2011年9月24日土曜日

演出論的覚書:このテキストについて

  以下のテキストは、サイトで「アドヴェンチャーゲームの演出技術についての覚書」というタイトルで書きまとめた文章の、いわば手直し版、アップデートβ版です。

  その元のテキスト自体、最初に公表してから何度も改訂してきましたが、1)細かな改稿の度にいちいちサイトに新たなファイルをアップロードして更新するのは手間なのと、2)内容に関してもっと細かな註釈やコメントそして私的なメモなどを書き込んで拡張的に利用していきたいという考えが生まれたのとで、こちらのブログに再掲して融通の利く形で使ってみようと考えた次第です。ほとんど同一のドキュメントをweb上に複数存在させるというのは私の趣味ではありませんが、あちらは正式版、こちらは暫定版という使い分けを想定しています。
  それと、こちらではゲーム画面のスクリーンショットをいろいろ引用してみようかと思います。スクリーンショットももちろんけっして万能ではなく、その場面の音響表現や時間感覚がすっぱり抜け落ちてしまうのですが、しかし画面上でどのようなことが行われているかを示すうえでたいへん強力なものであることは確かですし。ただし、私がSSをちゃんと撮っているタイトルは、プレイした中でもごく一部しかありませんし、論旨に適したSSがあるかどうかも保障のかぎりではないので、SS貼付はかなり適当なものになってしまいそうです。

   双方の異同について。
  1)更新日を見れば明らかなように、サイトに掲載してある方が時間的には古く、そして適宜手直しされるこちらの方が新しくなっています。こちらはその都度のプレイした作品や思いついたアイデアが即時に反映されますから。実際、本文もすでにわりと変化しています。しかしただし、正式版には正式版としての重みがあるので、それがけっして無意味になるわけではありません。なにかの機会にこれらのテキストを参照される場合には、正式版の方を参照指示していただけると幸いです。
  2)また、こちらではテキストを章節ごとにページを分割し、それぞれに自分自身のコメントを適宜付記していくつもりです。コメントの内容としては、a)内容の再整理(正式版はわりと突慳貪な文体でまとめてしまっているので)、b)個別作品の詳細についての注記(正式版では全体の見通しを考慮して細かな記述は削ってあるので)、c)本文の枠組を超える視点や新たな事例についてのコメント(すでに何百本もの新作タイトルが発売されているわけですし)などを想定しています。ちなみに、正式版ではページ内検索を考慮して単一ファイル(単一ページ)に集約していましたが、ここでは章節ごとにテキストを分割しています。私自身にとって、ブログ検索の利便性を確かめる機会にもするつもりです。
  3)このブログ版では、個々のゲーム作品からの画像引用も行っています。それに付随するコメントも書き込んであります。

  いずれにせよ、2011年現在ではこの演出論覚書の枠組はすでに古びつつありますが、それでもPCゲーム表現について様々に思考するうえでの体系的な手掛かりとしては――部分的には「乗り越えられるべき枠組」という地位においても――有効性があると思われるという理由から、そしてまた少なくとも21世紀最初の十年に関してはそれなりに妥当する認識であろう(そしてそれゆえその十年の間に現れた作品群について再考するうえでの妥当性及びその十年についての歴史的評価に際しての有用性は存在するであろう)という理由から、この枠組をもう少し維持して取り組み続けることに(少なくとも私個人の中では)意義はあると考えています。実際、私は最新の作品をプレイするばかりではなく旧作(つまり買うだけ買って未着手だったタイトル)も頻繁にプレイしているので、それらがどのような歴史的文脈の中でどのような挑戦をしていたのかを捉えるうえで、一つの認識の軸として役に立っています。ただし他方で同時に、この枠組に自縛されてしまわないように――そして望むらくはこの枠組を破棄して乗り越えていけるように――努めていきたいところです。

  ここであらためて、自明のことを一点確認しておきます。演出論として題されたこの一連のテキストの中に、筆者である私自身の功績はほとんど存在しないということです。このひとまとまりのテキストは全体として、現に存在する個々の作品に含まれる特徴的な局面を取り出して、独創性に乏しい仕方で紹介しているにすぎません。私自身、このテキストを読み返す度にそこに含まれる輝きに圧倒される思いを常にしていますが、その輝きとは当然ながら個々の作品から発せられたものの照り返しに他ならないのであって、それに対する私の寄与はひとえに「それらを紹介している」という――すなわち、もしかしたらいささかいびつであるかもしれないながらその光をなんとか拾い集めては反射しているという――単純な事実にしか存しません。ここに公開しているテキストに関して、私は執筆者としての「責任」は負いますが、このテキストに関して「価値」があるのはあくまで私が綴った本文以外の存在――すなわち個々の作品、そしてそれらを作り出した制作者たち――であることを信じます。
  そして――サイトの方の「あとがき」でも述べたことを再び確認しますが――、私がここで提示したひとまとまりのこの展望が独創性に乏しいというのは、それなりのアダルトPCゲーマー(作品のジャンルと年代に関してそこそこバランス良く何百本かプレイしてきた人物)であればおそらく誰でも、このような枠組を構想してそれぞれ適切な実例を挙げつつ説明することができるに違いなく、そしてこの私が書いたテキストに関しても、ゲームにおいて生成変化する画面と音響と数字と物語に対して最低限の注意を払ってきたゲーマーであればおそらく誰でも、実際に私が例として挙げた個々のタイトルをプレイしたことが無くても、これらの記述を自明のものとして完全に理解できるだろうと確信できる、という点においてです(――もしも私が述べたことが理解されなかったとしたらそれはきっとただ単に私の書き方が適切でなかったからであって、述べようとしている事柄そのものは大多数のゲーマーにとってすでに[意識的または無意識的に]既知の事象である筈です)。それにもかかわらずあえて私がこの枠組に取り組み続けそして繰り返し公表しているのは、上で述べたように、これが個々の作品の達成を(私自身が、そしてもしかしたら他の方々にとってもいくらかは、)認識及び評価するための前提的手掛かりの一部として一定の有用性がなおあると考えるからです。