――『アトラク=ナクア』のオーディオブリッジ演出を例として――
はじめに
1. PCゲームにおけるBGMの機能
(1). 楽曲の内容による感性基軸の音響的適合
(2). 楽曲の固有性による意味基軸の音響的表示
(3). 楽曲間の切り替えによる構造基軸の音響的制御
小括:シーンの一体性保障としてのBGM
2. 『アトラク=ナクア』におけるオーディオブリッジ
(1). 「サチホ」の章における「Running Clouds」
(2). 「タカヒロ」の章における「Red tint」
(3). 「終章」における「Atlach_nacha ~ Going on」
むすびにかえて
《 はじめに 》
現代のAVGは、テキストと画像と音響のシステマティックに制御された複合表現として存在する。そしてその中では、文字表現における様々な挑戦、視覚表現における様々な技術的実験と並んで、音響表現の側面でも様々な演出技巧が試みられてきた。本稿では、それらの複雑かつ巨大なプリズムの中で、「BGM」という一構成要素に焦点を当て、それがPCゲーム表現全体の中で果たしている特殊な作用について検討する。
《 1.PCゲームにおけるBGMの機能 》
PCゲーム表現にとってBGMは何物であるのか。コンピュータゲームの中で、BGM(音声台詞や効果音による特定の具体的音響とは異なる、継続的な音響出力)がどのような機能を果たしているのかを概観することから着手しよう。
《 (1). 楽曲の内容による感性基軸の音響的適合 》
まず直感的に挙げられるのが、個々の楽曲が持つ曲想を通じてその場面に特定のムードを付与する、というものであろう。このBGM観を最も典型的に示している一例が、『水月』(F&C、2002年)である。この作品は、BGMにそれぞれ「のどか」「明るい」「苦悩」「悲しさ」といった直接的な曲名を与えており、そして実際に作中でもそのとおりの場面でBGMが使用される。
それらのムードをプレイヤーに感じ取らせるために、音楽が持つ様々な構造要素が使い分けられる。すなわち調性、リズム(と速度)、音量、メロディ、そして主題-変奏型BGMにおいてはとりわけ楽曲編成が重要であり、例えばのどかな戸外のシーンに合わせたBGMでは木管が息の長い旋律を歌い、夜景のシーンでは緩やかなテンポのピアノ曲となり、夕暮れの風景はヴァイオリンソロが導き、寛いだ場面ではギターが軽やかに爪弾くBGMが流され、勇壮な戦闘シーンでは金管やパーカッションが荒々しく奏でられ、センチメンタルな回想シーンはオルゴールアレンジで現れる。
《 (2). 楽曲の固有性による意味基軸の音響的表示 》
さらに、それにとどまらず、個々のBGMがよりいっそう具体的に特定の意味を担う場合もある。典型的かつ古典的な例は、複数のマップ乃至フィールドを持つゲームにおいて、そのそれぞれに対応するBGMが流されるというものである。すなわち、ACTGにおける各マップ固有のBGM、あるいはSTGや対戦格闘ゲームにおける各ステージの専用BGMなど。そしてこれは、マップという「場所」の要素以外にも使用されるようになる。例えば、ターン制戦略SLGにおいて主要な各勢力の行動フェイズ毎に固有のBGMが流れるのは「行為主体」の要素に着目した特有のBGM割り当てであり、あるいはSPRG作品において行動指示フェイズと戦闘実行フェイズとでBGMが切り替わるのは「時間継起」の層の相違を表すものと言えるだろう。
さらに、物語要素と深く結びついた作品――とりわけAVG――においても、これに類する様々なBGMの使い分けが見られる。代表的な用例の一つは、(a)個々のシーンの特定の性質を表現するために特定のBGMを使用する場合である。例えばSTGやRPGでは、強敵との遭遇場面ではBGMが専用のものに切り替わる。あるいはアダルトゲームにおいては、アダルトシーンのための特有のBGMが用意されているのが通例である。もう一つは、(b)主要キャラクターそれぞれに対応して用意された「キャラクター専用BGM」(各キャラクターのテーマ曲)である。特定の登場人物の存在表現に関わるキャラクター専用BGMは、音響出力を伴うコンピュータゲームがキャラクター要素を前面に押し出すようになった時点ですでに行われており、そして現在でも――複雑化した現代AVGにおいては次第に後景に退きつつあるが――しばしば行われている。
上記のタイプ(1)において個々のシーンが持つべきものとされる雰囲気と相即するようにその都度のBGMが感性基軸で選定されるのとは異なって、このタイプ(2)のBGM使用は、それぞれ明確に特定された意味と結びついた機能的使用であるため、これらは基本的に他の曲によって代替することができない。
