2013年2月1日金曜日

経過報告12

  目標:2月中に10本はプレイしたい。(2013年2月) →目標は一応達成できた。


  2013/02/28(Thu)
  男性のそれを「愚息」と呼ぶライターは「ん。」氏以外にはいないよなあ。幼馴染ルートに入るや、主人公が能動的に動かなくなり(そしてその内面描写がほとんどブラックボックス的なまでに不可視化され)、新たな闖入者を中心としてしよーもないスラップスティック(※変態行為の頻出を含む)が展開され、凝ったSE副音声表現が多用されるようになるのは、いかにも『えむぴぃ』を彷彿とさせる。
  その狂騒的な一部分を別とすれば、『すてぃーるMyはぁと』の大きな特質は主人公とヒロインたちとの間の交情の穏やかさにあると思う。メインヒロインのパートが最も良くそれを表しており、温和で気立ての良いヒロインとの間で和やかな日常の関わりを結んでいく本編進行は非常に美しい(――その「忍(怪盗)」設定もテキストの中で丁寧に掬い上げられて、会話の中にその背景設定が自然に馴染まされている)。ベッドシーンの表現にもそのムードはきちんと受け渡されており、よくあるような息せき切らした興奮状態としてではなく、優しみと気遣いに満ちた融和的な交わりとして描かれる。その手つきは、この分野の作品の性描写のあり方としては非常に稀なものであるが、その情趣、その"安らぎ"の表現は私にはたいへん好ましく感じられた。ディレクターはいつもの「ヤス」氏。
  そのほかにも、鈴田氏のヴォイス(特にそのヴィブラートを乗せつつ気持ち良くクレッシェンドしていくツッコミシャウト!)を満喫できるという点、鼻無し小柄体格×みるヴォイス×腹黒キャラの王道コンボ、そして、立ち絵の指先に簡易アニメーション(突きつけた人差指の指先をくるくる回したり、両手を合わせて人差指同士をタップさせたりする)を付与することで立ち絵の表情づけを豊かなものにしている点など、この作品特有の美質と挑戦はいくつも発見することができた。中指を立てる立ち絵ポーズや、ハリセンツッコミの立ち絵、頭をわずかに傾ける愛嬌ある仕草の差分変化など、なかなかお目にかかれるものではない。

  ……というわけで、今週末のたまひよ氏新作発売にぎりぎり間に合わせることができた。
  買いに行くのは明日になるが。


  集中力を必要としない作業(特に、言語野を使わない作業)をしている最中に適当な(既プレイの)AVGをバックグラウンドでオート再生しているととても楽しいというのをようやく知ったところ。これまでゲームを「ながら」プレイしたことはほとんど無かったという意味でもわりと新鮮。BGM/SEの音量は控えめに、待ち時間は短かくしておくとなお良い(――ただし最短設定だと台詞が不自然に連なってしまうので、少しだけウェイトを置くのが良さそう)。


  【 PCゲームの長さは悪徳ではない 】
   PCゲームは「趣味」であり、しかも(無料視聴できるTVアニメとは異なって)それなりに金の掛かる趣味なのだから、ボリュームがあって長く楽しめることは基本的には肯定される(されざるを得ない)。もちろんそれだけが絶対的な価値尺度ではないが、基本的に若年層(とりわけ、時間はあるが金銭的余裕はあまり無い大学生が多数含まれる)を対象としている業界なので、その長大化傾向は彼等から期待されこそすれ、ネガティヴには捉えられにくい。実際、twなどでも若年層ゲーマーからの「長すぎる」というコメントはほとんど目にしたことが無く――むしろ「短い」という不平がしばしば発せられている――、「長すぎる(プレイする時間が取れないのでコンパクトにしてほしい)」という不満を発している人々はかなり高い年齢層ばかりのように見受けられる(――30歳以上の人ばかりじゃないの?)。そして実際には、例えばEGScapeを見ても判るとおり、若年層の方が人数としてはかなり大きい。だから、メーカーはユーザーの時間的負担増大など気にする必要は無いと思っている。脚本構成上必要であるならば大規模な作品にしてくれても構わないし、買うだけでプレイしない社会人の苦情など、正直に言えば責任転嫁にしか思えない(――例えば、最近のPCアダルトゲームは長すぎるとtw上でメーカーアカウントに直言[!]している人物のブログ最新記事を見てみたら、DQ新作に180時間費やしたとか書いてるし。その人にとってはPCゲーム9本[20h*9=180h]よりも『DQ』1本の方が価値が高かった、つまりその人の選好においてはPCゲームをプレイする優先順位がそんなにも低かったってだけじゃないか)。PCゲームの長さは、不必要にプレイヤーの時間を徒過させる「水増し」の場合を除いては、けっして悪徳にはならない。
  以上の文章は、分量の制約が必要かどうかという観点でのみ考えている。だから、例えば「現在の量的増大は水増しなのか」とか、「制作者の技量が足りないと、長大な脚本はダレやすくなるのではないか」、「ボリューム増大に応じたコスト増大はいかにして解決すべきか」、「コンパクトにすれば、プレイ時間の長さに耐えられずに引退していく社会人ゲーマーを顧客として引き留められるチャンスがあるのではないか」といった問題はすべて視野の外に置いている。

  私見では、分岐を含むまとまった物語を語りきろうとするには20時間という規模は十二分だとは限らない。AVG形式の物語で、複数のアダルトシーンを挿入しつつ、順序に沿ってシーンを積み重ねていくと、結構な時間が掛かってしまうものだ。例えば、「攻略ヒロイン」の多さは商業的には非常に重要な(多ければ多いほどユーザーから好意的に受け取られセールスが有利になる筈の)要素であるが、00年代前半のタイトルと比べれば「攻略ヒロイン」の人数は平均的に見て明らかに減少しており、そしてそれにもかかわらず脚本分量は増大している。もしも単なるテキスト水増しが目指されていたのであれば、このような傾向になる筈が無い。ヒロイン人数の減少と引き換えにしてでも遂行されねばならなかったテキスト規模増大は、現代のAVG表現として成り立たせるためにあくまで必要性のある方向性だったと推測している(――ただし、この傾向については、部分的には、ユーザー側から一人のヒロインとの交流密度[例えばアダルトシーンの数]を上げてほしいという継続的な要望が存在した可能性もある)。
  また、規模の問題は(説明の便法としては用いているが)個人的にはどうでもよくて、フルプライスのタイトルが控えめな規模であっても一向に構わないと考えている。
  大規模(長大)な作品にすると社会人をメインターゲットにしにくくなるかという点も、懸念する必要は無いように思われる。何故なら、テキスト規模は(メーカー側が自発的にアナウンスしないかぎり)事前には分からないものだし、発売してそれが判明した時点ではすでに商機は過ぎている(売上げの問題はすでに結着している)のだから。

  白箱系タイトルのヒロイン人数減少は、体感としてはまず間違いないと思うが、きちんとしたデータを出すのは手間が掛かる。昔はヒロイン5~6人の作品がわりと多かったが、最近では大多数のタイトルが4人以内に収まっている。もちろん、一部のブランド(例:Whirlpool、AUGUST)はこうした趨勢の中であえて積極的にヒロイン人数を増やしてそのゴージャスなブランドイメージを作り上げているが。多くの純愛系ブランドで、「ヒロイン5人×アダルトシーン3個ずつ」よりも「4人×4個ずつ」が選好されるようになっているのは、やはりヒロイン一人一人のために、昔よりも多量のテキストが必要になったからだと考えるのが自然だろう。

  私も、長すぎるテキストには耐えられなくなる時があり、例えば『デモニオン』ではアダルトシーンのあまりの多さ(総数96個!)に心が折れて、中盤以降その種のシーンは全部スキップするようになってしまって……ごめんなさい。こういうのが好きなユーザーにとっては、つまりポルノメディアとしては、本当に素晴らしく贅沢な大ボリュームとして受け取られただろうけれど。
  Eushully作品の周回プレイ要求やエクストラダンジョンやアペンド追加を見限ったのは、それが「水増し」の範疇に足を突っ込んでいる(つまり消費時間の増加にすぎず、面白さの増加につながっていないばかりかそれを減殺している)と見做したからだし。4人の主人公での丸々4周を要求した『空帝戦騎』は、結局コンプリートできなかったなあ。UIの出来も(このブランドとしてはいつものことながら)劣悪だったし。



  2013/02/27(Wed)
  立ち絵一枚だけで画面が保ってしまう、あるいは立ち絵一つに見惚れてクリックする手が止まってしまう。原画家の力ってすごいよね。存在感のある名優と同じ。


  技術や工学は実現可能性(実行できるか、安全/確実に実行できるか、資金的に実行できるか)を常に考慮する――それを満たせなければ結局意味が無い――ものなので、技術を論じようとする(とりわけ現在用いられている技術の適否を評価しようとする)場合にコストの問題を思考できていない人は、基本的にものの考え方自体が出発点から間違っている、いわば持つべき知的基盤の底が抜けている、ただの間抜けだよね。
  とはいえ、現在ユーザーサイドでPCゲームの制作環境(制作プロセスや金銭面の考慮も含めて)をきちんと視野に入れて言論を行っている人は、ほとんどいないかも(※kz氏やwm氏はきちんと考えておられると思うが。ちなみに私のそれは一種の「訓練の結果」みたいなものであって、実作経験があるわけではない)。
  十年以上前は、「オタクというのは、好きが嵩じて対象の構造や成り立ちまで考えるようになったり、あるいはさらに自身実作者の立場にエントリーしていったりするものだ」ということが語られていた――岡田氏の有名な「匠の目」「通の目」の説明――し、PCアダルトゲームも90年代から00年代初頭まではおそらくメーカー/ユーザー間の技術認識の落差が小さかったが、2013年現在のPCゲーム分野では残念ながら完全に断絶してしまっているように見受けられる。特に「批評」を志向している人たちは、その発する言葉の多さに比して異様なほど、構造(物語構造以外の、技術的構造にせよ美的構造にせよ経済構造にせよ)に対する意識がまるで養われていないと感じる。まるで進歩していない、どころか退歩していないか。これが「思想」的素人批評の蔓延による焦土の帰結なのか。


  姉の名前を「ひなた」とし妹を「こかげ」と名付けるのは、フィクション中の名前にツッコむ愚を犯してもしも現実的に考えるなら、いかに「湖景」という美しい字が当てられているとしても、ちょっとした顰蹙行為だろう、という思いがプレイ中も度々脳裏をよぎっていた。
  長政姉弟以上にひどいネーミングはなかなか無いだろうが。


  『はなマルッ!』(2004)は、単なる「男の娘」ヒロインのはしりというだけではなく、主人公が「受」側になるシーンまであったからねえ……。近時の「男の娘」ものでも、主人公がそういう立場になる作品は少ないようだし(※――あまりプレイしていないので、諸賢のご示唆を仰ぎたいが。最近では例えば『女装山脈』でも、三人の「男の娘」たちは男性主人公を受け入れる側、つまり「男性と対になる」異性乃至ヒロインとしての立場を終始墨守していた)。2004年当時としては非常に新奇だったこのコンセプトが採用されたのも、例えば「ショタ嗜好の取り入れ」や「全ての登場人物を美少女にしたいという発想」などではなく、今にして思えばあれはおそらく企画兼脚本担当の秋華氏の極端趣味の一環だったのだろうし。以前も書いたが、秋華氏はいじめ(特に女性間の:『陽だまり』)、差別(『はなマルッ!2』:性描写の中に差別的心性をストレートに取り込んだ作品は稀だ)、様々な特殊性嗜好(特に『蝶の夢』は当時のSfRnの規制基準転換を窺わせる証拠として、ユーザー間で驚きをもって受け入れられていた)といった先鋭的なモティーフを自作の中に繰り返し導入している。


  「創りたいものを創っている(ように感じられる)」云々という話は、非常に疑わしい、というかほとんどの場合、恣意的な心情投影かあるいは「こういう種類のものは制作者が趣味に走っているのだろう」という偏った固定観念の表明にしかなっていない。どのスタッフのどういう趣味がどのように反映されているかを考えなければ意味をなさないし、nitro+やlightだって売り方は考えて企画を練っているだろう(個人個人はともかく、企画会議レベルできちんと帳尻を合わせている筈だ)し、数多存在する「萌えて楽しい普通の学園AVG」だってそれぞれスタッフたちが好きでもないものを嫌々作っているわけが無い。それらを単なる因習的なあるいは売らんがための外的装飾に過ぎないと見做すのは、萌えの情熱をバカにしていないか。男の娘だってメイド服だって何だって、自発的な趣味の側面が無い筈が無い。
  もちろん、商業作品としてである以上不可欠の、所定の目標を目指す完成度への冷静な制作努力だけでなく、それを一歩超えて作品の中に立ち現れてくる特別な瞬間は、おそらく個々のスタッフの個人的な情熱以外のものに原因を求めることが困難であることが多々あり、そしてそしてそのような個人的情熱に直結している(と感じられる)特別な現れとそのクオリティ――「完成」のさらに一歩先の世界――を称賛することになんら躊躇いは無いのだけれども。


  先日プレイした『トマランナーズ』は、主演の飯野氏がそれはもうおそろしく楽しげな芝居ぶりで、この方の出演作を何本もプレイしてきた私でも、一体これは何が起きたのかと耳を疑いそうになるほどのノリの良さだった。その短く節約された作品の中で、ACTパートとアダルトシーンの他は(つまり「ストーリーパート」は)全部で10分も無いかもしれないほど僅かだったが、その10分の演技のためだけでも、買って良かったと思うことができた。そしてもちろん濡れ場部分でもその弾力感のある演技は存分に披露されていたし、ACTパートでもその掛け声を聴き続けられるのは楽しかった。


  ここでは、一度書いたテキストを何度も何度も推敲し改稿しているし、特に最近では一日に何十回も更新しているので、もしも私のこの雑記欄の文章をできるだけマシな状態で読みたいとお考えの方がいらっしゃるなら、最新の日付(つまり今日、当日)のものではなく常に「前日分の(あるいはできれば二日前くらいの)」テキストだけを読むようにされることをおすすめしたい。いや、実際にはそんな面倒で作為的なことをされる必要は無いのだけど。もっと昔の雑記群も、思い出したことがあればちょこちょこ加筆修正していたりする。


  「女性は女性を殺さない(傷つけない)」だなんてどこのお花畑ですかあらあらうふふと思った(そしてカチンときた)のはともかく、一般論として、あるカテゴリー的偏見を批判する際に別のカテゴリー的偏見をもってする――例えば女性に対する差別的バイアスを批判する際に批判対象を「ossan」と呼ぶ(つまりある不適切な言動を表象するのに、それと必然的な関係を持つわけではない、特定年齢層の特定性別及びその属性をステレオタイプに総称する卑俗な語を充て、そのことによって、形式上はその語の外延に含まれるが当該不適切行動を取ってはいないディーセントな人々を不当かつ不必要に貶める)――のは、批判の正当性を失わせてしまい、結果としてカテゴリー的偏見同士の党派的対立以上のものになり得なくなってしまうので、そういう発言を目にするのはとてもつらい。


  このblggrでは「自分のページビューを追跡しない」と設定しているので、私自身がログイン状態でページアクセスした分は統計に反映されない筈……なのだが、たまにアクセス統計欄を見てみると自分が閲覧/再編集したページがアクセス統計の上位に来ていることがあるので、この設定は万全ではない可能性がある。


  私は人の名前をなかなか憶えられないたちで――というか興味を持たなかった人物の名前は気にせずスルーしてしまいがちなので――、以前にもこんな[tw: 11752307666460673 ]申し訳ないことがあった。そもそもwebが巨大化&複雑化しそしてwebサービスも多種多様に存在している現状で、どこかで目にした発言者が別のどこかで見かけた誰かと同一人物だったかどうかなんてのは、その相手に対して特別にパーソナルな注目をしているのでもないかぎり気にしても仕方ないような世界になっているし、そういう関連づけには情報としての重要度も低くなっている――そして重要なのは、専門家や公的機関のように発言者に信頼性が付与されている場合を除けば基本的には、公開されている個々のテキストユニットの内部での正しさこそが第一義的である――と思うけれど。例えば、web検索からあるブログの記事を訪れた場合にその記事からブログの他の記事群も見て回って著者の知的バックグラウンドやその信頼性を確認しようとする人はほとんどいないようだということはブログのアクセス統計からも推し量られ、そしてそのように動いているネットワーク活動の中では、著者の知的バックグラウンドや関連記事といったものへの人格的関連づけには依存せず、個々の記事の単体としての完成度(説得力)をその都度できるかぎり高めることの方がおそらく効果的なのだろう。



