の過激蹂躙描写を丸々「ifシナリオ」にパージしておくことによって、本編それ自体は終始人畜無害な純愛物語のままであるにもかかわらず、そこに陰惨さの印象をまとわりつかせている。続編作品において前作の主人公たちが結婚しているといった場合もある(――例えば『Piaキャロットへようこそ!!』シリーズ[カクテル・ソフト、1996年~])。あるいは公式サイト等の外部情報でキャラクターに関する特定の事実を識らせている場合もある(――例えばキャラクターたちの年齢をOPムービーの「レベル」表記で暗示する『こんそめ!』[Silver Bullet、2010年]、あるいは同じ事柄を「好きな数字」で暗示する『すえぜん!』[CONCEPT、2006年]など)。PCゲームは、このような様々な分割(と再連結)に開かれており、そしてしかも、その距離と空隙の中にも様々な意味が差し挟まれている。

  《 5. SLGにおける構造化された黙説 》
  現在の大多数のAVGはフローチャートのようにまがりなりにも「線」的に理解することができる場合が多い。ただし、調教AVGと並んで、複雑なフラグ体系を伴う『ワンダリング・リペア!』(Escu:de、2008年)、比較的自由なイベント進行を可能にする『FESTA!!』(Lass、2005年)、大規模なハイパーリンクシステムを備えた『最果てのイマ』(xuse、2005年)、場所移動システムによってSLG相当の自由度を持つ『THE GOD OF DEATH』(Studio Mebius、2005年)や『クロウカシス』(Innocent Grey、2009年)、自由なページ遷移を許す「デジタライズドゲームブック」の『蠅声の王』(Lost Script、2006年)及び『長靴をはいたデコ』(Lost Script、2007年)、そして断片化されたイベント群の集積であるいくつかのFD作品のように、例外と目されるべき作品はあるが。
  それに対して、特有の進行制御システムを持つSLG作品においては、ゲームの進行は――そしてそれゆえ物語の進行は――、プレイヤーのその都度のアクション(入力)に対して複数のフラグをその都度参照しつつ随時イベントを取捨選択して展開される「組織立ったネットワーク」なのであって、なおさら「一意に確定される、本来の、単線的な物語」は存在しない。長大なAVGパートの間にミニゲームが挿入されるような半SLG作品はともかくとして、alicesoftの大作SLGやソフトハウスキャラのほぼ全ての作品あるいはEscu:deのいくつかの作品(例:『ふぃぎゅ@メイト』[2006年])のような正格のSLG作品は、ハイパーフィクションになっている、あるいはハイパーフィクション以上のものであると言ってよい。さらに、PCゲームにおけるこれらのSLG作品は、当然ながら単なる数学的シミュレーションではなく、AVG+SLGの複合表現である。すなわち、それは第一に物語要素をも作品全体を構成する重要な一部分として含んでおり(AVG要素=「物語」要素:それゆえAVG+SLGは、物語として受け取ることが正当に許可される)、第二に同時にある架空状況を仮想的に実行するシミュレーションであり(「シミュレーション」要素:それゆえ、描写されない細部の成り行きに対するイマジネーションが存在する余地がある)、そして第三にプレイヤーが参加的に遂行することによって完成する媒体である(「ゲーム」要素=「参加」要素:それゆえSLGの物語は、プレイヤーの想像力とともにある)。特有のシステムを持つ複雑かつ包括的なシミュレーション空間においては、多くのことが語られ、あるいは語られず、あるいは語られたものと見做される。テキストイベントとして描写される個々の出来事は、その仮想的状況全体のごく一部でしかないのであって、テキスト上では語られない無数の状況が、システムの運行の中で明示的または黙示的に表現されている。そしてプレイヤー各自は、まさに文字通りの意味で、自身の物語を実際に形作っていくことになる。
  例えば、ある一連のイベントが進行していたがその途中のフラグを継続することにプレイヤーが失敗したためにイベントが途絶したという場合を考えよう。典型的には、『英雄×魔王』(Escu:de、2005年)や『戦国ランス』(alicesoft、2006年)で、特定のターンまでに特定の地域を制圧できれば特定ヒロインとのイベントが発生するが、その期限を過ぎればもはやそのイベントは発生しなくなる、という状況である。ここで途絶したイベントは、そこでプレイヤーが関与していくことができたかもしれないが実際には関与しなかった(そしてもはや関与できなくなった)形でその状況が進行していったのだと想像される。このような想像が許されるのは、SLGが通常の意味での(受動的な)フィクションではなく、インタラクティヴィティとシミュレーションと兼ね備えたメディアであるからである。無数のイベント(の実現可能性)があらかじめ胚胎しており、そしてその中のいくつかが個々のプレイヤーのゲーム進行の中で実際に発生したりしなかったりする中で、具体的には語られていない状況を想像し、あるいは発生しなかったイベントの成り行きを想像し、あるいはイベントの代替的可能性を想像することは、シミュレーション・ゲームにおいては通常の事態である(――なお、SLGにおける「語られていない状況」とAVGにおける「選ばれなかった可能性」とは、私見では同義ではなく、それゆえAVGにおける物語進行の代替的可能性に関する議論の多くはその前提において致命的な誤謬を犯しているように思われる)。