『BUNNYBLACK2』 (c)2012 ソフトハウスキャラ
音楽鑑賞モードの一例。曲名を見てのとおり、BGM各曲がそれぞれに使用されるべき状況、場所、場面、ムードなどをあらかじめ想定して、発注及び作曲されていることが見て取れる。
《 (3). 楽曲間の切り替えによる構造基軸の音響的制御 》
さらに、おそらく現代のAVG作品に際して特に典型的に生じているであろうと思われる、特徴的な音響上の効果が考えられる。現代のコンピュータAVGの画面は、個々の登場人物を示す画像(「立ち絵」)と場所を示す画像(「背景画像」)を組み合わせた一種のモンタージュとして構成されているのが通例である。その画面は、テキスト進行とともにそれらの画像パーツを適宜切り替えながら推移していく――例えば、その都度の発言者を強調するように、画面中央に表示される立ち絵画像が切り替わり、あるいは、場所の移動を表すために、背景画像がズーミングされたり切り替えられたりする。しかしながら、それらのアドホックな視覚的推移のみでは、状況の叙述の大きな節目を、すなわちシーンの切り替わりを、適切に強調することができない。静止画像の組み立てによって構築されているAVGの画面は、そのままでは時間的切断や場面転換を明示することができず、それゆえそこには様々な対処が施されている。AVGにおける場面転換(トランジション)の表現は、他の媒体における様々な技法も参照しつつ、いくつもの手法が採られている。例えば:
(a)テキストにおいては、場面転換の際に(しばしば画面暗転を伴いつつ)「………/……/………」のような文字列を挿入することによって機械的にゲーム進行を分断するものがある。
(b)視覚表現においては、通常のクリック進行における瞬間的な画像切り替えとは異なって、秒単位のウェイトを挟むことによって、ゲーム進行を分節化することができる。その際に画面全体をいったん暗転させ、あるいは特殊なエフェクト(スライドやワイプ)を経由して次の画面へ移行させる場合もある。アイキャッチもしばしば使用される(註1)。映像表現におけるエスタブリッシングショットと同様に、新たな場面を開始する際に背景画像のみをいったん(秒単位で)表示する手法も行われる。
(c)音響表現によっても、場面転換が表される。場面転換の際には、直前までのBGMをいったん中断し、そして次のシーンの開始とともに新たにBGM出力を開始する――しかも、直前までの曲とは別の曲にする――のが、現代のAVGの標準的な作法である。一部の作品では、BGMクロスフェードによって移行させるものもある(早期の一例として『終末の過ごし方』[abogado powers、1999年])が、数のうえではきわめて稀である。
これらの処理によって、AVGの進行は明確な区切りを持ち、そしてそれによって個々のシーンの単位を自由に扱うことができるようになる。例えば、不可逆的な場面転換と一時的なフラッシュバック挿入とをプレイヤーが混同せず適切に区別できるのも、これらの処方のためである。
【註1】 アイキャッチを用いた表現効果のいくつかの例について、演出論Ⅳ章4節5款γ号参照。
『ヴェルディア幻奏曲』 (c)2008 Escu:de
場面転換の暗転エフェクトの一例。単純なワイプの他にも、格子状(網目状)の切り替えや特殊な模様型の暗転など、ゲームエンジンによっては何種類ものパターンが用意されている。
《 小括:シーンの一体性保障としてのBGM 》
それぞれに特定の曲想を表出しているBGMが、それぞれ特定の場面に対して一定の対応関係をもって当てはめられ、そしてそれらの場面の転換に応じて切り替えられていくという経験的事実を整理することによって、PCゲーム表現の中でBGMが有する機能についてこのような形式的な説明を与えることができる。そして、これら三つの側面を統一的に捉えるならば、PCゲーム表現におけるBGMの役割とは、「特定の性質を持つひとまとまりの描写を、内包において体現し外延において統合する基盤の一つ」であると述べることもできよう。要するにBGMは、ゲームの中で表現されている一続きの状況(シーンまたはそれに類する単位)のアイデンティティを、その性質によっても、その同一性によっても、そしてその継続存在それ自体によっても、担っているのである(註2)。