  2013/02/26(Tue)
  あれ……藤森さんと上田さん、ゲーム話で『WA』とか『Kanon』とか『D.C.』とか、なんでそんなに古いタイトルばかり挙げるんだ……。2004年デビューの藤森氏はまだ分からなくもないけど、2008年デビューの上田氏がそういう時代の作品に通じていらっしゃるというのは意外だ。>「らぶ*しゅな」第64回


  10本目をプレイ中。 この一ヶ月でPCゲームとの付き合い方がいろいろ確認できた。自分はどれくらいのペースでプレイできるか。どのくらいのペースでプレイし続けられるか(集中力が維持できるか)。このくらいのペースでプレイしたら、心身や生活に対してどのような影響がどのくらい生じるのか。等々。


  【 PC(アダルト)ゲーム市場の強み 】
  [tw: 306186093815013376 ]:この発言、「極北」という喩えの趣旨が分かりづらいなあ。文脈からして、分野の中の「最果て」「辺境」「ガラパゴス」という意味合いで謙遜しているのか、あるいは「業界内の数多ある方向性の中の一つを十分に推し進めた、一つの極である(あるいは数学的意味でいう一つの「頂点」である)」または「中心部からは離れた、エキセントリックなあり方をしている」という意味なのだろうけど、しかし一般的には「極北」という比喩は「(その分野全体の中の最も突き詰められた)理想的極限」や「導きの星」というニュアンスを伴うものなので、「極北」を自称するのは随分な傲慢な発言にも読めてしまい、あまり良い気はしない。
  とはいえ、規模の大きな作品(物語の規模という意味でも、商品単体の規模という意味でも)を、しかも基本的にメディアミックスやアワードに依存しないオリジナル作品の形で、純商業的に成立させるための敷居が低いという点で、現在の美少女PCゲームが恵まれた状況にある、という認識は大いに賛同できる(――実際、私も同じようなことを以前にも述べた憶えがある)。つまり:
  1)作品規模:時間の尺で見ても、一本あたり20時間なり30時間なりの超大規模の作品であること。20時間というのは、週一30分放送(実質23分程度)のTV番組であれば丸々一年間(4クール)にも相当するし、テキスト規模で見てもLNの7~10冊分にも相当する。これを小規模企業が単品の作品としてその都度ゼロから商業制作し発売することができるというのは、驚くべきことだ。
  2)オリジナリティ:特別のバックグラウンド無しに、単品のオリジナル作品として制作できること。一昔前のアニメはしばしば原作無しには企画が成り立ちにくかったし、漫画作品も「雑誌」というごく限られたリソース無しには成立しにくいが、ここ十数年のアダルトPCゲームはメディアミックスの起点となることはあっても受け皿(二次的派生的商品)となることはほとんど無かった。アダルトメディアであるという側面が不断に作品毎の新規性を要求していることも、この幸運な状況を後押ししているのかもしれない。露骨なパロディものも、ごく一部のブランドを除いて滅多に行われていない。その意味で、非常に健全な分野だと言うことができるだろう。
  3)商業的自立性と参入容易性:純商業的に成立していること。上記2)とも部分的に関連するが、例えば文学賞のような箔付けを必要とせず、また大掛かりなスポンサーの後ろ盾を持たずに、基本的にはユーザーの財布のみによってこの分野は存立してきた。そしてそれゆえ、新規ブランド設立の敷居も低い(つまり新規参入が容易である)し、新作の企画立案に関するメーカー自身の決定権の度合いも大きいであろうと推測される。広汎に普及しているパソコンをプラットフォームとし、かつそれのみがあればほぼ足りるというのも強みかもしれない。これが他分野であれば、新規参入のためにはまず雑誌設立(漫画)、番組枠獲得(アニメ)、出版社設立(LN)といった大掛かりなインフラ(発表メディア)の整備から必要になってしまうが、PCゲームではそうしたコストがほとんど掛からない。ただし、実際には流通等からの出資やパートナーブランドシステムが常態化してはいるが。
  以上要するに、「作品規模のキャパシティ」「オリジナリティの許容/促進」「経済上の参入容易性」といった点で、現在の(アダルト)PCゲームが物語制作を目指す人々に対して大きなアドヴァンテージとなるチャンスを提供しているというのは確かだろう。そして、桜井氏が「『完結したひとつの大長編』を思うがままに作ることのできる媒体」だと述べているのはこれと同じ趣旨だろう。そしてさらに、その特性を享受しているのは制作者サイドだけではなく、我々ユーザーもまたその利点を享受している。
  ただし、そのわりにこの桜井氏自身は、1)すでに5年以上の蓄積のあったメーカーに後から所属して、2)それほど大きくない作品規模で、3)連作によるブランド化戦略を採っているので、そういう人物の発言としては、その信憑性と説得力を支えるべき実体験のありようはいささか微妙だと言わざるを得ないが(――第一点について。ブランド自身のデビュー作『ちょーイタ』は1999年、桜井氏がこのブランドで脚本初参加した『Angel Bullet』は2004年の発売である。桜井氏の脚本家デビュー作『アネもネ』は、新規ブランドだったようだが。第二点については、フルプライスにしては作品規模が小さいのは、Liar-soft作品全般の傾向でもあるが。第三点について。2006年の『セレナリア』以来、桜井氏自身の企画作品は、すべて[?]が単一のシリーズものであり、その意味では非常に幅が狭く、また、シリーズものによるネームバリュー戦略に強く依存している)。

  ……この話は以前にも(twでも)複数回書いていた筈なのだが、見つからない。おおむね同じようなことを、表現や視点を多少違えつつ、書いていただけだったろうが。


  ところで、20時間という尺は十分な規模のように見えるが、しかし本当に大きなことを丁寧に語りきろうとするには全然足りないものだということも、例えばあのフルプライス作品(の息切れ)やあの作品(の尻つぼみぶり)を通じて、そしてあの作品があれほどの物量を要したとかあの作品のプレイ時間が50時間あるいは60時間に達したとかあの作品が延期分割制作されざるを得なかったとかといった数多くの経験を通じて、よく知っている筈だ。


  私が上で槍玉に挙げている特典DLというのは、最近のPULLTOPがやっているようなDLコンテンツのこと。例えば『彼女と俺と恋人と。』(2012年12月発売)は、初回限定版特典として妹キャラが攻略可能になるパッチが2013年2月末までDLできる(※初回版にDLシリアルコードが同梱されている)。これは、分割販売以上に単一商品の切り売りであるだけでなく、作品の当該部分の寿命を極端に短くするものだし、そしてこの作品を十分な形でプレイしたいプレイヤーはプレイ時期を(あるいは少なくともインストール時期を)その3ヶ月未満の短い期間に強制されることになる。非常に理不尽な仕様だと思う。もちろんこれは中古購入者や違法DL者に対する牽制として有効性があるだろうが、その代償とするには「作品の完結性(一体性)」と「長期保存可能性(完全な再プレイ可能性)」の喪失はやはり大きすぎる犠牲だと感じられる。
  私はこの作品のコンセプトに興味があったので買ったが、そして藤咲ヴォイス(※上記妹キャラを演じておられる方)が好みであるにもかかわらず、「2013年3月になるまでは絶対にプレイしてやるものか」と決意している。
  [ www.eternal-will.jp/corona_fd/corabo/ ]:こういうメーカー間コラボもわりと好きなのだけど。


  なんと可哀相な……野良犬を晒し者にしてやるなよ……。>イ○○ン若手○○家10人


  【 SD画像雑感(cf. 演出論Ⅳ章4節1款δ) 】
  SD画像はギャグシーンで――その画風からしてギャグシーンのために、そしてその場面でのみ――使用されるというのが大半だが、しかし、あらゆる種類のシーンで情景表現充填のために用いることもできる。つまり、1)様々なシチュエーションの画像を、2)比較的低コストで、3)迅速大量に制作できるという制作容易性を活かして、AVG進行の中に大量に投入していけば、その作品の視覚表現はたいへん豊かなものになり、さらにSD特有の柔らかでユーモラスな印象が全編を浸していくことになる。近年のタイトルでも、SD画像の使用枚数は十数枚から三十枚弱というのが一般的だと思うが、これを50枚、60枚と投入していくと作品全体の密度と印象が激変する。その視覚表現の厚みは、カットインや一枚絵を潤沢に使用する作風(『白詰草話』『銀の蛇』『カルタグラ』『eden*』)に近づいていく。
  SD画像の枚数が特に多いのはALcotである(『大統領』52枚、『鬼ごっこ!』50枚)が、その作風と相俟ってギャグシーンに傾斜しすぎているきらいはある。『祝福の鐘の音~』はやや短めの物語の中に29枚を使用しており、細かなチップ素材の多用と相俟って、ヴィジュアル進行の密度感をよく感じられた。それとは逆に、フルプライス作品の中で中途半端に(ほんの数枚だけ)SD画像を使うと、その部分だけが浮いてしまい、かえってマイナスイメージをつけてしまう場合がある。私にとっては『英雄*戦姫』はまさにそうだったし、『星空のメモリア』もSD画像にミスマッチを感じた。

  追記:簡単な計算をしてみよう。機械的に考えると、例えば20時間を要するテキストで100枚のイベントCGが用意されているタイトルの場合、イベントCGは物語進行の12分毎に1枚ずつ使用できることになる。もちろん実際には一枚絵は序盤(キャラクター初登場時など)と終盤(アダルトシーン)に傾斜配分されるため均一なバランスにはなっていないが、平均すればこうなる。さらに、SD画像を20枚追加すれば10分に1枚ずつ専用画像が現れるようになるし、SD画像が60枚であれば7分半に1枚の頻度にまで上がる。つまり、それだけ多くの場面に――非常に多くの場面に――その都度専用画像を充てられるようになるということは十分察せられるだろうし、ゲーマーのこれまでの経験と体感に顧みればこの違いの大きさはよく理解できるだろう。
  ゲーム全体の中での専用画像進行の割合の大きさ(換言すれば「立ち絵-背景」パートの相対的な少なさ)は、おそらく黒箱系タイトルの方がはるかに上だろう。そして、その一方で白箱系が「立ち絵-背景」パートの演出に注力しているのも、おそらくこの事情と関連している。


  【 システムとネタバレ 】
  バックログでネタバレ、という事態が起きることもある。発話者欄では「???」になっているのに、バックログ画面を開くと台詞の横にフェイスアイコンがばっちりと……。
  同様に、コンフィグのキャラクター別音量設定欄も、否応なしに登場人物の存在を示さねばならず、そしてその情報が物語進行上のヒントを与えてしまう可能性がある。ただし実際には、未登場キャラクターの項目を選択不可あるいは「???」状態にしておくという慎重な対処がなされている場合がある。知るかぎりではe.go!エンジンが早くからこの機能を実装していたし、最近ではEushullyも同じ処理を行っている。AVG作品でも、同様の機構をいくつか目にした憶えがある。もちろん、この機能を適切に制御するためには、エンジン/スクリプトの次元で手の込んだ条件管理が必要になるが。
  システムによる(予期せぬor意図的な)ネタバレという点では、キャラクター別テキスト色変更を伴う作品に、非常に面白い例があった。二人の登場人物AとBが実は親子であったと判明する物語で、そのキャラクターAの台詞とBの台詞は最初から――親子関係が明らかにされる以前から公然と――同じ色でテキスト表示されていたというもの[tw: 68192431060942848 ]。プレイ当時、この隠微かつ周到な修辞に気付いた時は本当に感激したものだった。
  「ネタバレ」と書くと否定的な意味合いに聞こえてしまうかもしれないが、「特定の情報(意味)をプレイヤーに伝達するorしないように制御するための技術的(システマティック)な手段」の一側面として非常に興味深い。


  『夢喰いメリー』は1巻ディスクが再生5分でエラーを起こし、それで心が折れて2巻以降は買わずじまいだった。その後、漫画版は買い揃えて、そちらはまあ楽しめたのですけれども。


  大きめのテキストに小見出しを付けてみた。



  2013/02/25(Mon)
  京都は粉雪。今冬は降雪が多い。そういえばO田先生像を撮るのを忘れていた。


  昨日のインタヴュー記事の話。「以前は800×600がメインでしたが、いまは1920×1080が中心です」というのは、おそらく本当だろう。画像サイズの拡大はユーザーレベルでも実感している。表示ウィンドウサイズそれ自体はフルHDより小さくとも、特に一枚絵や立ち絵については実際にはウィンドウサイズの数倍(例えば縦2倍×横2倍)の高解像度素材を使用しているものがある。フルHDモニタ対応(フルスクリーン表示)のためだったり、あるいは拡縮演出のためだったりと、意図や事情は様々だろうが。私がプレイしている範囲でも、例えばCN(FAVORITE)、LW、SkyFish、緑茶、lightなどは比較的早い時期から高解像度画像を使用しているし、他にもそういうブランドは多いだろう(――ちょうど昨日もリンクしたゲームソフトのワイド対応・デュアルディスプレイ対応比較 の資料が参考になる)。ぱれっともかなり大きなサイズでCG制作していて、原寸で見るとたとえば瞳の複雑なグラフィックワークの美しさにあらためて感嘆させられる(※――原寸データは『MERI+DIA』特典データで見たことがあるが、これは2005年[!]の作品だ)。例えばlightの新作『しろのぴかぴかお星さま』(2013年1月発売)も、公式サイトの動作環境欄では「レンダリング解像度:マルチ解像度。フルHD対応。1024×576(必須) 1920×1080(推奨)」とある。また、SkyFish(使用エンジン:ExHIBIT)やFAVORITE(使用エンジン:FAVORITE VIEW POINT SYSTEM)の作品は、CG観賞モードで倍率表示や原寸表示ができるようになっている。


  【 PCゲームの価格設定 】
  【最初期~】。8800円(税抜)を超える価格設定の先鞭をつけたブランド/タイトルはどれだろうか。最初に頭に浮かんだのはstudio e.go!pajamas soft。前者は『Twin Way』(2000年、初回限定版9800円)、『マイ・フェア・エンジェル』(2001年、9800円)、『MAW3』(2002年、DVD版10800円)等々。後者は『パンドラの夢』(2001年、初回限定版9800円)、『PIZZICATO POLKA』(2003年、特別パッケージ版9800円)、『プリンセスうぃっちぃず』(2005年、初回限定版10800円)など。F&Cも、『Piaキャロ1/2/TB』セット(2000)を皮切りに、「FCカード付き」ヴァージョンで1000円上乗せした一連の作品(2000年以降)があり、そして『Piaキャロ』シリーズ(2006年の「G.O.」、2008年の「G.P.」、2010年の「4」)も8800円超え。D.O.も、『クリスタルナール』(1996)から『家族計画~絆箱~』(2002)にかけて、9800円タイトルを何本もリリースしていた。ORBIT系列も、CLOVERブランドの『モルダヴァイト』(2002年、9800円)とROOTブランドの『桃華月憚』(2007年、卓上時計付き豪華版が11800円)がある。
  【00年代半ば~】。『ジュエルスオーシャン』(2004)は、初回限定版が8900円という微妙な価格(通常版は8400円。ただし、その後Escu:de自身は8800円を超える価格設定を行っていない)。Overflowの『School Days』シリーズ(2005年~)も、9500円にしたり8500円にしたりと細かく定価変動している。Littlewitch/天狐のモノクローマは、『少女魔法学』(2005年、初回限定版9300円)、『フェアリース』(2009年、9800円)、『SCF』(2010年、9800円)、『英雄*戦姫』(2012年、9800円)。『聖なるかな』(2007年、9500円)以降のxuseも、8800円を超えるタイトルを複数本リリースしている。
  【00年代末~】。Eushullyも、『戦女神ZERO』(2008)以降、フルプライス級タイトルでは9400円がほぼ常態化している。BaseSonは『真・恋姫†無双』(2008年、9800円)と『天下御免』(2011年、9800円)。LoSも『タユタマ』(2008年、9800円)と『花色』(2012年、9500円)、そして今度の新作も9500円とのこと。『真剣で~』シリーズ(2009年~)はいずれも(通常版も)9800円。UNiSONSHIFT Blossomは『FlyableHeart』(2009)と『君の名残は~』(2010)の特別パッケージ版が9800円。『Dies AeF』(2009年、初回版11800円)や『仏蘭西少女』(2009年、豪華特装版14800円)はかなりの高額商品になった。Whirlpoolは強気価格の印象が強かったが、確認してみたら『77 豪華特装版』(2009年、9800円)と『竜翼のメロディア』(2012年、9800円)のみ。HOOKSOFTは『さくらビットマップ』(2010年、9500円)と『LOVELY QUEST』(2012年、9400円)。意外なことにminoriは8800円を超える価格設定をしたことが無かった(――2012年の『夏空の~』で9800円をつけたのが初めて)。『虚ノ少女』(2013)も9800円になり、『大図書館』(2013)のプレミアムパックは抱き枕カバーやねんどろいどまで同梱して12800円というかなりの高額になった。
  めぼしいものを列挙してみた。ごく一部のブランドは早期から8800円の枠を崩していたが、2005年頃から追随するブランドが現れ、2008/2009年頃からかなり増えてきた、という感じだろうか。2005年頃はファンディスク制作が一般化しさらに高額化が進展した時期だと記憶しているが、そういう状況も相互影響していたのかもしれない。さらに当然ながら、旧作ボックスセットや本編+FDセット版も高価格設定にならざるを得ない(※――追記:セット販売商品は以前から存在し、例えばgetchuの「セット商品」タグのリストを見ても分かるように、2002年頃から毎年20本前後発売されており、それらは廉価再販だけでなく高額商品もかなりの割合で含まれている。例えば『VIPER クラシックコレクションBOX』はいずれも30000円超え、『らいむいろセット』も25800円。先頃発売された『菅野ひろゆき メモリアル』も27000円になった)。
  ゆずソフト、ういんどみる、ALcotといった純愛系メジャーブランドは、そのゴージャスなイメージと裏腹に、8800円を超える商品をリリースしていない。Leafも、『WHITE ALBUM 2』の前後編セット商品(9800円)以外では8800円の上限を厳守している。なお、よく知られた事実だと思うが、alicesoftは8800円ではなく 8500円を標準価格にしている。