  このような、SLGがプレイヤーの想像力を介在させ得る資格のある一般的性質だけでなく、SLGのそれぞれのメカニズムもまた、それぞれに特有の物語表現上の機能を持つ場合がある。例えば、ターン制進行の作品においては、ある継続的状況を描写するのに毎ターン律儀にイベント発生させる必要は無い。『忍流』(ソフトハウスキャラ、2009年)には、捕縛した敵勢力の重要人物を手懐けていく一連のシーンがあるが、この数ターンを要するイベントでは、毎ターンの当該事象のテキストイベントは次第に切り詰められていき、途中でイベントはまるで忘れられたかのように発生しなくなり、そしてさらに数ターンを経過してようやく思い出したかのようにイベントが再開されて、その人物は寝返りを決意する。この数ターンのおそるべき沈黙は、ターン経過が事態の経過をも必然的に含意することを活用した、SLGならではの雄弁な表現である。同様に、同一コマンドの反復実行に伴う描写の漸次的変化も、事態の日常化を暗示するシステマティックな表現の一種である。
  あるいは、ターン進行の合間にランダム発生する幕間イベントの中にたち現れてくるイベントのつらなりも、「語り」と「沈黙」の間の曖昧さを演出として活用している。『雪鬼屋温泉記』(ソフトハウスキャラ、2011年)の、仲居と式町レイコの一連のイベントを例として挙げよう。身分を隠して温泉宿に逗留している有名人の「式町レイコ」(名前有りのサブキャラクター)のとげとげしい空気に対して、物腰柔らかな対応を維持し続ける「気配りできる仲居」が、次第に信頼を得ていくという、脇筋の連鎖イベントである。ただし、その序盤のシーンはその他の単発の幕間イベントと同じように素っ気ないかたちで進行し、それゆえイベント連鎖の最初の数個の間は、プレイヤーはそれらが一続きのイベントであるということに気づきすらしない。大量の幕間イベントが立ち現れては流れ去っていくその偶然性の中に紛れつつ発生してくるこの連鎖イベントを何度か目にする中で、プレイヤーはようやく、この温泉旅館にまつわる無数の人々の中でこの二人を識別するようになる。しかし、この発生優先度も低い脇筋の連鎖イベントは、直前のターンからロードすれば再現されないかもしれないような偶然性の頼りなさと脆さの中で、イベントが時折つながっていったり、あるいは続ききらないままゲーム本筋が最終ターンに達してしまったりする。それどころかプレイヤーは、この回想モードに登録されない連鎖イベントを終わりまで見届けたという確信を持つことすらできない。しかしながら、このような特有の連鎖イベントが存在することをひとたび認識したプレイヤーは、ここから様々な可能性を意識することになる。すなわち、この連鎖イベントがまだ続いているかもしれない可能性、この他にも連鎖イベントが存在する可能性、そして連鎖イベントでない単発の幕間ランダムイベントにも同様に特有の個性が見出される可能性、等々を。そしてこれらのイマジネーションは、経営ゲームの次元をほとんど超えて、この架空状況における宿泊客たちと仲居たちのあり得る生活のリアリティに対するイマジネーションをすら刺激することになる。このように、ランダム発生する脇筋イベントを手掛かりにすることによって、実際にテキストイベントでは語られていないがきっとそのシミュレーション空間に存在したであろう無数の出来事に対する想像力を、SLGは自己の正当な権限に基づいて引き出すことができる(※――『雪鬼屋』については[ http://twilog.org/cactus4554/date-110715 ]で述べた)。

  《 むすびにかえて 》
  現代の美少女(アダルト)PCゲームは、非常に強固なかたちで「物語」要素及び「キャラクター」要素と結びついているが、それだけでなく、複合的な視聴覚メディアとして高度に発達してきているという側面もある。そうした中で、物語やキャラクターを効果的に表現するための一般的な技術的手段も様々に開拓され、あるいはその都度の特有の表現のための特殊な仕掛けが試みられてきた。本稿ではさしあたり「黙説」という一つの修辞的側面について暫定的な展望と簡単な事例紹介を提示したのみであるが、AVGはなにごとかの「存在」だけで「不在」をも表現することができるということ、しかもそれは「音声表現とテキストのずれ」「立ち絵システム」「分岐構成」「ターン制進行」といったゲーム特有のメカニズムの中で様々な形で展開されていることを例示することができた。現代のPCゲーム表現の豊かさに関する一つの証言となることができたならば本稿の目的はほぼ達成されたと言える。

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