プレイヤーがクリックしないかぎり基本的に静止したままであるAVGの画面が、単なる無時間的なモンタージュ画像やバラバラのスクリーンショットの束のように見做されることが無く、あくまでゲームとしての運動の最中の一瞬であるとプレイヤーが信じて受け入れることができるのも、このようにしてBGMの基本的性質の上に基礎づけられる。そのようにBGMが存在しうることが前提とされているかぎり、長大な無音進行部分(註3)においてすら、その信頼はたしかに維持される。
そしてさらに、とりわけAVGにおいては、「AVG構造の中でひとまとまりのシーンの同一性と継続性を保障する機構としてのBGM」という理解の下で、プレイヤー(ユーザー)の前で場面転換をコントロールしてみせるという性質――場面転換制御機能――は、非常に重大なものである。
【註2】 演出論Ⅳ章4節3款で述べたことは、このようなBGM理解を踏まえている。
【註3】 実例については演出論Ⅳ章4節3款(前掲註1)参照。
《 2.『アトラク=ナクア』におけるオーディオブリッジ 》
AVG作品におけるBGMは、それ自体継続出力されることによって、それが続いている範囲で、個々のシーンの継続性を保障する。そして、BGMが停止される(中断する)ことによって、そのシーンの終了と次のシーンへの移行を告げる。現在発売されている任意のPCゲームを手に取ってプレイすれば、これらの機能を即座かつ容易に確認することができるだろう。しかしただし、これは絶対的な(つまり違反することのできない)ルールではない。AVGのこの基礎的な表現文法に対して、これを逸脱することによって特有の表現効果を生むことも可能である。
例えば、楽曲の曲想とその場面の状況とをあえて一致させないことによって、そのギャップの中に、あるいはそのギャップによって、特別な意味を作り出す演出がある。『夢幻廻廊2』(Black cyc、2009年)が、凄惨な蹂躙の場面に牧歌的なBGMを充てることによって、その主人公の現実認識が決定的に破壊されてしまっていることを示唆するのは、非常に明快な一例である(註4)。
同様に、BGMの継続範囲を状況の継続範囲とあえて一致させないことによって、そこに特別な演出効果を形成することも可能である。それは、AVGの一般的な表現様式に慣れたプレイヤーに対してはとりわけ、異化効果相当の強い刺激をもたらすことになる。そのめざましい例のいくつかが、『アトラク=ナクア(ATLACH=NACHA)』(alicesoft、1997年)(註5)の中に見出される。様々な演出技巧の凝らされている本作の中で、音響表現面については、一つのBGMが中断無しに複数のシーンに亘って流れ続けるという異例の処理が度々敢行されている。こうした演出を、本稿では映像分野に倣ってさしあたり「オーディオブリッジ」と呼ぶこととし、そして個々の場面を検討していく。
ここで「オーディオブリッジ(audio bridge)」とは、一つの音源を継続出力することによって複数のシーンをつなぎ(架け橋とし)、それによって様々な効果――複数のシーンの連続性強調、複数のイメージの間の接着、視聴覚的進行の密度上昇、あるいはプレイヤー(視聴者)の意識の特定の事実への誘導など――をもたらすものとして概括的に定義しておく。映像分野ではオーディオブリッジを形成する音源はBGM(劇伴)とは限らず、特定の音響や役者の台詞がその役割を果たす場合もあり(註6)、またBGM以外の架橋要素をも含めて「ブリッジ」としばしば総称される。それと同様に、PCゲームにおいても様々な特定の音響(音源)がブリッジを形成することができるが、ここで『アトラク=ナクア』に関してはBGMによるブリッジを集中的に扱う。
【註4】 実例については、演出論Ⅳ章4節3款を参照。
【註5】 商品としては、当初は『ALICEの館4・5・6』(alicesoft、1997年)に含まれる一コンテンツという扱いであった。その後2000年に廉価版として『アトラク=ナクア』単独で再発売された。脚本担当はふみゃ、音楽及び効果音担当はShade。
【註6】 邦語文献としてはさしあたり、ジェニファー・ヴァン・シル(吉田俊太郎訳)『映画表現の教科書』(フィルムアート社、2012年)、130頁以下を参照。ただし、本稿の用語法は必ずしもその定義のままではない。
《 (1). 「サチホ」の章における「Running Clouds」 》