  私個人としては、以前から述べているとおり、価格多様化については肯定的に見ている。歴史的経緯としては、8800円という枠のおかげで体力の弱いブランドが助かっていた面があったのかもしれないが。例えばCG枚数が100枚だろうが80枚だろうが70枚だろうが、8800円で売ることができるということなので(――もちろん、7800円や6800円といった価格設定のタイトルも以前から多数存在した)。
  コンテンツの単品での完結性がこの分野の大きな美徳であり武器であるという見解は妥当だと思うし、私も実際にそのアドヴァンテージを歓迎しつつ享受している一人だが、それが維持される場合にはコンテンツの「規模」(あるいは価格に対する質的/時間的なコストパフォーマンス)と「機動性」(価格設定や新作発売スパンを必要に応じてコントロールしやすいかどうか)とは相反関係に立ち、そして現在まさに後者の困難が降りかかってきているということなのだろう。私個人としては、「コストパフォーマンス」の側面は重視していない(そもそも、8800円の対価を支払った見返りは、10時間楽しめるか20時間楽しめるかで測るべきものではないと考えている)という点からしても、メーカー側の機動性確保を悪く言う理由は無い。
  ただし、分割販売については、以前(雑記2013/01/08付)に詳しく書いたとおり、リスクのわりにメリットがはっきりせず、それゆえメーカーの収支を安定させる処方としての有効性は疑わしいと考えている。


  [tw: 305909665395535872 ]:『終末の過ごし方』というタイトルと「派手」という言葉の結びつきが面白い味わいだが、「派手」というのは具体的にどういう演出のことだろうか。もちろん「大見得の(大袈裟な)演出」という趣旨でないのは分かるが。処理能力の話題に絡めている点からすると、画像やBGMのクロスフェード表現を強引に実装していたところだろうか(――個人的には、[背景]画像のトランジションはともかく、BGMクロスフェードは好みではない)。


  『BUNNYBLACK3』か!
  おおお……羽高氏のメインヒロインに、小倉氏のご出演とは!(感涙)

  フォーゼロッテが髪を短くしているのも、若やいだ感じで好印象。

  公式サイトに「魔力の操作を自在に行えるようになり、触手の塊であるが自身の分身体を作る事に成功した」とあるのは、『アルフレッド学園』の雪継が「ウニ(自身の魔力を体外に放出したものが触手モンスターの形をとった)」を作り出したのと同じ原理と思われる。SHC共通世界では、魔力を結晶化や体液放出などの方法で体外排出することができる。

  「樹神族」なんて、あったっけ……と自分のサイトを見返してみた。天界の8部族は『グリンスヴァール』によれば「光神族、闇神族、焔神族、風神族、地神族、水神族、樹神族、雷神族」だが、他作品では「"炎"神族」という呼称もあったし、『BB2』のカーシャは「獣神族」とされていた。今までに登場した主な天界人キャラクターを整理すると:
- 光神族:クーチェル(『アルフレッド』:雪継配下)、ウルティニア(『BB2』:ダークス配下)、メルエ(『グリンスヴァール』:人間界に居住)、マリーアリス(『BB2』ダークス配下)、ミアルテ(『BB3』)、ルーアルテ(『BB3』)
- 焔神族:オルデウス(『BB2』:死亡)、パニバーナ(『BB2』:ダークス配下)、ルミーゼ(『アルフレッド』:雪継配下)、フィリアネ(『BB2』:ダークス配下)
- 水神族:イザナ(『BB2』:ダークス配下)
- 獣神族:カーシャ(『BB2』)
- 樹神族:キュリハ(『BB3』)
- 闇神族、風神族、地神族、雷神族:未登場



  2013/02/24(Sun)
  久しぶりに『片恋いの月』を再プレイしたくなってきた。発売は2007年だから、6年ぶり。当時の私にとって、AVGの新しい世界を見せてくれた作品だった。インラインスケートのキャラが画面を滑り回る立ち絵演出(※『るいは~』よりも早い)も楽しかったし、スクリプトワークの超絶技巧もその都度の場面の要請に即したものだった。しらけどりみたいな鴨が横切る演出も…まぁ嫌いではなかった。タイトル画面変化も緑茶お得意の3部構成シナリオと相俟ってたいへん感慨深く(※物語進行に応じて作品の枠組自体をもその都度組み直そうとするその志向はその後『恋色~』でタイトル変化にまで先鋭化するが)、技術面では例えば高品質な(ガタつかない)低速スクロールの実装という点でもわりと先駆的だし(※そのセンスそれ自体は2003年の『白い蛇の夜』の時点ですでに発揮されていたが)、ワイド画面採用に関しても最も早い時期の実例に属する(cf. ゲームソフトのワイド対応・デュアルディスプレイ対応比較、演出論Ⅰ章3節の註4)。私見では、00年代後半の最も重要なマイルストーン的作品の一つ……なのだが、この診断がどこまで共有されるかは心許ない。

  PCゲームのセーブデータが作成されがちなフォルダ群はショートカットを作ってどこかにまとめておくと何かと便利なものだが、最近ではセーブデータ管理ツールが同梱されていてそこからセーブフォルダを開いたりあるいはセーブフォルダを任意の場所に設定したりすることができる。上記『片恋い』にもそれがあり、そしてその比較的早期の実例だったと記憶している。


  サイトで公開しているテキストは、「サイト内リンクはリンクのみ」、「外部サイトへのリンクはボールド(太字)+targetタグ(つまり新しいタブ/ウィンドウを開く)」と区別しつつhtmlを書いていたが、こちらのブログではtarget指定を横着してしまっている。できれば一々修正していく方が良いと思っているのだが、なかなか実行できない。今も。


  タイトル画面は、その舞台、その街の俯瞰遠景のが大好き。すぐに思い出せる範囲でも、LWの『リトルウィッチロマネスク』『シュガーコートフリークス』、FAVORITEの『ウィズ・アニバーサリィー』『星空のメモリア』、緑茶の『片恋い(の最終モード)』『プリンセス小夜曲』、それから『この青空に約束を―』『るいは~』『ALICEぱれーど』等々。Lassの『11eyes』もそれに近いレイアウトだし『青と蒼のしずく』は水没した市街という絶妙のシチュエーション。『あねいも2』『精霊天翔』もたしかそうだったような……。『君望』も、学園裏の丘の上にヒロイン二人がいて、その背後に遠く町並みが見える。いずれも、その節制の中に想像力を刺激するデザインがたまらない。
  本編中のマップ画面として現れるのも好きだが(――『だぶるまいんど』『days innocent』『アルフレッド学園』『とっぱら』『ワンダリング・リペア!』等々、実例多数)。パッケージアートが舞台遠景のみ(パッケ前面にキャラクターは一切描かれていない)という作品もある。『百鬼』。


  [tw: 290493395577745408 ]:『グリムガーデン』以前に『シュガーコートフリークス』でも飯田氏は「企画」(兼シナリオ主導)を担当されていたので、企画実績はあると言ってよい。ただし、クレジットを確認してみると『SCF』では「監督」「ディレクター」が明記されていないので、社内でどのような体制で企画進行(進捗管理)が行われていたのかはよく分からない――つまり飯田氏の企画立案能力の証明にはなっても進捗管理能力の指標となるかどうかは外部からは分からない――のだが、『SCF』の完成度に鑑みれば新作もそれなりに期待してよいと思う。


  イベントブロックにタイトル(小見出し、チャプター表記)が付けてある作品はいくつもあり、それらの中にはわりと良いネタが仕込まれている場合もある。各イベント冒頭でカットイン的に小見出しが明示される場合(例:『さかここ』シリーズ)や、ウィンドウタイトルバー部分に表示される場合(例:『3days』)もあるが、セーブ/ロード時にしか確認できないパターンも多く、そして後者の場合は気付かないままクリアしてしまうプレイヤーも少なからず存在するであろうことを想像するともったいなく思われる。
  『桜吹雪』などでエピソードタイトルをすべて書き出してみたことがあるが、そういえば公開していなかった。見返してみたが、未プレイの人はもちろん、プレイしたことのある人が見ても、ちっとも面白くないかもしれない。私自身にとっては、確認のため再プレイしつつイベントブロックやフラグを把握するための作業として非常に有益だったが。


  私のイメージの中で、アトリエかぐやと「触手」はまったくつながらない。実際にそういうシーンを見たことが無いという意味でも、かぐや濡れ場表現の男女間スポーツ的志向(いわばストロングスタイル)からしても、かぐや塗りの触手が想像できないという意味でも。ただし、実際には『まほこい』には触手シーンがあったらしい。『DC』の全滅時シーンにもあったかもしれない。ういんどみるやWhirlpoolといった白箱系ブランドなら、触手の登場しない魔法少女ものも珍しくないのだが。


  酒井氏インタヴューについて。全体として非常に誠実な発言だと思った。そして、分割制作でも何でもいいからうまくやって生き延びてくれ、というのが私の感想。消費者側が制作側の懐具合を心配するというような心理的繋留無しにはやっていけない関係は市場として不健全だし、少なくとも私個人は市場的交換の公平性――つまり「面白ければちゃんと買う」――を超えて善意やパトロネージといったコミットメントによって/のためにゲームを買うような辛気くさい真似はしたくない。まして、ゲームメーカーの財布事情を忖度して同一タイトルを複数本購入するなんてのは真っ平だ。しかし現実問題として商業アダルトPCゲームがそれほど余裕のある市場ではなくなっているのであれば……私としては「うまくやってくれ」とただ無責任な呟きを漏らすしかない。その「うまい対処」が例えば分割販売方式であるならばそれはそれで甘受するし、あるいはDL販売(流通/小売に取られる分が減る筈だ)が有望であるならばパッケージ所有への拘りから譲歩もしよう。予約特典や本数絞り込みによる囲い込みにも随分慣らされてしまっている。従来の8800円の枠を超える価格設定のタイトルも増えてきた。『オルタ』の出来と規模を実際に見た後であの分割制作を批判し続ける者などいまい。公式ファンクラブを設立したって構わない(――ねこねこやLWの例を見ると、割に合わないのかもしれないが)。オンライン認証も受け入れよう(――ただし、コンテンツ一部分の時限化[例えば特定ヒロイン攻略パッチの期間限定DL]のようなものは、作品寿命の切り詰めという理由から、好きになれないし敬遠してしまうが)。それらは、メーカーへの気遣いや「買い支え」意識など無くとも、ただ単に自分の趣味が維持されるための合理的妥協として行えることだ。
  若年(成人)-独身-男性-インドア派-社会人(と大学生)をメインターゲットにしてその精神的(美的/知的)欲求と肉体的欲求の双方に応えられる分野なのだから、非常に有利で十分有望な市場のように思えるのだが、競合相手が多いのかねえ。そういう競合乃至隣接するメディア群との間で人材融通しつつ活性化していってくれればと思うが。そして、新作をきちんと予約購入して発売後の土日のうちにスピードクリアするゲーマーたちの情報収集能力と行動力と健啖さは、善意の有無と無関係にその力を発揮し続けるだろう。

  なお、それとは別に、「購入することは、そのメーカーor作品の方向性に対して、支持票を投じることと同義だ」あるいは「そのメーカーの将来に投資することだ」という関係は、この市場においても妥当している。金を払う力のある者の意向が市場において力を持つというのは当然のことだし、ユーザーはその経路で自己の力を好きなだけ発揮してよい。自分の趣味嗜好を制作方針に反映させていくために最も効果的なのは、予約購入(=マクロレベルの影響行使)したうえでアンケート葉書を出す(=ミクロレベルの影響行使)ことのようだが。

  この業界が現にどれだけ多くの音楽家(主題歌/BGM制作)と役者(声優)とイラストレーター(原画/彩色)と文筆家(脚本)と動画制作者とその他諸々の人々を――適切な表現が思いつかなかったが――養ってきているのか、あるいはCD/DVDプレス会社や音響制作会社や流通/小売企業やグッズ制作会社にどれだけの仕事を提供しているかを考えれば、すごいことだと思う。特に声優やイラストレーターについては、人材をactiveにプールするうえで大きなマージンを提供してきたと言ってよいのではなかろうか。ただし、数のうえでは専業プログラマはかなり少なそうだし、歌手は寡占傾向がかなり強いように見受けられるし、人材発掘という観点では文筆家や音楽家に関してはそれほど大きな寄与は無かったかもしれないが。



  2013/02/23(Sat)
  web検索で初見の個人ブログ等を閲覧する際には記事一覧等でそのブログの方向性をざっと確認したい(個人的にその情報を重視している)ので、それが提供されていないブログに行き当たると途方に暮れてそのままタブを閉じてしまうことがよくある(――逆に、例えばhatenaはちっとも好きではないが「記事一覧」が用意されている点だけは好ましい)。
  このブログも、全体の見通しを良くしようと総目次ページをトップに置いているが、その実、大量の雑多な記事を雑記欄に押し込めてしまっているので、もしかしたらアクセシビリティの観点では最悪の構成なのかもしれない。使えそうな記事(資料性のある記事や個別作品の感想記事など)は、単独ページ化していった方が良いのかな……。個別クリエイター(声優、原画家等)の雑感も、まとめて切り出しておく方が便利かも。


  Escu:deは、脚本をせめて籐太時代(『RUIN』~『JO』)の水準まで回復してくれないかな……あるいは、わさび氏(『WR』『ヴェルディア』)が脚本にタッチしてくれるとか。申し訳ないけど、『ヒメゴト~』の主人公とか、本当に気持ち悪かったし……。プログラムはもちろん作品コンセプトの切れ味もゲームシステム造形もグラフィクス面もサウンドスタッフも高い水準に来ているので、残るは脚本さえもう少しマシな出来になってくれば、私にとって本当に最高のブランドになるのだが。
  このブランドの作品は、声高に語られることは少ないけれど、時代の一歩先を行くような鋭いコンセプトのものが多くて、美少女キャラクターを捕えるダークサイドの『プリマヴェール』シリーズ(当時のブームの呼び水となった、2000年の作品)、魔法少女ものとして先駆的な『メタモルファンタジー』(2001年。非人間型奇抜主人公のはしりでもある)、魔王主人公+侵略SLGものの『英雄×魔王』(『冥色の隷姫』と同年で『RanceVII』より一年早い、2005年)、OPアニメーションが人気を博した(らしい)『ふぃぎゅ@メイト』、音響表現やUIを含めたAVG表現の洗練深化に挑んだ『WR』『ヴェルディア』『あかときっ!』と、一作毎に野心的な試みを行いつつ優れた成果を出してきている。それでいて、『プリマヴェール』『LLD』『ふぃぎゅ』『ヒメゴト』のように調教SLGの伝統に棹さして複雑なフラグ体系を見事に切り回す作品群もリリースしているし、『JO』『プリスター』もSLGの力作。こんな不思議なブランドが存在することが、奇跡のようにすら思える。以前もどこかで書いたが、私が一番好きなのはSHCだが、一番凄いと思うのはEscu:de(と緑茶)。いや、LWもぱれっともpajamas softもあぼぱもSkyFishもどれも好きだけど。