「プロローグ」(第1章)を含めて全7章構成を採るこの物語の序盤、第2章「サチホ」の冒頭部分に、オーディオブリッジ演出の最初の例が現れる。山中に四百年を生きてきた女郎蜘蛛の化身である主人公(「比良坂初音」)が、まやかしの力をもって県立八重坂高校に溶け込みはじめた一日の、その午前中の授業を終えた初音が、見慣れぬ校舎内を目的も無く散策するという一連のシーンである。初音は、昼放課の学生たちの喧噪に紛れて校内を歩きながら、無機的なコンクリートの建物の中で何百人もの子供が集団生活している学校空間に対して物珍しさを覚え、直前の授業で聞き知ったばかりの『方丈記』の一節に仮託して人の世の儚さに思いを馳せる。その一方で、数日前の仇敵との対決を想起して、自分が仮初めの「巣」としたこの敷地を仇敵が遠からず再襲撃するであろう予感に、自身の寄る辺なさを思い起こす。そのうちに、中庭で仲睦まじいカップル(「高野沙千保」と「渡辺鷹弘」)を見かけて、彼等を「贄」としていずれ取って食おうとほくそ笑む。さらに、昨日支配下に置いたばかりの一人の生徒(「深山奏子」)に再会して、彼女がおびえて逃げ去る姿を見ながら、「いつ立ち去る事になろうと…長く、永くいようと…/私がいる間、ここは私の巣だったのだわ……」と再確認する。この一連のシーンの間中、場所(背景CG)も頻繁に切り替わり、主人公の意識もこのように複雑に推移していくにもかかわらず、BGM「Running Clouds」が途切れることなく流れ続けている。その曲名――すなわち「行雲」――からも窺われるとおり、ヴァイオリンソロの息の長いメロディが突き放した叙情を湛えつつ歌い続けるこの曲は、漂泊と流転の無常を強く意識させる。
ここでプレイヤーは、自身のセンシビリティに応じて、様々な効果を受け取り、あるいは様々な意味を読み出すことになるだろう。例えば、その曲想それ自体によって、人間の生活及び生命の儚さへの意識を喚起し、そしてそれと対比して、死ぬことのない「時間から取り残された身」である主人公の生とその永い時間感覚を。あるいは、学生たちの立ち絵は表示されないがその喧噪がSEによって表されている中を、冷淡なモノローグとともに行き過ぎていく初音の描写の中に、彼女の傍観者的に超然とした距離感を。そして、通常ならば一つ一つが劇的な事柄である筈のいくつもの状況(見慣れぬ空間、無常観、闘争の記憶、初々しい恋人たち、捕食の予感、他人の恐怖した姿)を行き過ぎながらも、まったく変わらないままであるBGM継続の中に、その詠嘆の気分の濃密さを、あるいはそれらの事象は彼女の心に大きな波風を立てるものではないということを、あるいは初音の心性がその程度の事象では揺らがぬものであるということを――すなわち、その意志力の強靱さを、もしくは、(それ以降の物語をも考慮しつつ踏み込んで理解するなら)彼女がそれほどまでにこの現世に生き飽きているということを。そしてそれと同時に、学生たちも仇敵のことも恋人たちの語らいも奏子の脆い心も、全てがその詠嘆のレンズを通した迂遠なかたちでプレイヤーの前に現れる。
なお、「Running Clouds」を用いた同様の回顧的オーディオブリッジは、第6章「ホコロビ」の冒頭部分でも、(ただし、ごく短く切り詰められたかたちで、)行われている。これは、多くの生徒たちをその毒牙に掛け、奏子の運命についても最終的に決断を下した主人公が、これまでの来し方を振り返る場面であり、上記第2章での「Running Clouds」使用と対応して、ここまでの物語進行にいったん大きな節目を与える役割を果たしている。実際、この第6章から、物語は結末へ向けての劇的な運動を開始することになる。
『アトラク=ナクア』 (c)1997/2000 alicesoft
第2章序盤の該当箇所より、初音のモノローグの一節。背景画面は上下に黒帯を掛けることによって書き割りめいた抽象性を匂わせ、また立ち絵は中央配置ではなく画面右側に寄せて表示することによって画面レイアウトにスタイリッシュな印象をもたらしている。
なお、左記引用画像は2000年発売の廉価版によるもの(以下同様)。
《 (2). 「タカヒロ」の章における「Red tint」 》
本作中でも最も長大な、そしてきわめて長大なオーディオブリッジが現れるのが、第4章「タカヒロ」である。すでに何人もの生徒から精気を吸い取って自らの力を回復させつつある初音は、次なる標的として生徒会長の「渡辺鷹弘」を自らの巣に誘い込もうとする。ここで初音は、鷹弘を挑発して「巣」に誘い込むための道具として、すでに「贄」として支配下に置いている鷹弘の縁者のいずれかを使役する。プレイヤーの選択で彼の恋人(沙千保)を利用する場合は、「図書室の少女」の怪事件によって、また、彼の妹(「渡辺つぐみ」を用いる場合は「水着の女」事件によって、鷹弘を誘い出していくことになる。そのいずれを選択する場合でも、初音の魔性を象徴するかのような不気味なムードのBGM「Red tint」――訳すなら「赤の彩り」あるいは「赤い下地」「赤の広がり」――が、数十分間に亘るこの章の進みゆきの中であらゆる場面転換を無視して途切れることなく流れ続ける(註7)。
異例のBGM継続である。ギターが不気味なうねりを刻み続けるこの「Red tint」が、飛躍の多い断片的なエピソード群のような何十個ものシーンをねばっこく繋ぎ合わせることによって、プレイヤーは、主人公のまやかしの力が十分に増大して今や学校全体を浸し、覆い、支配しているのだということをまざまざと認識するであろう。そして同時に、そのBGM切り替えの欠如という点では、ここで物語の筋道立ったまとまりと順序が溶解させられているかのように感じさせ、そして、時間感覚そのものが消滅してしまうほどに捉えどころの無いその幻惑的雰囲気をいやがうえにも強めている。
つぐみに命じて鷹弘を挑発する場合は、章の始まりから鷹弘が初音によって捕獲される最後の瞬間までこの「Red tint」の一つの音楽のみが、一切の中断も仕切り直しも無しに終始流れ続ける(――この章を締め括る最後の一シーンのみは、条件によっては、暗い哀感を漂わせるBGM「Voluptuous lips」が流れる場合がある)。沙千保に命じて鷹弘を幻惑させる分岐では、クライマックスで鷹弘が迷妄から覚めて対決を決意するぎりぎりの瞬間までこのBGM演奏がずっと引き延ばされ、そしてわずかな無音進行を経て決然たるBGM「Throwing into the banquet」に切り替わるが、巣へ乗り込んできた鷹弘を主人公があっさりと返り討ちにして捕獲することによって、無情に途絶して終わる。
【註7】 本作のBGMはCD-DA形式のため、非対応のOS上では適切にループ再生されない可能性がある。
『アトラク=ナクア』第4章より。初音のまやかしの力は、支配領域下にいる人間たちの認識を操作することができ、それゆえ、この世から消えた(消した)個人のことを忘れさせることすら可能である。
《 (3). 「終章」における「Atlach_nacha ~ Going on」 》
最後に現れるのは、7番目の章(最終章)のごく短いオーディオブリッジである。この章は、仇敵「銀(しろがね)」によって遣わされた刺客「燐」の襲撃から、それを打ち倒すまでの比較的長大なシーンが、いわばアヴァンタイトルのように設けられている。そして、一度は捕縛したかに見えた刺客から不意打ちを受けて初音も重傷を負い、そして鏡文字による章題表示を挟んで物語は最後の激しい決闘シーンへと雪崩れ込んでいく。この一連の進行の中で、音響表現は、アヴァンシーン最後の一瞬を受けて一拍早く、タイトル名を冠したBGM「Atlach_nacha ~ Going on」が開始し、そして暗転と章題表示を挟んで本編部分へとそのままつながっていく。
この曲はギターの小さな刻みから始まって、二本目のギターとパーカッションが次第に追加されていき、そして17秒過ぎからようやくヴァイオリンによる主旋律が入ってくる。ここで、本編部分に先んじて開始する「Atlach_nacha~Going on」のこの序奏部分は、音楽的意味において序奏であると同時に、その劇的な対決へとプレイヤーを誘導する先触れとしても機能している。しかも、通常のプレイヤーのテキスト進行ペースであれば、章題表示から本編に入って、反撃を受けた初音が怒りの叫びをあげて戦いを再開しようとする瞬間が、ちょうどBGMでは主旋律が開始するタイミングに当たるであろう。このような繊細かつ周到な設計によって、この曲はアヴァンタイトル部分から本編部分への力強いアーチを架けることに成功している。プレイヤーの経験する時間にしてわずか十数秒のごく短い経過であるにもかかわらず、この「Atlach_nacha ~ Going on」とともに終章の激戦が開始する瞬間は、PCゲーム史上の名場面、名演出として繰り返し言及されている(註8)。
なお、このアヴァン部分の戦闘から捕縛蹂躙に至る一連の流れもBGM「Throwing into the banquet」の雰囲気の下にまとめられて強烈な推進力を発揮している。また、テキスト上では完全な単一シーン構成となっているこの「終章」の本編部分も、「Atlach_nacha ~ Going on」から始まって「Atlach_nacha ~ Huge battle」へ、そして「Atlach_nacha ~ Adoption」へと至る三種のアレンジ演奏の受け渡しによって音楽的にも統一感と方向づけを与えられている。