  え……今初めて気付いたんだけど、『白詰草話』のCG/音楽/シーン回想モードでは、各セルに入っているアイテムの位置を、ユーザーが任意に移動することができる。いったい何のためにあるんだこんな機能! 11年目の新発見だ!
  ただしこれは類例の無い発想ではない。黒箱系には、いわゆる「実用」目的で、回想シーンの再生順リストをユーザーが作成編集できる機能を設けているタイトルが存在する。

『白詰草話』 (c)2002 Littlewitch

「Music Library」モード。サムネイルをドラッグ&ドロップすることで、画面右側のスペースに移動することができ、さらに任意の空きセルに移動することもできる。左図は2個の曲を手動で右側スペースに移動させた状態。「このスペースにパネルを一時的に置き、他のシートに移動させる事ができます」とポップアップが出る。画像モード及びシーンモードでも同様のことができる。


  【 SLGシステムデザインの意義と価値 】
  引き算の発想をしないSLGは本当につらい。合成を盛り込んでー、アイテムドロップを盛り込んでー、武器のレベルアップもさせてー、味方キャラクターもたくさん登場させてー、ユニットも選択制クラスチェンジさせてー、スキルもたくさん作ってツリー式に発展させてー、属性効果を何種類も何種類も設定してー、拠点建設も増やしてー、図鑑を埋めさせてー、ミニゲームも付けてー、超長いエクストラダンジョンをたくさん付けてー、もちろん本編も複数ルートを作って周回させてー、そして他にも既存のSLG/RPGで見かけたようなシステムをたくさん取り込んでー、というE社やN社のアプローチ。作品のコンセプトがぼやけるし、「何でも出来る」というコンセプトを目指しても限界がある(あるいは『南国ドミニオン』になるしかない)し、それでいてUIはちっとも改善されないしバトル進行はだるいしLvUPは時間が掛かるし……。例えばN社のディレクター(ゲームデザイナー)のお二人も、twでの発言を追ってみるかぎりではゲーム評価眼はとても優れている(だからセンスが悪いわけではない)し、作品の難易度バランスも良く出来ている(だから技術が足りないわけではない)のだが、それでいてどうして作品はあんなことになるのか。これは部分的には美意識の相違に還元できるところもあるだろうが、しかし私には「システム要素は多ければ多い」と言わんばかりのデザインは幼稚で放恣で前近代的なものにしか見えない(――既成のモジュールを多数連結して一つの伽藍を作り上げるよりも、ある特定のシステム[メカニズム]をめぐって、それを物語要素によって駆動させつつその持てるポテンシャルを最大限引き出してみせるアプローチの方が、美的にも技術的にもはるかに高度な営みだと思う)。私見では、『神採り』にしても『フェルシス』にしてもその恐竜行軍の鈍重さを救ったのは、皮肉なことにシステムではなく物語の力であり、そして物語による救援が及ばなかった箇所は本当につらかった。
  問題なのは、システムの過剰さや不必要さだけではない。むしろよりいっそう大きな問題、そしてよりいっそう深刻な問題は、上記のような「量」の問題ではなく、「質」の問題にある。すなわち、それらのシステム群がいずれも変わり映えのしないものであるという点、つまり新規性と創造性に欠けるという点である。合成システムにせよ、スキルツリーシステムにせよ、それらのブランドによって繰り返し用いられるシステム(の使い方)は、しばしば変わり映えのしないものであって、新たな(そしてその作品ならではの特有の)意味を創出するという水準に届いていない。視点を変えれば、そのように無内容なシステムだからこそ、無内容無反省なまま一見汎用性のあるゲームシステムとして反復使用されるということかもしれないが。いずれにせよ、創造性と独自性を欠如して――それらを目指すことをまるで放棄して――、ただただゲームのボリュームだけが増大していくゲームは、少なくとも私にとっては、苦痛の増大以外の意味をほとんど持たない。
  それでは、既成システムのアイデアの無内容な反復の中に、そのデメリットと引き換えにできるような積極的意義はあるだろうか。作中世界表現の緻密化(例えば属性種類の増加はその世界のありようにリアリティを増すだろうか)? あるいはゲームルールの複雑化(手段の増加によるシステムのポテンシャル増大は図られているだろうか)? それともユーザーの理解しやすさや受け入れやすさ(そうした側面はあるだろうか)? 残念ながら、私のそれほど豊富でないSLG経験の範囲内では、そのような肯定的意義を見出せたことはほとんど無かった。「ゲーム性」の因習化した通念に寄りかかったままのシステムデザインが批判に服すべき所以は、創造性の欠如こそあり、そして「システムに対する創造性」あるいは「システムを通じての創造性」の観念を欠いたゲームデザインが量的拡大以外の目標を意識し得ないということは、残念ながら非常にありそうなことに思われる。


  そんなことをしているうちに今月も10本以上買ってしまった(※非新作や中古を含む) ので、既/未プレイ率はあまり変わっていなかったりする。デデンデン!


  例えば「○○なゲームが出なくなったのは何故か」と悲憤慷慨する人たちが現れたりするが、「何故そうなっているのか」を問う以前に「本当にそうなっているのか」が吟味されていないことが多く、そして実際にもしばしば実態に即さない空想的な批判になっている。とはいえ、ある措定された特定の事態についてその原因を思い巡らす方が、ある特定の事態についてその存否を検討するよりもはるかに(コストの点だけでなく、心理的にも)楽であり、そしてそれゆえ多人数の参加するweb言論では議論が前者に流れやすいという事情はあるだろうが。
  ところで、いわゆる「シナリオ重視」系タイトルが通常のタイトルよりもコストが掛かる(だから制作されにくいのだ)という思考はどこから来るのだろうか。「売れ行きが読みにくい=相対的に大きなリスクがメーカーに掛かる」という趣旨なら理解できなくもないが、それは通常「コスト」という言葉では呼ばない。そして「制作費用(金銭的コスト)が嵩む」という意味であれば否、つまり「むしろ相対的に安くつく」というのが実情だろう(――ああいう人たちの考える「シナリオ重視」系タイトルは、何故かしばしば「シナリオ以外の品質が極端に低い」という想定を伴っているし、そしてもしもそうであるならば制作コストは小さくて済む筈だ。実際には、彼等が想定するほど極端な低品質ではないとしても、高品質傾向でもないであろうから、やはり「通常よりもコストが掛かる」が正しいとは言えまい)。「時間的コストが掛かる」という意味に解するとしても、その想定も疑わしい。その想定はおそらく「執筆分担(つまり平行作業)が困難であり、一人のライターが全脚本を書ききらねばならないため、時間が掛かる」という主張になるだろうが、それもおそらく妥当な理解ではない。そのような想定は、文章芸を楽しませる作品には当てはまるだろうが、いわゆる「シナリオ系」タイトルはそうではなくてプロット(つまり物語の構成)の出来に左右される筈であり、それゆえ単独執筆であることは必須要件ではないからである。



  2013/02/22(Fri)
  マジック(呪術)マスターこなみさん……魔女っ娘だった時期がおありなのか。


  登場人物たちの立ち絵服装がいつも変わらないことについて、「同じ服ばかり何着も作ってあるから」という説明を与えたタイトルがある。冗談めかしたエクスキューズではなく、これが理由として成り立ちうる作中状況だったので、私は素直に納得した。遡れば映画『ザ・フライ』あたりにもそういう話はあり、そこではその人物の科学者らしい合理主義と常識外れな奇人ぶりを表すエピソードになっていた。数のうえでは、一張羅設定(例:無人島漂着)の方が多いと思うが。
  さらに遡れば、ホームズあたりもそうだったかもしれない。


  単独原画作品って本当に良いものだなあ……。特に実力の高い原画家さんの場合は、ピッチが正確に合った演奏を聴くような安定感(安心感)と、そしてはっきりした美的統一感が立ち現れてくる。
  とはいえ、複数原画作品もこれはこれで美点はあり、目を楽しませてくれる豊かなヴァラエティが展開されたり、あるいは作品の意味内容に即した原画分担が非常に面白い画面作りを見せてくれたりする。後者の例としては、以前にも挙げたが、真ヒロインのみの絵が別の原画担当者によって描かれている『DOOP ADVANCE』(※元作品『DOOP』からの追加要素)と、3人の原画分担が3ヵ国の勢力分布に対応している『乙女恋心プリスター』(※PLは3人の主人公の中から選択してプレイできる)がとても良かった。
  PC美少女ゲーム全体の傾向としては、以前に数えてみた際には、70%以上が単独原画制作だった。低価格タイトルの増加も考慮すると、2013年現在ではこの比率はもっと上がっているものと推測される。複数原画になりやすいのは、白箱系やSLGのような大規模タイトル。他方、アトリエかぐやはあの発売ペースとあの枚数でありながらほとんどが単独原画という驚異的な制作編成を取っている。原画家がトップの会社(e.go!/でぼ、LW)や、light、キャラメルBOXも一貫して単独原画だったかと思う。
  cf. [ twilog.org/cactus4554/date-100126 , 100127 ]: passim.


  【 稿の問題 】
  複数のヴァージョンのあるタイトルの異同やシリーズものの相互関係について整理している方はいらっしゃるだろうか。例えば『痕』(2度の大きなリメイクがある)、『黒の断章』(SS版、Win版、for Win: SS改訂版の3種類?)、『君望』(コンシューマを含めて5種類+FD)、『D.C.』(とにかくいっぱい)、『うち妹』(2種類だが内容はかなり違う)、『プリンセスうぃっちぃず』(「EXCELLENT」版でシナリオ追加等)、『プリズム・アーク』(初版[豪華版/通常版]、リマスター版[ヴォーカル曲CD付]、「らぶらぶ感謝パック」[前作とFDを同梱]はそれぞれ特典が異なる。PS2版と、いくつかのFDもある)、『世界ノ全テ』(無印、RoY、PS2版、「ノ全テノ全テ」版の4種)、『Dear My Friend』(3種類)、『恋姫†無双』(無印版と『真』の2種類と、それらの家庭用機版、そしてFDの『真・萌将伝』。『真』でシナリオ一新、キャラ大量追加)、『Dies』(AsZ[最初の版]、AsZ-W[第一次追加版]、AeF[第二次追加版]、AeF-SG[AsZ-WをAeF化するアペンドディスク]、aE[第三次追加のある全年齢版])、『戦極/三極』(知らん)など。『マブラヴ』『Fate』のようなマルチメディア展開はもはや追い切れない。実際に各ヴァージョンをプレイして、それらの間でどういう点が異なっているかを整理してくれたらたいへん有難いのだが、そういう奇特な人はなかなかいないだろう。ただし、幸いにも一部のタイトルについてはwkpdの記事で変更点等がまとめられている(例:『D.C.』『君望』)。

  『痕』でも、細かく言えばDOS版、Win版、Win版(新パッケージ版)、Win版(おまけシナリオ修正版)、Win版(のちのリメイク版に初回特典として同梱されたもの)、リニューアル版、リニューアル版(新パッケージ版)、リメイク版(初回版。先着特典でフィギュア付きのものも)、リメイク版(通常版)、リメイク版(DL版)の10種類、さらに没ヴァージョンとして「コンシューマ版」(告知のみ為されたことがある。現行のリメイク版に結実したらしい)と「みつみ版」(公式サイトでキャラデザのみ公開されたことがある)、それから『2』構想が語られたこともある。内容面での変更点を大まかに整理すると:
1) オリジナル版(1996年~)。640*480(16色)。BGMはmidi(DOS版)とCD-DA(Win版)の2種がある。のちに「おまけシナリオ」(の一部?)が削除された。Win版はWin7(64bit)でも一応動作した。
2) リニューアル版(2002年~)。Win98/Me/2000/XP対応。800*600(フルカラー)。大筋はほぼ同一で、イベントCGの構図等はほぼそのままだが、CGは全て描き直し+塗り直し(※一部に新規一枚絵あり。仕事場の千鶴や、不審者[響子]を捕える耕一など)。プロットもほぼ初版通りだが、文面は全て書き直し+一部イベント追加(※新規おまけシナリオなど。千鶴の料理下手の原因や、ヨークの意志など、わりと蛇足気味)。フラグ体系にも再調整があり、梓→楓の順序が固定された。BGM(PCM音源)も、譜面は基本的に同一だが、新録になった。プログラム(エンジン)も大きく変わっている筈。
3) リメイク版(2009年~)。Win2000/XP/Vista対応。原画は甘味みきひろに一新。テキストは、高橋龍也担当部分はそのまま(?)だが、JIGYによる追加(新キャラのエクストラシナリオ)あり、ということらしい。BGMの異同は不明。ヴォーカル曲(OP/ED)、音声(フルヴォイス:ただしキャスト非公開)、イベント回想モードが追加。
  私はWin版とリニューアル版の2種類しかプレイしていない。

  他分野でも複数の稿の異同のある作品や何種類もヴァージョンが発生している作品はある(『源氏』しかり『メトロポリス』『プレードランナー』しかりブルックナーしかり)が、事程左様にゲーム分野でも同じようなことは起きている。

  ggってみたけど、『痕』ヴァージョン情報をまとめている人が見つからない(――個人単位ではないが、bbspinkには詳細なまとめがある模様)。あれほど有名な作品なのに……。しかし、「1996年版から2009年版まで13年間、ゲーマーとしてついてきており」かつ「web上で情報発信をしており」かつ「異稿情報をまとめようと意志する」人物となると、そうそういないものだろうか。私だって初版当時は本当に御子様だったし。ともあれ、必要なら単独記事化しようかと思ったけど、bbspinkで情報が生き残ってくれるようならそちらに任せておこう。



  2013/02/21(Thu)
  このblgは枚数ベースで見るとかなり大量にSS掲載しているが、引用として正当化される要件を満たすように努めているし、客観的にも正当化される範囲内に収まっている筈。つまり、雑駁に言えば、単なる無断画像掲載ではなく自身の論述に関連しそれを補充的に説明(例証)するための引用であり、出典明記等の様式も守っている、という意味で。なお、私が書いている文章の多くは、1)視覚表現を対象(主題)とし、2)視覚表現のあり方全体を考えるという目標で、3)実例検討という手法を通じて論じようとするものなので、画像素材引用の比重が一見大きくなることはやむを得ない(つまり、あくまで論述の必要性に即した特性なので、不当な過剰引用ではない)と考えている。
  公式サイト等でのガイドラインには従っていない場合もあるが、あれらは「このガイドラインに合致する場合には許諾する」と述べているだけであって「ガイドラインに合致しないものはすべて絶対的に不正である」ということではないと判断している。ただし、法律のみが人間行動の正当性の全面的絶対的基準だと考えているわけではない(つまり、「合法なら何をしてもいい」とは考えない)ので、ガイドライン上での要請のいくつか――例えば「ネタバレ画像禁止」――はできるだけ尊重するようにしている。
  とはいえ、私個人としては、年数の経った作品についてはネタバレ防止の敷居は引き下げているが。ネタバレを嫌う人々のためにその慣行を尊重しはするが、私自身の価値観としてはネタバレに対してほとんどタブーを持っていない。それどころか、ネタバレ防止の美名の下で話の要点を濁そうとするテキストは、私にとって憎悪の対象ですらある。そして、この観点からして、テキストを背景色化する手法はたいへん好ましいと思っている。つまり、一読してネタバレ記述が読者の視界に入ることは無いが、読者はいかなる情報が隠蔽されているかを知ることができ、そしてそれを知りたいと思う場合には容易に(隠蔽範囲を反転表示するだけで)情報を入手することができる、という点で。ネタバレの扱いに関する選択肢を個々の読者に提供する手段として、便利でもありそして誤魔化しが無くて良い。難点としては、使い方によっては嫌味になる可能性があるし、またweb検索から防衛することはできないが。
  以上の話は、専門の法学者や実務家の見解は違うかもしれないので、あくまで私見として。


  おー、中國氏が『GIS ARISE』に出演されるのか。是非とも観に行きたい。


  「桜色エンゲージ」を何回かリピートしているうちに、『フィガロの結婚』序曲の挿入も結構良いんじゃないかと感じられてきた。ヴォーカル曲の中に、原曲よりもかなり早めの快速調で粒立ったピアノが入ってくるあたり、まるでカデンツァパートのようなユーモラスさがある。