【註8】 ごく短時間の先触れ的音響提示は、映像分野では、通常の「ブリッジ」から下位概念的に区別して特に「先行音(sound advance)」あるいは「ずり上げ」と呼ばれることもある。
『アトラク=ナクア』終章のアヴァンタイトル部分の一節。テキスト上の活劇描写にも、視覚的な鮮やかさがある。
《 むすびにかえて 》
検討してきたとおり、『アトラク=ナクア』には様々なオーディオブリッジ演出が組み込まれている。それらは、形式上は「複数のシーンに亘って一つのBGMが継続する」という同一の技法でありながら、その使用形態及び効果は非常に複雑かつ多様なものである。それは、テキストと画像の推移に対してBGMが一見無頓着に流しっぱなしになることによって主人公の主観的時間感覚を暗示するものであったり(「Running Clouds」)、あるいは章全体に亘る長大なBGM継続によってプレイヤーに対して息苦しくも逃げ場の無い混迷の印象を与えるものであったり(「Red tint」)、あるいはクライマックスへと一気に引き込む巧妙な演出的コントロールであったりする(「Atlach_nacha ~ going on」)。組織化された音響表現の優れた成果が、そこには見出される。
複合的な意味作用システムの一種であるPCゲーム表現の中には、特定の「言葉(語)」に準えうるほど意味特定性の高い(あるいは、意味特定性の高い水準で規定され利用される)表現技法もあれば、そうではなく形式的な――つまり特定の実質的内容と結びついたものではなく、そしてそれゆえ(価値)中立的な――技術乃至技法もある。本稿が例として取り上げたオーディオブリッジは、それ自体としてはどちらかといえば後者に含まれる概念であるが、それだけに、それが具体的な表現実践の中でどのように使用されているか、どのような演出効果を挙げているかが常に注視されねばならない。
1997年に発売された『アトラク=ナクア』は、ヴィジュアルノヴェル形式PCゲームのごく初期の作品でありながら、そこで行われている視覚的/聴覚的/タイポグラフィ的/システム的表現の野心的多面的挑戦には今なお注目すべき実例が見出される。テキスト面では様々なテキスト表示形態の切り替え、視覚面ではビスタサイズ背景画像と抽象的な立ち絵画像による特異な説話的印象の表出、システム面では二周目以降の章選択システムとフラグ選択システム、そしてエンディングでは本編に含まれなかった――あったのかもしれない、あるいはあり得たのかもしれなかった――登場人物たちそれぞれの幸せな日常生活の姿がセピア色画像で曖昧に示唆されるというユニークな締めくくりに至るまで、現在の目で見ても非常に先鋭的な表現が随所に見出される。そして音響面でも、本稿で紹介してきたオーディオブリッジ演出を含めて様々な意匠が施されている。それらの中には今なおほとんど模倣すらされていない特異な演出すら存在する(註9)が、しかし技術は技術である。『アトラク=ナクア』の制作スタッフの、AVGの基本構造に対する洞察と、その各構成要素がAVG表現空間全体の中で持ちうる作用に対する正確な認識と、その認識をさらに転換してみせる挑戦的姿勢と、そしてそれを単なる実験に終わらせず一つの作品の表現の中で効果的に適用する演出センスとが、PCゲーム表現を豊かにし、そしてPCゲーム表現の可能性を豊かにしていることに、疑いの余地は無い。
【註9】 もちろん、オーディオブリッジ演出それ自体は他の作品にもしばしば見出される。例えば『桜吹雪』(Silver Bullet、2009年)、『りんかねーしょん☆新撰組っ!』(りぷる、2009年)など。とりわけ、本編中の重要なシーンでヴォーカル曲(主題歌など)を流すアプローチでは、その曲は状況の推移をほとんど無視して継続出力される場合が多い:その古典的な例として『BALDR FORCE』(戯画、2002年)、あるいは歌手キャラクターの登場する『Chu×Chuアイドる』(UNiSONSHIFT Accent.、2007年)など。『アトラク=ナクア』が終章で行ったアレンジBGMの変容進行も、それを彷彿とさせるものが、例えば『蠅声の王』(Lost Script、2006年)の終盤バトルシーンで体験することができる。
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