  ワープ番長……。


  先日(2/10)のフラグ可視化の話、もう少し議論を敷衍していけないものだろうか。選択肢補助(例:『星メモ』)、フローチャート(古くは『YU-NO』『フォークソング』、最近では『紅蓮華』など。cf. 演出論Ⅳ章2節1款)や章選択機能(『終ノ空』ほか)、各ED到達後の進行アドバイステキスト(『痕』)、再プレイ時のフラグ操作(再設定)機能(『アトラク=ナクア』)、攻略冊子(ninetailの予約特典)、公式サイトの攻略アドバイス(BISHOP、『MdB』『EXTRAVAGANZA』『仏蘭西少女』)、等々。フラグの具体的な動きを可視化している作品は、今のところ存在しないと思うが、読み物AVGならばそういうシステムがあっても構うまい。プレイヤーがどの時点でもどのテキストにもアクセスすることを可能に(自由に)しているLostScriptのDGBシステムは、「攻略」概念それ自体を破壊したとも言える。
  上記の他にも、公式サイトで攻略ガイドを提供していたタイトルがあったと記憶しているが……どこだっけ? → ggってみたら『告白の甘い罠』(D-Angel)と『レクタンドール戦記 レヴォラシオン』(AniSeed)も公式サイト上で攻略アドバイスを出していたらしい。いやしかしこれらの他にもあった筈なんだが……思い出せない。


  [tw: 304560027094642688 ]:なんと素晴らしい……。(目つきの悪いキャラクターも大好物な私としては、素直に喜ぶばかりではいられないけれど、それはともかくとして。)


  今月に入ってから9本目をプレイ中。目標はクリアできそうなので、ゆっくり丁寧に進めていきたい。そもそも本数目標に追われてプレイするなど邪道だし、私のキャパシティに照らしてこのペースはちょっとつらいので、一本々々を丁寧に咀嚼しながらプレイしていきたい。読書におけるのと同様、精読の重要性(そして精読の許される時間/環境/条件がたいへん貴重なものであること)を反省させられる。実際に、例えば『痕』の1996年版と2002年版の比較プレイをしたことがあったが、あれは本当に面白くそして刺激的な経験だった。『心輝楼』と『桜華』の間でも同じようなことが出来るのかな。



  2013/02/20(Wed)

  【 キャラクターの再利用 】
  ※単独記事化した。→「キャラクターの再利用(再登場)についてのメモ


  EGScapeで出演データを浚ってみたら、木村氏がヒロイン級で出演されているタイトルでめぼしいもの(プレイしたいと思えるもの)はだいたい買っていて、これを買っておかねばというものはほとんど残っていなかった。あとは苦手なジャンル、サブキャラ出演作、FD系など、買うのに気が進まないし買ってもプレイしそうにないものばかり。『天巫女姫』『月は東に~』『AngelWish』『ろーでび』『新体操(真)』『Tears to Tiara』『プラゥヴクルイード』『式神』『どんちゃん』『夏に奏でる~』あたりは買っておこうかという気持ちが無くもないけれど、今からではもはや中古品(かDL販売)に頼らざるを得ない。
  あ、『TtT』って脚本に枕流氏が入っていたのか。


  アダルトPCゲーマーとしては、キャリアも本数もせいぜい並レベルでしかないことは自覚している。私の2倍、3倍とプレイしている方々は、ゲームの事象を捉えるためのどんなに多くの手掛かりを、あるいは歴史的推移に関するどれほど堅牢な展望を、そしてゲームを認識し理解するうえでのどれだけの精度を、獲得しているのだろうかと想像するにつけ、身が竦む思いがする。知識と経験が関わる他のあらゆる分野におけると同様、ゲーム分野においても知識量(すなわち経験の蓄積)はそれだけの強力な知の支えになるものの筈だから。


  『英雄*戦姫』のドレイクは雪歩さんだったのかー(※たまたまそんな画像を見かけた)。


  タイトル画面変化は、『月陽炎』(2001年10月発売)と『パンドラの夢』(2001年11月)あたりが嚆矢かと思っていたけど、そういえば『AIR』(2000年8月)の方が早かったか。『プリズム・ハート』(2000年10月)はどうだっただろうか(※未プレイ)。


  『空色の風琴』の既成曲使用も確認しておきたい。グノシエンヌやショパンが使われていたらしい(たしかそうだった筈だ)けれど、細かく憶えていないしメモも取っていなかったので。


  BGMは16曲しか無いのにSEが500個以上も用意されているという妙なタイトルに遭遇した。SEファイルのサイズがBGMファイルの1.6倍もあるぞ……。
  それにしても、BGM鑑賞モードで曲を選択した時に選択SEをじゃらんと鳴らすプログラマーはバカなんじゃないか。アインザッツの聴取を阻害してどうする。


  『Sacred†Vampire』には、クラシック好きなヒロインがモーツァルトのソナタ6番(K. 284)やシューベルトのソナタ21番(D960)を弾くシーンがあるのだが、それらの演奏がBGMとして流されることは無く、画像(一枚絵)とテキストの上でのみ描写される。もったいないと思うのだが。



  2013/02/19(Tue)
  たまに「『(タイトル)』は○○による『(別のタイトル)』」のような言い回しをしてみたくなることがある。「『片恋い~』は緑茶解釈による『ONE』だ」とか、「『LEVEL JUSTICE』はSHC自身による『海賊王冠』のリメイクだ」とか、「『翠の海』はSkyFishによる『夢幻廻廊』だ」とか、「『朝凪~』は2007年の『水月』だ」といった感じの、大抵は作品コンセプトの単なる部分的な類比からのこじつけだが。その90年代風の作りから「『雨芳恋歌』は最新モードの『愛姉妹』」のような趣旨のことを仰っていた方もいるし、「『あると』はPurple SWによる『Piaキャロ』(のオマージュ)だ」というのはwkpdにも書いてあったりする(※スタッフの公式発言なのかどうかは知らない)。ゲームシステム面から「『あかときっ!』は、脱がせる『プリっち』だ」のようなこともわりと言われていたようだ。


  なんとなく心に棘として残っているある作品、あるキャラクター、ある描写のこと。
  『ファンタジカル』には大きな三つ編みを美しく結い上げた活発な怪力ヒロインが登場するが、この物語の主要舞台は現実世界の人々の夢や空想が反映された架空世界であり、そのヒロインの現実世界での姿は長期入院中で長く伸びた髪を三つ編みに結わえ下ろしている無力な少女だった、というもの。随分ベタな設定ではあるが、しかしプレイ当時の私はかなり落ち込んだし、今でもいまだに心の中で結着がついていない。2008年の発売……5年前の作品か。


  E-moteのゲーム内での効果的な使い方の一つは、ムービー部分かもしれない。美少女ゲームのムービー(特にOPムービー)はゲーム本編のキャラクター静止画素材を使いつつ比較的短いショットをつないでいくのが基本なので、それらを静止画のままにせず動きをつけていくことが低コストかつ高品質で実行できるならば大きな効果をあげるだろう。ただし、一般的なライセンスの仕様からして、個々のゲームメーカー自身がムービーのためだけに導入するのは割高だろうから、ムービー制作会社が包括契約するというのが妥当な道筋になりそうだが。
  従来型のスクリプト立ち絵演出であれば要所に決め打ちで使用しても構わないだろうが、E-moteのように立ち絵のあり方それ自体を転換してしまうような技術は、局所的に使用するとかえって画面の意味づけに不調和をもたらしユーザーに違和感を与えてしまう(だから本編のあらゆるところで全面的に遂行しなければならない)のではないかと思う。


  何度でも言うが、タイトル画面変化演出ほど素晴らしいものはない。なかでもオールクリアによるタイトル画面変化は、画竜点睛の趣がある。素晴らしい。


  さすがに同一の役者さんが主演(メインヒロイン役)の作品を立て続けにプレイするのは控えたい。


  あれ……3月のラインアップに予約しておきたいタイトルが無い。勢いで『流星』くらいは買うかもしれないが。4月はとりあえずSkyFishとLassとAriesのは確実。ハイカロリーが自慢な某SLGブランドの新作はそろそろ食傷している……のだけどキャスト情報を見たら買ってしまうかもしれない。5月はensembleと……えーと、xuseさんはおげんきなのでしょうか? ともあれ、しばらくは旧作をプレイしていくつもり。



  2013/02/18(Mon)
  そこに介在している声優の存在をすっかり忘れてその台詞に、そのキャラクターに、その状況に、のめり込んでいた。もちろんけっして珍しいことではないが、こうした瞬間にこそプレイヤーは役者の名技に完全敗北を喫しているのだろう。


  Escu:de作品を6割くらいしか持っていないことに気付いた……。最初期の作品はともかく『とびっきりRUIN』以降はまめに買っているつもりで、特に『ワンダリング・リペア!』以降は全て持っているのに、数えてみたら案外少なかった。おまけディスクなどの特殊商材は除外したうえでの計算だが、しかし『プリマヴェール』シリーズと初期作品群と再版もの(音声付加版)とFD系を買い逃しているとこんな率になってしまうものなのか……。
  そもそも、商業発売作品を全タイトル買っているブランドはSHC(19本)と緑茶(12本)とnoesis(4本)と千世(4本)とSincere(2本)しか無いけど。わふわふ!


  【 黒画面進行をめぐる雑感 】
  背景画像や一枚絵が足りないための青空進行や黒画面進行は、やはり見ていてもどかしい。黒画面進行に入ったら「これから一枚絵が来るんだな」と思えるくらい、現在のゲーマーたちは鍛えられているとはいえ。一枚絵(つまり特殊な場面の視覚描写)の不足に関しては、比較的安価に制作できるSD画像が賄うようになっているが、背景画像に関しても、例えば背景1枚あたりの制作コストをもう少し落として(ということは基本的には品質を落とすということを意味するが)枚数を増やすということはできないんだろうか。背景制作中心の請負会社はすでに存在するが、その他にもメーカー間での素材共有(3Dモデルの共有など)や既存画像の再利用など、コストを増やさずに背景のヴァラエティを増す手法は考えられないものだろうか。
  近年のフルプライス作品では、背景画像は25~40枚ほど――つまりそのくらいの「場所」あるいは「舞台」が――用意されているというのが標準的な数だろうか。もちろんここに時刻差分などが加わるので、実際に背景画像の使われる「場所」の数は体感ではもっと多くなると思われる。
  ベッドシーンに関しては、例えばLittlewitch作品(『SCF』)は、最初のうちはヒロイン顔部分アップ(一枚絵の一部拡大表示)の状態でテキスト進行し、その後一枚絵の全体表示へ移行するという対処によって、黒画面進行を回避することに成功している。
  SD画像使用の実例は前世紀からあった(00年代前半では、ことみ氏と娘太丸氏の仕事が目立っていたように思う。『PIZZICATO POLKA』とか)が、近年(07年頃から?)の急激な普及浸透はどのあたりがきっかけだったんだろうか。このあたりはきちんと調べていないので詳しくないが、センスにおいては『おとぼく』(2005)の落胆画像あたりが刺激となり、そして2006/2007年頃からのこもわた氏の活動が牽引してきた、といった感じなのだろうか。pajamas softの一連の作品も早くからSD使用に積極的だったと思う。『ジブリール』シリーズにもSDっぽいのはあったような……。いずれにせよ、SLG分野では(デフォルメされているものであれ、そうでない画像であれ)チップパーツは以前からごく当たり前の存在であり続けているが。


  一度クリアしたら、よほど愛着の湧いた作品でもないかぎり基本的にアンインストールしてしまう(ディスクと箱も仕舞ってしまう)ので、内容を再確認したくなった時には少々手間が掛かる。場合によっては、ディスクが見つからなくて泣くことも……。


  一色ヒカル(ヒロイン)×一色ヒカル(ショタ役)な場面のある作品(『マジカルウィッチアカデミー』)とか、みる^2(『桜花センゴク』)とか、みる^3(『桃華月憚』)とか、みる^200(『病みの声異聞録』)とか、凛々しい桜川キャラ&とぼけたキャラ桜川キャラの漫才シーン(『蒼海の皇女たち』)とか、ツイン鈴谷まや(『翠の海』。ダブり台詞は実際に二回収録したらしい)とか、有栖川キャラが別の有栖川キャラの口真似をする(『英雄*戦姫』)とか、木村あやか(母)+木村あやか(姉)+木村あやか(妹)のトリオベッドシーン(『朝凪~』)とか、春日キャラ2人&高槻キャラ2人の四人組(『英雄×魔王』)とか、松永雪希キャラたくさん(SLG作品のユニット。『BB』や『雪鬼屋』)とか、楽園はたくさんあります。……『ハルカ』にも風音×風音があったか。『とらハ』シリーズの名高い鳥居花音トリオは、残念ながらプレイしていない。


  安易に批評を気取ろうとする人たちは、対象となる分野の作品をろくにプレイしていないのに大きなことを語りたがるのがねえ……。多くの作品でごく普通に用いられている技法について「もしもこんなのがあったら~」とさも自分の発明のように言い出したり、あるいは実際にその分野で用いられている基本的な術語を適切に使えてすらいないのに分野の歴史を(しかも自分の認識を真理だとして)断言したりする有様は、何度も目にしている。個々の作品について具体的に語れる用意が無いから、ビッグタイトルの通念的理解を並べた歴史くらいしか口にできるものが無いのかもしれないが(――あるいは「何百本もプレイしていてこの体たらくか、お前はゲーム中にいったい何を見ているのだ」と言いたくなるパターンも)。どの分野でも、一知半解で適当なことを吹かす者はバカにされて当然だ。そして、PCゲームに関しては(関しても)、嘘をつくのは素人と批評家ばかりだと思っている。ここで「嘘」というのは、批評が伴う創造性や何かの問題とは無関係に、ただ単に語の最も一般的な意味で。そして、しかも、素人は無知に基づいて無自覚に嘘となることを述べる(だから知識がついてくれば改善される)が、批評のつもりで語る人たちはいわば自己目的的に虚言を吐くので、(文字通りの意味でも、慣用句の意味でも)救いようが無い。こうした点からして、批評らしい手つきで書かれているテキストは(もし読もうとする場合でも)常に最大限の懐疑をもって読まねばならない。そもそも、こうした分野に関する知性の行使の仕方のモデルとして、「批評」という言葉(とその姿勢)しかほとんど知られていないこと自体が、問題の一因なのかもしれない。


  SFRNのキラキラ(18)シールをパッケージデザインの一部として取り込んでしまったタイトルがあったような……。どんなのだっけ。


  PCゲームのコンフィグでキャラクター個別音量調整機能や個別ON/OFF機能がこれほど普及しているのは何故だろうか。違和感があるほどの音量差など滅多に無いし、聴くに堪えないほど下手な役者は昨今ほとんど見かけないので、せいぜい小声キャラクターが聞き取りづらいので大きくしたいという場合くらいしか思い当たらない。BGM/SE/音声/ムービーを一つのアプリケーションの中で個別に音量調整したいというのは理解できる(何故なら個々のPC環境によってそれらの基本音量設定が異なっているから)が、しかし、キャラクター個別の音量設定や、さらにはキャラクター個別のON/OFF設定すらできるということ、そしてそれをこれほど広汎に普及させた事情は、よく分からない。個別音量調整を必要とするユーザーは、そんなにいるのだろうか? もちろん、あって邪魔になるということは無いし、例えば「デバッグの際に便利だ」といったような事情があるのかもしれないが。
  実装が早かったのは、ageとe.go!(のゲームエンジン)あたりだろうか。ageは、キャラクター別テキスト色変化も早期に導入していた(2001年の『君望』)。F&Cはどうだったかなあ……。


  ゆったりと広がるスカート可愛いです! どうしてPCゲームは、横800*縦1200とかの画面にして立ち絵全身を表示させようとしてくれないのだろう? 立ち絵はこんなにも美しいのに(――実際、モバイルゲームの、とりわけキャラゲーにとっての強みの一つはこの点にあると思う)。



  2013/02/17(Sun)

  【 特殊なエンディングとその重みづけについて 】

  単独記事化した。→「特殊なエンディングとその重みづけについて


  様々な濡れ場表現の中でも、後衛を攻めるシーンに対しては何の感興も湧かず、心底どうでもいいものとしてただ冷めた心でクリックし続けるシークエンスとなっている。嗜好の問題どころか、それを受容する感性の受け皿自体が私の中にまるで存在しないかのように微塵も面白味を感じ取れず、砂を噛むような味気無さばかりを覚える。いっそ明示的な排泄物嗜好として扱っているならまだしも理解して受け入れられるのだが、なんでもないストーリーの中で唐突にしかも自然な行為の一形態としてそういうのを営まれると、なんというか、その……。



  2013/02/16(Sat)
  今日までで6本クリア(――数時間でコンプできる低価格作品や時間の掛かるSLG作品、あるいは旧作から新作まで、中身はいろいろだが)。このペースを年中続けられたら1年で100本以上プレイできる計算になるのだが、残念ながらそうもいかない。当然ながら、他の仕事をいろいろと滞らせているので。


  一般的なテキスト画面下部表示型の場合は、テキストボックスは画面に対して外から嵌め込まれた単なる枠のように認識されるためか、テキストボックスと立ち絵/背景画像との位置関係はプレイヤーの感覚にとって基本的に問題にならない。しかしながらフキダシ型台詞表示の場合には、外形的位置関係としてもその意味上の関係としてもテキスト(ボックス)が人物画像に大きく接近しあるいは画面に現れた像全体と密接な関連を有することになり、そしてそれゆえ一枚絵の画面傾斜やカメラ位置との「齟齬」が不自然に強調されてしまうことがある、つまり、画像の傾斜や画像が示唆する距離感に対して、表示角度を異にするテキストボックスが浮き上がって見えたりあるいは画面から遊離して中空に貼り付けられた不可解な存在のように見えたりしてしまう。人物画像に追従表示されるフキダシ型テキスト表示は、立ち絵を注視しつつテキストを視界に入れやすくするという点でキャラクター要素の尊重と可読性の重視の双方の要請を満たす優れたスタイルだとは思うが、万能というわけではなく、下部テキスト表示の場合とは異なった点で扱いに配慮を要する技法なのだろう。
  とはいえ、だからこそ、立ち絵傾斜演出(例:よろめき)がよりいっそう目に鮮やかなものになったりもするのだが。


  『祝福の鐘の音は~』に、ショパンのピアノ曲(練習曲op. 10-4)。ピアニストなヒロインが弾いているシーンで度々使用され、曲全体がBGMとして用意されている。音楽鑑賞モードにも曲名「etude op.10 no.4」と明示して登録される。また、ED曲「桜色エンゲージ」の中に『フィガロの結婚』序曲の冒頭部分がシンセアレンジで挿入されている。唐突感があり、あまり上手くいっていないが。


  気に入ったシーンをセーブデータにとっておくという方法をようやく覚えました。セーブってこういう使い方ができるんだ!(おばか)


  下の名前を呼び合うのも恋愛AVGでは大事なのだろうけれど、「君(キミ)」呼びや「(名字)さん」呼びも増えてほしい。「君」呼びは、実生活でも差し支えない範囲で使っているくらい。
  「君」呼びキャラに関しては桜川氏の右に出る者はいないと信じ込んでいる。



  2013/02/15(Fri)
  いっそのこと開き直って、『SN』も『るい』『coμ』も数多の九尾作品もバカゲー扱いにして楽しんでしまえばいいと思うんだ。なんでもない場面で唐突に(しかも度々)ヒロインがおどけたオカメ顔を晒すなんてのは、コンセプトとして思いついたらむしろ実行できない、天然のそして最高級のバカゲーじゃないか。そうやってうすめをたのしんでしまえばいい。(もんだいのかいけつになってない)


  索引の件で言及したあの本は、アルファベット文字列の頻出に鑑みて横書きで出すべきだったと思う。画像引用が挟まった時に紙面が見づらくなったかもしれないけれど。細かい点では、『おとぼく』の主人公に音声が付いたのはDVD版(2006年発売)からで、初版(2005年)の時点ではヴォイス無しだったと記憶しているのだが……。また、『エクソダスギルティー』(1998年)のプラットフォームはPS2(2000年)用だと書かれているが、初代PSだった筈。その他、タイトルの誤記誤植については別掲の索引に注記した。それにしても、『はるまで、くるる。』(2012)のネタバレをするには早すぎる。


  五行氏は凛々しいキャラクターやボーイッシュなキャラで輝く役者さんだとは常々考えているが、しかしお下品キャラはちょっと似合わないかも……。>『ひとつ飛ばし』サンプルヴォイス
  粗野でやさぐれた役柄をきちんと粗野なキャラとして、しかも「芸」としての品位をもって演じられる方というと、西野氏、西田氏、一色氏、青葉氏、桐谷氏あたりが思い浮かぶ。安玖深氏も案外上手いかもしれない。



  2013/02/14(Thu)
  大波さんキャラといえば、『FairlyLife』の「中里結花子」も妙な役でした。


  歯科医院で精神力を消尽して1日休み。
  明日は低価格タイトルを一本プレイして、帳尻を合わせておこう(※14日までで4本コンプした)。



  2013/02/13(Wed)

  【 M&M氏のグラフィックワークについて 】
  M&M氏の原画の凄味は、そのキャラデザから、プロポーションから、生産力から、時代に合わせた絵柄のチューニングまでいくつも指摘できるが、アダルトAVG特有の考慮としてその構図設計の巧みさも挙げられるだろう。つまり、その都度のシチュエーションに応じてヒロインヒロインの全身をフレームインさせつつ、その胸部や局部あるいは口唇部がテキストボックスに遮蔽されないように絶妙にレイアウトをコントロールしている。そのためには時として画面を90度あるいはそれ以上回転させることも躊躇していないが、その見やすさという明快な美徳のおかげもあって構図の作為性はほとんど感じさせない。この意味において、間違いなく斯界の名匠の一人と呼ばれるべき存在だろう。
  個人的には、立ち絵の手先の表情づけが実に良いと思う。かぐや時代も、あるいはAstronautsのSLG作品でも、氏の携わった作品の立ち絵はかなり象徴的なキャラクター像として扱われているように感じられ、それは一つには黒箱系タイトルの通例である素材量の制約に起因するものでもあり、また第二にそれらの作品における立ち絵の用い方(画面設計)それ自体に由来するものでもあろうが、しかし同時に(第三に)立ち絵のポーズデザインそれ自体がそれだけの強度を備えているからでもある。実際、例えば『デモニオン』同梱冊子の応援イラストの中で小梅けいと氏は「初めて描く人物は特徴や性格をつかんでから作業に入るのですが/オボロさんについては立ち絵から十分雰囲気などを汲むことができた」(p. 73)と述べている。この作品では、主要キャラクターの立ち絵は、風格のある年上ヒロインが腕組みをしていたり、上品な神官キャラが体の前に両腕を揃えていたり、あるいはエルフキャラが両手を後ろに組みつつ伸びやかに体を反らしていたり、退魔ヒロインが片手を控えめに胸に置いていたり、無表情キャラが両手をまっすぐ下ろしていたりと、そのキャラクターの作中での地位や役回りを一目見て分かるように体現している。こうした立ち絵の腕部の繊細か豊かな表情づけの素晴らしさに関しては(関しても)、☆画野朗氏に比肩すると思う。
  あと、これは原画のみの問題ではないが、イベントCGでウインク差分や落涙差分が非常に多いのも特徴だと思う。近年の参加作品ではほとんどの(アダルトシーンの)一枚絵でこれらの差分が用意されているが、どちらも歓喜表現として面白いし、そしてこの業界ではなかなか見かけない手法だ。熱した呼吸を示す吐息表現がしばしば描き込まれるのも良い(――これも彩色スタッフの功績と考えるべきかもしれないが)。

  『デモニオン』単体については、kz氏の総評(2012/04/29, 05/02)に大筋で同感。マップスクロールのもどかしさ、ユニット管理(横一列ベタ並べ)、詳細情報の見えなさなど、インターフェイスはいかにも洗練されないが、ゲームシステム全体のシンプルさのおかげで助かっている(そうした粗が致命傷にはならずに済んでいる)という側面は確かにあったと思う。あるいは、Eushullyでもこんなものだと思えば、その拙さも仕方ないと我慢できるかもしれない。



  2013/02/12(Tue)
  立ち絵や背景画像の時刻差分は、無くても気にならないけれど、きちんと塗り分けられていると「いいな」と思える(――画像素材それ自体が別途制作されていると思われる。エンジン制御で覆いを掛ける手法も[特に夜間表現では]可能だろうし、そのアプローチもあるだろう)。私が知る範囲では、pajamas soft(2003年の『パティにゃん』)が早かったと記憶しているし、『ONE2』(2002年)や『誰彼』(2001)あたりもそうだったかもしれない。いずれにせよ、たまに見かける度、嬉しくなる。日中差分(標準)のクリアな色彩、夕暮れ差分の赤みの射した差分、夜間差分のやや薄く落ち着いたパターン、それらの色調が醸し出す雰囲気が心地良い。


  『らぶKiss!アンカー』では、主人公は他人の感情が見えるという設定で、ゲーム画面上でも立ち絵の周囲に感情を表すオーラが(例えば、怒っていれば赤く、悲しんでいれば青色に)ゆらめかされていた。当時の私の低性能PCでは、なめらかに表示されなかったが。具体的な思考が読めるわけではなく、感情の方向性とその強さだけが分かるという微妙なもどかしさが、脚本上でもうまく活かされていた。そのほか、『行殺』ばりのアイコンアクションにも挑戦しており(cf. 「フェイスウィンドウ」記事)、女体化EDや(主人公を放置しての)百合EDといった野心的な脚本もあり、2007年当時のPCゲームシーンの豊かさを感じさせる一本だった。

『らぶKiss!アンカー』 (c)2007 ミルククラウン

(図1:)右側のキャラクターが激怒しているシーン。主人公の目には、感情の「色」が、文字通り見えている(――そのような超常能力を持っているという設定がある)。静止画のスクリーンショットでは分かりにくいが、この感情のオーラは不規則にゆらめいている。

(図2:)感情の「色」は、激怒している場合には赤く、負の感情がこもっている場合は黒く、不安感を抱えている場合は黄色(だったか?)といったような色合いで、主人公の目に見える。


  『聖エステラ学院の七人の魔女』、公式サイトを一目見て「『霧谷伯爵家の六姉妹』と同じロゴデザインじゃん」と思ってしまった。フォントは違うみたいだけど。もしかして、この調子で「(場所)の(数字)人の(属性)」シリーズにするつもりだろうか? こういうパターンのゲームタイトルは他にまったく思いつかないので、このネーミング自体も偶然ではなく意図的なものに違いないし。
  ちなみにAstronauts作品はこれまで3本中2本買っていて、『えれくと!』も絵が可愛いなとは思ったのだけど……脚本担当に苦手なライターさんがいたので手控えてしまったのだった。


  何本かのタイトルで経験してきて、濡れ場シーンでのクエイク(画面振動)演出に慣れてきたかも。『白銀のソレイユ』(2007)ではその場面の間中ずっとゆさゆさ揺らしっぱなしだったけど、絶頂時に揺さぶるくらいなら、まあ、そういう表現として受け入れることはできそう。純愛系タイトルでもダーク系作品でも行われており、もちろん揺らし方にもセンスの違いは出る。


  要するに、システムに意味が仮託されていること、それを見出して受け止めること、そしてさらにはプレイヤーという地位をもってその組織化された意味生成過程に参加していくこと、私にとってはこれがゲームの楽しみの中核部分なのだと思う。SLGであれ、AVGであれ、あるいはSTGであれACTであれTPRGであれ何であれ(――そのような「ゲーム」要素を二重に含んでいるスポーツゲームの場合は、事情が複雑になるが)。


  「相互の和音」(を貼り込んだ私のトートバッグ)を、「きれいですねー」と言ってくれた某学生さん、現代美術のことは全然知らないようだったけど……見込みあるな!と勝手に思い込みました。


  薄目の呪い、昨日はただ暢気に笑っていたけど、その真の恐怖は……うわぁ。他作品をプレイしていても、立ち絵が笑顔になる場面で緊張感が走るようになってしまった……。


  【 再販の諸形態 】
  うう……こんなの(絵)、ぼくのねえさんじゃない。>『雪影』VR版
  冗談はともかくとして、巧拙以前にこの絵柄では悲壮感も恐怖感も出にくいのではなかろうか。
  こういうタイプ、つまりグラフィクスのみの(または主にグラフィクスの)リメイクは、かなり珍しいが、前例が無いわけではない。今思い出せる範囲でも、『恋姫』『BE-YOND』『MAID iN HEAVEN』『女郎蜘蛛』『雫』『痕』『ライディ(シリーズ)』『加奈』がある。原画一新が行われる原因(解像度/色数/画面比といった表示環境の劇的変化、原画の品質改善、オリジナルスタッフの不在)からして、近年では起きにくい現象だと思うが。

  なお、これ以外にも、リメイク再版の主眼は様々なところに置かれうる。
- 廉価版、新装版。例:多数。
- 塗り直し(原画は同じ)。例:『DOOP (ADVANCE)』『キャッスルファンタジア~エレンシア戦記~』。
- 音声付加やフルヴォイス化。例:『Crescendo』『ONE2』『処女はお姉さまに恋してる』。
- 高解像度化、ワイド化。例:『メビウス暗黒BOX』など。
- 脚本の追加/改訂。例:『結い橋』『ステルラエクエス』『心輝楼(桜華)』『Dies』『恋する式』など。
- 演出改良。例:『君が望む永遠』。
- OS対応版。例:『ゴア』(単体でも、初版/Vista対応版/7対応版がある)ほか多数。
- 実写版。例:『MAID iN HEAVEN』。
- 単品化。例:『アトラク=ナクア』『奥さまは巫女?』
- 「感謝ぱっく」ほかいろいろ:『D.C.』シリーズ。

  『世界ノ全テ』のあれこれや『SCHOOLDAYS HQ』がどういう位置づけになるのかは、よく知らない。

  個人的には、みつみ版『痕』には今でも期待しています。

  う、薄目手直し版がリリースされたら、買い直してしまうかも……。


  迂遠な喩えになるが、PCゲームプレイヤー(特にAVG作品のプレイヤー)とは、オーケストラの指揮者(兼聴衆)のようなものでもあるかもしれない。全体の設計図はすでに所与として存在し、指揮者は基本的には楽譜への「忠実」を保って奏者たちにそれを上演させていくが、しかしその推移は解釈的/遂行的/参加的な諸事情からしてけっして同一のものではない、という点において。



  2013/02/11(Mon)
  ggったりして、各方面に感謝しつつ眼鏡主人公を追加。40人超えた! 『ぼくらがここにいるふしぎ。』はちょうど昨日、某店の中古コーナーであの印象的なパッケージを手にとってみたばかりだったというのに……。買っておけば良かった。


  【 「共通パート/個別ルート」概念の難しさ 】
  現在の読み物AVGにとって、「共通パート/(個別)ルート」の観念はおそらく制作者サイドでも実際に通用しているように見受けられる(例えば『桜花センゴク』や『シュガーコートフリークス』は、セーブデータ小見出しで明示的に「共通ルート」「○○ルート」といった言葉を用いている)し、作品構造上そのように明確にブロック分割されているタイトルもいくつも存在する(典型的には、選択肢場面が一箇所しか無い『Signal Heart』、明示的かつ決定的なヒロイン分岐選択場面が存在する『とらぶる@すぱいらる!』、分岐構成がフローチャートによって視覚化されている『エインズワースの魔物たち』等々)が、しかしそれはさまざまな作品の中でさまざまなかたちで生起している分岐進行の細部を切り落としてしまう見方なので、「ルート」という言葉は慎重に使いたい。近年でも多くのタイトルは、「(大規模なヴァリアントを含まずひたすら個別フラグを蓄積する)共通パート/(ヨーイドンで同時かつ決定的に分岐確定し内容上も相互交流が断たれる)個別ルート」といった明確な切断を伴ってはおらず、大筋進行の中に特定ヒロイン攻略のための必須イベントを適宜差し込んでいたり、あるいは中盤から共通イベントとヒロイン個別イベントが斑模様に入り交じっていたり、あるいは大筋進行から順次枝分かれしていく(到達可能なEDが順次確定されていく)形をとっていたりしているのだから。
  とはいえ、ほぼ同一の前半部進行(共通パート)から、複数の分岐(個別ルート)へと同時に枝分かれしていくタイプもまた、現在ではAVG構成の通常形態の一つとして普及しているし、またそのスタイルにももちろん特有の利点と美徳がある(――個人的な話をすると、共通パートの終点から自動的に分岐が生じるパターンよりも、共通パート終盤のクライマックスでプレイヤーに[フラグ条件を満たしているヒロインたちの中から]一人のヒロインを選ばせてくれる選択肢のあるものが好みだ。上で言及した3作品でいずれもそのような選択肢機会を提供している)。章構成スタイルの普及も、歩調を合わせているものと思われる(――近年のコンピュータAVGにおける話数制の浸透は、2005年の『処女はお姉さまに~』と2006年の『いな☆こい』あたりがきっかけかと思うが、もちろんそれ以前からもこの形式のものは多数存在する)。
  とりわけ近年の純愛系タイトルの多くが、フラグ構成の次元では「共通パート/個別ルート」の明確化によってゲーム進行中の同時攻略可能性の曖昧さ(いわばナンパ志向)を排除する方向に進みつつ、しかし同時にコンセプト及びストーリーの次元では逆説的にもハーレム的シチュエーションの強化に傾斜しつつあるというのは、ちょっと面白い現象だと思う。それは、対立や矛盾ではなくて、プログラムサイド(フラグ設計)によって表現されてきたものがいまや脚本サイド(シチュエーション設定)によって代行乃至代置されつつあると捉えることができるのかもしれない。


  「薄目の呪い」の件でもう30分以上、声が出ないほど抱腹絶倒し続けて、まだ笑いが収まらない。
  『SN』は本当に美しい作品だし、『るい』もさえき原画の傑作の一つなのだけど。


  男性主人公がしばしばヒロインに対して向ける「(自分が自制できずお前にのめり込んでしまうのは、こんなにも魅力的な)お前が悪いんだからな」という台詞は、いったい誰が言い出し、いったいどうしてこんなに普及してしまっているのだろう。意識的な修辞としての特別な重みを持つ様子もなく、ありがちなつなぎの台詞の一つとして口に出されているようだけど、目にする度に物凄く居心地が悪い。レトリックとしても出来は良くないし、そもそも下品だとも思う。その文言上、相手を責める言葉であるという側面はどうしても覆い隠せないし、そこに愛情表現を見て取ることも(私には)難しい。でも、純愛系AVGの中でわりと良く見かけるんだよね……。
  好きならもっと率直にもっとたくさん「好き」って言い合えよ、とも思うが、それはまた別の話。


  「らめぇ」台詞に続いて、「くぱぁ」テキストでもSSを撮ってしまう癖が……どうしてこうなった。


  PCゲームの名前欄には「男C」「男D」あるいは「学生5」「学生6」といったかたちでモブが複数登場することがあるが、そういうモブキャラナンバリングの最大はどのあたりだろうか。私が知る範囲では、『虜ノ契』の「組員22」というのが最高値。さすがのGuiltyブランド。画像でいえば、『恋色空模様』でモブ学生立ち絵が16人同時表示されていたのが最大。もっとも、増やそうと思えばいくらでも増やせる筈なので、もっと多い例があるかもしれない。
  ちなみに、その種のジャンルに対してgetchuが付与しているタグ名は「メリーゴーランド」。なんとなく分からなくもない呼称だが、そのネーミングセンスはどこから来たんだ。
  そういえば、上記タイトルは椎名里緒系エンジンで、作中には耶雲里緒という名前のキャラクターが主役として登場する。単なる偶然だが、その符合に気付いた時は妙なおかしみを感じて笑ってしまった。



  2013/02/10(Sun)
  藤田東子もとい東湖……なぜこの名前が頭に浮かんだのか。
  現代日本では「女体化キャラ」扱いされてしまいそうだ。


  今週のIチョRadio(#219)、鳴らしっぱなしのアラーム音が何故か笑いのツボに入ってしまった。


  【 眼鏡主人公 】
  今日のネタ帳:眼鏡主人公!
  →単独記事化した:「眼鏡主人公


  【 フラグの可視化 】
  フラグの可視化。例えば『えむぴぃ』『星空のメモリア』では、選択肢場面でプレイヤーが選択決定すると、選択肢の横にSDキャラが表示され、ハートマークを浮かせたり(つまり好感度up)あるいはハートマークをこぼしたり(好感度down)して、プレイヤーが行った選択に対するリアクションを視覚的に明示する。あるいは、かなり特殊な例だが、『とらぶる@すぱいらる!』(リンク先はアダルトゲームサイト注意)では、本編部分では画面の左端に総合好感度(のような、ゲーム進行上のある指標となるもの)が常時表示されており、プレイヤーのその都度の選択行動に対応してそのフラグの蓄積状況が確認できるようになっている。『3days』にも、物語進行に関わる重要なフラグの到達度を視覚的に表示するシステムが存在する。テキストボックスの脇に置かれた時計文字盤上の針の動きによって示され、フローチャート付きループゲームの中でプレイ進行上の指針となる。『翠の海』も興味深いシステムを提供している。この作品は、本編プレイ中に現在の地点から各EDに到達可能か否かを確認できるシステムがあり、それと同時に各EDに到達するための婉曲なヒントも提示される。バッドエンドの多いこのサスペンス作品に相応しいシステムである。
  このようなフラグの可視化は、フローチャートによる進行状況の可視化が度々試みられているのと同じように、もっと行われてよいものだと常々考えている。それは、けっして「ゲーム性の破壊」のようなものではないし、プレイヤーを愚弄するものでもない。そうではなくてむしろ、それはプレイヤーに対して公平であり、ゲームとしての楽しみを増やす一つの手段であり得、そしてプレイヤーに対して教育的ですらある。なかんずく、最初から攻略サイト頼みで(つまり個々の選択肢がどのような意味を持つかを考える機会を奪われつつ/放棄しつつ)プレイしている層が少なからず存在するであろう現状に鑑みれば尚更、その積極的意義は大きいと思う。
  『とらぶる@すぱいらる!』は一部のシーンで「天国と地獄」(序曲)や「カルメン」(「闘牛士」)を使用しているが、それらはBGM鑑賞モードには登録されない。他の作品でもしばしばこういう扱いをしているのは、どういう配慮なんだろうなあ。あくまで非正規の音響だと考えているのだろうか。


  [tw: 300231337544130561 ]:ああ……やっぱりそうなのね……。


  【 立ち絵と一枚絵の位置価 】
  00年代後半以降のフルプライスAVGでは、ある場面のその物語の中での特別さをプレイヤーに伝える役割を担っているのは、一枚絵の特別さよりもむしろ、特別な立ち絵差分なのではないかとすら思うことがある。典型的には水着差分や浴衣差分が、その場面で初めて現れそしてその場面でのみ使用されているという事実は、端的にそのシーンに対して特別な価値を付与する。長大化が指摘されて久しい現代AVGにおいて、00年代初頭からずっと90枚前後のまま維持されてきたイベントCGがその数量的限界からして物語の全時間に亘って均等にカバーすることが困難になり、その一方で、汎用的に使用されて物語の大部分の時間を過ごさせることになる立ち絵の品質(その魅力)がいやまして重要なものとなっている中で、「特別な立ち絵」という中間的な存在がその間隙を埋め合わせているように見える。もちろん立ち絵の差分変化全体も、時代とともにいよいよ飛躍的に増加しいよいよ細やかになってきているのだが、それらの中でもいくつかの種類の差分は価値階層上の地位の違いをみずから引き受けている。落涙差分、含羞の頬染め差分、ギャグ顔差分、瞳のハイライトの失われた放心差分、変身差分、水着差分、裸身差分、踵を返した背面差分、にじり寄った拡大差分……立ち絵における特別な衣装、特別な表情は、おそらくはAVG制作の中でもそしてAVG表現の中でも、明確に際立った意味を持つ(――近年の遊戯的な立ち絵変化パッチなども、立ち絵の品質及び趣向への注目が増している傾向のその一環として捉えることができるかもしれない)。
  とはいえ、一枚絵がその昔ながらの特権性を完全に喪失していると考えているわけではない。統計的に見ても、例えばSD絵によって取って代わられているといったようなことは無い(一枚絵の枚数は減っていない)。ただし、とりわけ白箱系タイトルのアダルトシーン増量傾向の下で、一枚絵のHCG率には増加傾向が見られる。
  もちろん、音響表現においても同様のことは為されている。例えば、アダルトシーンの内部で状況の盛り上がりに応じてBGMが切り替わるのは、二人の心情のありようと距離感の変化をまざまざと表すようで、たいへん情趣に富む。好きな演出の一つ。


  文章の中で、押韻か何かのように「その」や「そして」を多用したくなるのは最近の私の悪い癖。いわばドイツ語で冠詞(der、desなど)をリズム良く挟もうとしているようなものだが、しかし残念ながら読み手がリズムを感じられる文章にはなっていないだろう。昔は文と文の間すべてに接続詞を挟まんばかりの偏執的な書き方をしていたりしたので、その当時と比べればマシになって……もいないか。
  デジタルテキストでも見栄えは良くしておきたいので、テキストをいったん投稿した後でもくりかえし再調整している。たとえば、段落末が「(改行)る。(段落替え)」のようにならないように、あるいは段落内テキストが行末ぎりぎりで収まってしまって段落替えが見えにくくならないように、あるいは長いアルファベット文字列が改行箇所に掛かって間延びした均等割付が生じてしまうことが無いように、適宜調整している。文構造が複雑な場合には、あえて括弧(「」)を挿入することもある。漢字と仮名の並びや配分を考えて適宜言葉を開いたりもしているので、漢字表記と仮名表記の双方が混在している言葉も存在する。それでいてこの有様だが。



  2013/02/09(Sat)
  ある作品の脇役の音声を、「あ、これはきっと木村さんだな」と思って聴いていたのだけど、その作品のVFBを見たらキャスト――その本で初めて公式にそのキャラのキャストが判明した――は木村氏ではなく伊藤瞳子氏と書かれていて、ちょっとしたアイデンティティクライシスに陥り、そしてがっくり落ち込みつつ我が身を恨みたくなっているところ。考えてみれば、たしかにこのお二人は、特に低音系のお芝居では声色がよく似ているとは思うものの、声色だけに引きずられて勘違いするというのはあまりにも愚かしくそして申し訳ない。
  声色の方向性が似ているといえば、三園氏も。まき氏と木村氏をミックスしたような印象だった。


  『~概論』の私製索引を公開。おそらく筆者ご自身も作っておられると思うが。ブランド数245、人名270、タイトル数631を、それぞれ手作業で配列修正していくのが実に面倒(――私が理解している「読み(発音)」が間違っている可能性もあるが)。
  これらの他にもう一つ、本文中で言及されている資料一覧(書籍、雑誌、アニメ作品、漫画作品など)のファイルを作ってあるのだが、挙がっている資料があまりにいいかげん過ぎるので公開に堪えないと判断している(――もしも欲しいという方がいたら、メール等でお渡しするのに吝かではないけれど……なんというか、使いものにならないと思う)。
  やはり、Littlewitchとpajamas softとORBITとSHCとEscu:deと(旧)CN系列が無いのは納得が行かない。技術的重要性も分野的布置も無視しているのはいかがなものか。うぐぅ。


  先日言及したので思い出したかのように『朝凪のアクアノーツ』を再インストールしたのだけど、例の和傘木村キャラが登場するシーンでは、彼女が登場する瞬間に鈴の音のSEが鳴る。時にはしゃらんと、時にはちりんと。もうこれだけで心を震わせるには十二分だ。(単純なものではあるけど、こういう演出、大好きなんです。『夢幻廻廊2』の鎖じゃらじゃらSEとかも忘れられない。)
  そして、こういう役を演じる時の木村氏のお芝居は、その悠揚迫らぬ落ち着きぶりが言葉にしがたいムードを発している。1クリックの台詞の中でも、文と文のあいだの「間(ま)」を、おどろくほど大きく――長い時は2秒以上も――とっていて、それでもそのつながりは絶対にほどけていなくて、むしろ聴く者の耳をいよいよそばだてさせる。他の役柄(例えばやんちゃ年下系キャラクター)ではしばしば非常に率直で歯切れよく衒いの無い芝居ぶりを披露されているこの方の中で、この「間」の表現――おおらかさを通り越してほとんどふてぶてしさすら感じさせられそうな、その絶対的な安定感とその堅固な感触、しかもその絶対性ゆえに嫌みを感じさせない落ち着きぶり――は、なにか異様な、他では滅多に聴くことのできない特別なものに聞こえることがある。


  ことPC美少女ゲームに関しては、自分よりも上の世代の人々のことはほとんど気にしたことが無い。ちょうど昨日も書いたように、壁を隔てた向こうの世界を(つまり私の知り得ない過去の時代を)知っている人々ではあるけれど、彼等自身のことを「乗り越えるべきだが乗り越えがたい障壁」だというような認識を持ったことは無い。どちらかといえばそれは有益な存在であるに違いないし、そして私よりも多くの事実を識っている人々は年上だけでなく年下にもいらっしゃるし、しかもたくさんいらっしゃる筈だから。そして、価値(観)はわざわざ上の世代から与えられるものではない(与えられても無視しがちな性格だけど……)し、彼等が獲得したもの以外にもまだ無数の可能性が(残念ながら)未開拓のまま残っているのだし、上の世代が作り上げてきた枠組が自分のために邪魔になったことも無い。現在の市場構造についても大きな不満は無いし、幸か不幸か実作者側にはいないのでそうした地位が年長者たちによって寡占されているかどうかは関係無いし、10年前のユーザーたちの脚本偏重志向は依然として負の遺産として残っておりそれはユーザーの言論を歪めているとは思うものの、私個人にとっては思考を制約するパラダイムなどではなくただ単にどうでもいいものだし。だから、私よりも上の世代に属しているであろう人たちが、さらに上の世代に対して持っているルサンチマンのようなも心情は、忌憚なくいえば、わけが分からない。
  ……書いていて、自分が何を言っているのか分からなくなってきた。それほどまでにこの話題は私の中にストレートに反応する心理的なとっかかりが無いのだ、ということを図らずも自ら実証しているようなものだが。


  細かい話だけど、「献本いただく」「献本いただいた」という言い回しはさすがになあ……。「献」の字に謙譲表現(「ささげる」「たてまつる」)がはっきり含まれているので、フォーマルには、あるいは日記の中ででも、「(ご)恵投いただいた」あるいは「(ご)恵贈いただいた」と言うべきだろう。「単なる偶然的なプレゼントではなく、あるいは不当な癒着や内輪的便宜による特別な無償贈与ではなく、一般的に『献本』と呼び習わされているある既成の儀礼乃至慣習に即した振舞いとして理解されるまさにその行為として、そのご本をいただいた」という意味でそう使いたくなるのは分かるし、とりわけ出版社経由で受け取る場合には「献本として(献本行為の趣旨で)いただいた」という気分になりやすいだろうけど、それでも「献本いただいた」というのはきれいな表現ではないということは自覚しておくべきだろう。


  新作『虚~』は明日こそ買いに行く(予約済み)。近頃は、店頭で買うのはたいてい梅田か京都ばかりなので、たまには日本橋に買い出しに行ってみたいのだけど……残念ながら他府県からの交通機関アクセスがちょっと遠いんだよね。



  2013/02/08(Fri)

  【 某『文化研究概論』の問題点 】
  あの『文化研究概論』は、国内アダルトゲーム史初期の状況に触れているという点では、類書の少なさもあってたいへん貴重だが、基本的にはただ時系列に沿った散漫な漫談にすぎず、特有の視座を提示しているわけでもないし、余計な脱線トークも多いし、また裏付けも希薄なので資料的価値も乏しい(――この意味で、言及されているタイトル数の多さにもかかわらず、「情報量が多い」という評には首肯しがたい。"役に立つ情報"の密度は、かなり薄いので)。私にとっては、win98より以前の時代の作品群は主に技術的理由からして実物にアクセスできないものばかりで、いわば分厚い壁を隔ててその名のみが漏れ聞こえる別世界に属していたので、それらについての言葉がいくぶん明瞭に聞き取れるようになったという点では有難かったのではあるけれど。

  憾みとしては:
  1) 各所の間延びして散漫なトピック語りは、分析どころか整理にすらなっていないものが多い。ループものや魔法少女ものに関するくだりなど、実にだらしない書き方になっている。特に、事ある毎にPCゲーム外の物事についての漫談に流れがちで、ゲーム分野内部での動向をしっかり扱わずにお茶を濁している点――しかもアダルトゲームに直結した文化的背景だというわけでもない――は、大いに問題がある。読者の知らない時代の章についても、これらと同水準の記述だという想定で読むべきだろう。
  2) ハード(PCや家庭用機)の移行への言及はあるものの、制作過程の次元がほぼ完全に欠落している点。制作技術(特にプログラム)、産業構造(経済的条件)、構造的要素(例えば音声付与)がほとんど語られていないのは、コンピュータゲームというものの特性上、ちょっとあり得ないほどの欠陥だろう。吉里吉里にすら触れられていないし、PCゲーム声優はサトウユキ氏お一人しか挙げられていない。ただし、同人上がりのブランド群(例:AUGUST)やLNとの人材交流(例:ヤマグチ氏)については、多少言及されている。
  3) 個別嗜好に沿った作品群羅列や大味な事件史ばかりで、全体の動向がまるで読みとれない。例えば純愛系メジャーブランド群(ういんどみる、ゆず、HOOK、WP、LoSあたり)をほとんど取り上げておらず、00年代半ば以降のメインストリームがちっとも見えてこない。そのわりにnitro+界隈の話題は妙に頻出するのだが。
  4) 00年代以降のSLG系作品への言及が事実上皆無。alicesoftの、しかも昔の作品のみに限られている。e.go!もEscu:deもソフトハウスキャラもninetailも、 BALDRシリーズもLeafの非AVG作品群もすべて黙殺状態であり、わずかにEushullyの『神採り』のみが、しかも内容面からではなくヒットタイトルの一つとして挙げられているだけ。
  全体として、知識のそれなりに豊富なディレッタントであることは分かるが、その知識がきちんと整理されないままだし、その知識にしても、特に00年代に入ってからの3章については、現在そこらにいるそこそこ古参なゲーマーを適当に捕まえてくればこれと同じレベルのことを語れる者はいくらでもいるだろう。しかしながら、この書物も、十年後になってみれば、それなりに貴重な証言となってくれる(あるいは、なってしまう)のかもしれないが。

  ……タイトル索引/ブランド(メーカー)索引/ゲーム以外の作品等索引/人名索引は完成させたのだけど、これどうしよう?



  2013/02/07(Thu)
  雑記欄目次を作成。ただの各ページへのリンク集だが。


  ある純愛系AVGで、ヒロインAと抱き合っているイベントCGと、別のルートでヒロインBと愛し合っているイベントCGとで、背景に同じ場所が――要するに主人公の自室内の同じ場所が――映っていて、なんだか非常に申し訳ない気分になったことがある。ザッツ背徳。
  もちろん、その作品に限らず多くの作品で、そしてとりわけ本編中の立ち絵-背景シーンでは、これと同じ現象は度々発生しているので、そんなことを気にするのは今更な話だとは思うが、しかしその時私がいわく言いがたい疚しさを感じたのは、やはりその「一枚絵どうし」という事情のためかもしれなかった。ただし、それを別としても、「(過去にプレイヤーor主人公が別のことを行っていた)同じ場所」という状況には弱いのだけれども(――だから、『R.U.R.U.R』や『神樹』の背景画像差分変化演出には深く感銘を受けたものだった)。


  SHCが旧作(一部)のwin8対応インストーラを公開。こういう対応は嬉しい。最新OS対応版をパッケージ発売するのは(メーカー側にもユーザー側にも)コストが掛かるにしても、最新OSに対応させたDL販売やOS対応パッチなどは、有益だし有難いと思う。


  現在、3本目をプレイ中。このペースなら2月中にちょうど10ぽn…しまった! 今月は28日までしかなかった!



  2013/02/06(Wed)
  小倉結衣氏のお声が心に刻みつけられた。


  【 傘をさすヒロインたち 】
  →単独記事化した:「傘をさすヒロインたち

  傘キャラ好きになったきっかけはわりと遅くて、最初に自覚を持ったのはおそらく2008年の『朝凪』の木村さんキャラ。遡れば『ONE』『こみパ』もそうだが、あの時点では意識の中で傘好きだけを分離できていなかった。
  ともあれ、以前書いた眼帯キャラ(2012/03/18)、作業着ヒロイン(2012/06/07)、ボードゲームシーン(2012/08/27)、特定国籍キャラ(2012/09/07~08)、体格特徴キャラ(2012/09/20)、男装ヒロイン(2012/11/27)、滅亡SF(2012/12/27)等々と同じように、新作があったり思い出したりしたら適宜追加していきたい。
  さらに前には、ネーミング元ネタ(※多すぎて放棄した)、四姉妹もの、学園個性(巨大学園、ミッションスクール、全寮制学園、etc.)とかも個人的に収集していたのだけど。こういうのは、注目を集めることがほとんど無い(話題になったりwikiが作られたりするということが期待できない)要素なので、自力で探し集めるしかない。既成楽曲(クラシック音楽や民謡)の使われている作品も、プレイ中に出て来たらメモしたり、検索して探したりしていたが、最近はそういう作業も御無沙汰。ある方が以前にtwで仰っていた「ゲームキャラが使用している武器データベース」というアイデアにも大いに興味があったが、私一人では叩き台になるデータすら出せない(「燃えゲー」は苦手だし)ので、ただ指をくわえて静観するしかなかった。
  制服が上下とも白基調のタイトル(『あまつみそらに!』『アクアノーツ』『殻』『花と乙女』『アッチ向いて』『真剣恋』『Primary』等々)も自分の中で一度整理しておきたかった……のだった(※塗りを見比べるため)。そういえば以前にtw上で美少女ゲームの服飾に注目しようという話題が挙がっていたのは私も仄聞しているが、あれは結局どこかで何かの実を結んだのだろうか。



  2013/02/05(Tue)

寓居にて(2013/02/05撮影)。

  なんだろう、このイマイチ感は……やはりいいかげんに並べすぎたか。あぼぱコーナーっぽい一隅(『M×S』はまだ掘り出せていない)とか、木村あやか主演シリーズっぽいところ(中段右寄り)とか、いのぐれ作品集っぽい並び(『殻』だけはサイズが違う)とか、(旧)CROSSNET系コーナーとか、ツイ☆ててラッキーな3本とか、銀弾特集(『Chanter.』ともども日野亘特集にしたかった)とかをなんとなく匂わせる程度では駄目か。
  これをあと数棹作ればPCゲームは配架完了するのだけど、それよりも書籍を詰めた箱を早急に開封していかないと仕事が……。

  こうして見てみると、どうも私はコンセプトの明快なタイトルばかりを手に取っているように思えてならない。制作スタッフやセールスポイントなどの事前情報が乏しいところに踏み込む勇気を、ゲーム購入についてももっと持つべきだった。

  しかし、このラインアップを(特に中列あたりを)見ていると、なんだかまるで自分が温和で心優しく享楽的な人物であるかのように思えてくる(たぶんちがう)。


  あ、そうか、私のように購入タイトル数に対する未プレイ率の高いゲーマーのばあいは、既プレイ棚と未プレイ棚を作ればいいんd…いや、なんだかそれは罪深いことのような気がする。「積み」だからという駄洒落ではなく、真面目な意味で。


  「一枚絵」「イベントCG」という語を機能的に使い分けしようという意識は私にはほぼ皆無だったが、あえて言うなら、「一枚絵」と言う場合はニュートラルに「全画面サイズのゲーム用CG」の趣旨で、そして「イベントCG」と言う場合は特に「ゲーム内で特定の重みを持って(特別なイベントのために)使用されるCG」を指す場合に、そして(滅多に使われない用語だが)「スチル」と言う場合はかなり即物的に「絵(静止画=stil)」の意味で、それぞれ使い分けている、あるいはそのような使い分けに適しているのではなかろうか。
  以上のような考えに沿うなら、「立ち絵(非全画面、汎用の人物画像)」「背景CG(全画面、汎用の情景画像)」「カットイン(非全画面、専用の特殊画像)」「SD画像(通常は非全画面の、専用特殊画像)」に対応するのは「イベントCG(全画面、専用の特殊画像)」という形になるだろうか。……いや、しかし、この場合は一般的には「一枚絵」と呼ばれているような……私も「一枚絵」と呼んできたような……。



  2013/02/04(Mon)
  勢いで書いてしまった。→「FAVORITEブランドのキャラクター着彩について
  以前に書いた「FAVORITEブランドの美術設計について」とは少し違った視点で検討してみた。自分なりに、FAVORITEグラフィクスの特質と達成についてなんとか説明のつくような形で、自分が見て感じたところを文章にしてみたが……そのテキストもそして私自身も、『星メモ』CGそれ自体の魅力にただ圧倒されたままで、そこに何も付け加えられていない。特に、千波と衣鈴が抱き合っている1枚目のCGは、この一見平板に見える着彩でどうして絵が薄っぺらくならず画面が保っているのか、感覚では受け取れても頭ではまるで理解できていない。

  画像引用はテキストの説得力を、ほとんど過剰と言えるほど高めてくれるのだが、その過剰さゆえに乱用は慎まれるべきだと反省しつつ、しかしついついその強力さに頼ってしまう。それでなくとも、このブログの引用画像群は作品名のgglイメージ検索などでわりと頻繁に閲覧されているようなので、一応「引用」として正当化される領分を守っているつもりではあるものの、いろいろと申し訳なさがある。
  それにしても、スクリーンショットのフォルダを漁って、良い画像(論旨をよく説明しており、かつ出来ればネタ的要素もあるような画像)を探すのはたいへん楽しい作業だ。今回は、厳選した5枚の一枚絵にヒロイン5人をバランス良く登場させたかったのだが、ちょうど良い一枚絵が無くて、明日歩さんだけが……ごめんなさい。
  ……しまった! 千波の奴が下着を露しゅt…いや、見なかったことにしよう(どきどき)。

  2009年の発売当時はまさにこれが最先端の絵だと信じていた『ましろ色』だが、2013年の目ではその画風に垢抜けなさすら見て取ってしまうことになる。美少女キャラクターイラストの世界でも、センスの更新は本当に早く、速い。「マッハの戦い」とはこのことか(ちがう)。


  昔のAVGの主人公表現をいろいろ思い出そうとしているのだけど、『Piaキャロ』や『雫』『痕』の主人公はゲーム画面上に登場していただろうか? 祐介(『雫』)や耕一(『痕』)の顔は、たしか「LEAF FIGHT '97」(ファンディスク内のミニゲーム)が公式初出で、本編時点では彼等の顔は一切描かれていなかった……という私の記憶は合っているだろうか? もしかしたら『雫・痕設定原画集』(1996)あたりに設定画があったかもしれないが、現在手許に無いので確認できない。『Piaキャロ2』(1997)の前田耕治(※デフォルト名前)は、本編中でもチップキャラなどで画面内に登場していて、プレイヤーである私もそのバンダナ姿のイメージを保持してプレイしていた……ような気がする。『WHITE ABLUM』(1998)も、本編中では主人公の容姿は確認できなくて、原画集の設定画で初めて見て「こんな優男だったのか」と驚いた憶えがある。RPGの『Rance』は、シリーズの当初から主人公のあの緑アドルな外見は露出していた筈。『野々村病院』(私がプレイしたのは1996年のSS版)の海原琢磨呂も、たしかゲーム画面上に登場していたと思う。



  2013/02/03(Sun)
  書いてみたらちょっと長くなったので単独記事化。→「AVGにおける再現(不)可能性について

  目安としては、この雑記欄に書くのは一トピックあたり1000字以内(一画面に収まるくらい)まで、というのを目指している。実際には超過していることもあるが。2000字を超える規模で、かつ独立のテキストとして意味を成す内容である場合には、単独記事にするつもり。3000字を超えたら、きちんと目次を付けるべきだろう。

  そういえば、周回に対応したタイトル画面変化のスクリーンショット引用を一つもしていなかった。個人的には、『水月』のそれが最も印象深く、そしてゲーム体験の中でもトップクラスの感動的な演出だった。しかし、それらの感興は私にとってあまりにも重大なものなので、なまじのストーリーネタバレよりもよほど慎重に扱いたくなってしまう、つまり、安易にSSを見せてしまうことが躊躇われてしまう。
  『天いな』の初回プレイ時の特別なシーンというのは、もろにそういう行為のシーンなので、これまたここでSSを出すわけには行かなかったりする。blggrではアダルト表現が禁止されているわけではないが、アダルトカテゴリーに入ってしまうといろいろややこしくなる(例えばggl検索結果に出なくなる)ので。


  男女間のそういう行為の形容として、私が知るかぎり最も即物的な表現は、「相違点の利用」。もしも宇宙人が目にしたのが百合やBL行為だったらどう形容していたであろうかは分からないが。
  そういえば、ちょうど上の記事で言及した『さかここ』シリーズのそれも随分なものだった。「落城しちゃう」(※女性絶頂時)とか、「ナパーム弾が炸裂した」(※男性絶頂時)とか、次世代兵器の共同開発に喩えるとか。なにしろ脚本家が嘘屋・佐々木氏だからね……。



  2013/02/02(Sat)
  『美少女ゲーム声優のお仕事』の第2集が出るのか。しかもインタヴューを読んでみたい声優さんの希望アンケート企画が……。やはりここは……(どきどき)。


  Yatagarasuは今回も百合ものなの?


  SH-seal系列作品の所持本数が、メーカー別のトップ10に入っていた。このままのペースだと、順位は上がるばかりだ。全体としては、90年代から00年代前半の作品をプレイしているとどうしてもF&Cのプレイ本数が圧倒的になるし、00年代初頭あたりに処女作発売したメーカー(Escu:deとかSHCとか、あるいは90年代のデビューだがLiar-softとか)の新作にずっと付き合ってきていればたいてい10本は超えているものだが。


  考えがまとまったら、「AVGにおける視界表現の可能性(と限界)」のような感じに論点を絞って書いてみるかも。ただし、この点に関係するようなスクリーンショットはあまり持ち合わせていないし、ゲームディスクを取り出すのにも時間が掛かるし……いくつかのタイトルについては、体験版からSSを撮ってお茶を濁すかも。
  解釈の余地のある問題には、あまり踏み込みたくない。例えば、「主人公視点を離れたシーンでも同じような画面レイアウトが維持されているのは、主人公視界表現の逸脱事例として捉えるべきなのか、それとも視界表現が一般的に追求されていないからだと考えるべきなのか、あるいは単なる便宜上のレイアウト維持に過ぎないと見做すべきなのか」といった問は、私一人で解決できるものではない。



  2013/02/01(Fri)

  【 新人原画家 】
  「原画家に新人が出てこなくなっている」という所説は正しいだろうか? 例えばgetchu.comの2012年セールス上位50タイトルの中でも、『ペルセウス』『イモウトノカタチ』『学☆王』『祝福の鐘の音は~』『マテリアルブレイブ』『ピュアガール』『中の人など~』『彼女と俺と恋人と。』『彼女(あのコ)はオレから~』『天下御免[祭]』『すぽコン』の11本には、新人原画家が(ものによっては複数人)含まれている。メイン原画や単独原画の者もいる。条件を広げて「原画担当実績2本以内かつデビューから2年以内」で見ると、『はつゆきさくら』『ホチキス』『この大空に~』『同棲ラブラブル』『いますぐお兄ちゃんに~』の5作にも該当者がいる。50本中16本=32%という比率は十分に高いと思えるし、売上51位以下のタイトルも見ていけば、この比率はおそらくさらに上がるだろう(――売上げの良いタイトルやビッグタイトルの企画ほど、既存の有名原画家が起用されている可能性が高いから)。こうしてみると、(PCアダルトゲームが今よりも若くかつ最もブリリアントな地位にあったとされる時期と比べればその割合は低下しているかもしれないとしても、そして「鮮烈なデビュー」というようなものはあまり出なくなっているかもしれないとしても、)新しい才能は常に大量に出現し続けていると言っていいだろう。もちろん、より大きな文脈で見れば他分野(例えばLN)の方がより多くの新人イラストレーターを獲得しているといったような現象がもしかしたら存在するかもしれないが、そのような検証困難な(そして比較困難な)問題設定はさて措くとして、PCゲーム原画家の人材供給は、けっして悲観論者が考えるような閉塞状況ではない。そして、この分野で何年も活動し続けている原画家たちも、ただマンネリで変わり映えのしない絵を描き続けている筈はなく、当然ながら常に時代に合わせつつ変化してきている。そうでなければなかなか生き残れるものではない、そのくらいにはこの業界はユーザーの厳しい評価眼に晒され続け、常にそのセンスを更新し続けてきている。
  しかし、こうしてみると「戯画がんばってるなー」という印象が……あれ? いや、それでいいのか?

  追記: 2013年現在のフルプライスPCゲームが、実績の無い原画家一人に任せるには困難な制作規模になっていることは、明らかであろう。なにしろ、10ヶ月またはそれ以上の期間を拘束し、作品の看板スタッフとしての重圧を課しつつ、10人以上のキャラデザ+それらの複数パターンの立ち絵+100枚以上の一枚絵(しかも誤魔化しの効かない裸身イラストが多数含まれる)+特典イラスト等を描かせるのだから。比較対象として例えばアニメ作品の作画監督に新人が起用される可能性の低さを考えてみても、PCゲームがセールス上位タイトルの32%に新人原画家が含まれているというのは、十分に入れ替わりが激しいと言っていいだろう。
  そして、それらに比べれば、LNのイラストレーターに表紙絵1枚+口絵数枚+挿絵10枚程度の作業を要求するのがいかに敷居が低いか(つまり、そのメディアの性質からして、新人を起用してデビューさせるのがいかに容易であるか)は、これまた明らかだろう。


  これまでの苦々しげなしかめ面やふてぶてしい三白眼の目つきとはうって変わって珍しく澄んだ瞳と穏やかな表情を見せている、あのきれいなミィちゃんのお写真を見る度に、つい頬が緩んでしまう。可愛いなぁもう!

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