2011年9月24日土曜日

演出論的覚書:はじめに

  《はじめに》

  20世紀末にPCアダルトゲームは、一方ではWindows(95/98)の普及とともに商業的な生産力の基盤を獲得し、また他方で人物立ち絵+フルサイズ背景という描画システムの確立によって安定した表現力を確保し、さらには同人分野の隆盛(制作及び市場の両面)とも連動しつつ、創作の活発な一分野として開花した。そして21世紀に入ってからは、主としてアドヴェンチャーゲーム(AVG/ADV)形式に関心を集中させつつ、その人的、経済的、文化的な豊かさの中で表現上の様々な試みが為されてきている。ゲーム制作者たちによるその開拓と洗練の努力は十年を閲した現在も衰えることなく意欲的に継続されているが、しかしながらユーザーの側にはそのような表現開拓の重要性と可能性を受け止めて言葉に表していく活動はいまだ不十分なままであるように思われる。

  本稿は、現在の成人向けPCアドヴェンチャーゲームで利用されている様々な演出技術について、まずもってその多様な広がりを捉えることを最大限重視して概観を試みる。ただしその反面、枠組の厳密さや事例の網羅性は犠牲にされざるを得ないし、個々の作品の詳細な検討に立ち入ることもできないであろうが、演出技術の観点から現在の国内PCゲームの創造性の一局面に光を当てる本稿の試みは、そうした各論的展望や個別作品分析に対しても技術上乃至理論上の手掛かりを提供することができるだろう。


  本稿の構成をあらかじめ提示しておく。第1章では、特に重要だと考える三つのブランド(Littlewitch、すたじお緑茶、Purple software)を取り上げ、分析を交えつつ簡単な紹介を試みている。これら三者は、時期的に先進的であり技法的に先鋭的であるだけでなく、演出技術の使用が包括的でありかつ明確な様式性があるという点に大きな特徴がある。これらの作品は、現在のAVG演出の到達地点を把握するうえで最良の見本として役立つであろう。第2章では、演出重視傾向の歴史的経緯及び現状理解をいったん定位しておく。ただし、歴史観的展望の詳細には立ち入らない。第3章と第4章は本稿の中心的部分であり、表裏をなすかたちで、第1章で摘示した諸要素を実例に照らして吟味していく。一方で第3章では、AVGの各局面で適用される演出技法について、主要な方向性のいくつかを紹介し検討する(立ち絵演出、エフェクト強化、ムービー利用)。他方で第4章では、演出技法が適用される各局面(または各構成要素)の側から、可能なかぎり広汎な事例紹介を試みつつ枠組整理を行う。しかしいずれにせよ、本稿の趣旨はあくまでAVGの演出技術全般についての枠組的概観を与えることにあり、個別作品の演出効果に対する具体的評価はまた別の課題とされる。

  本稿の論述は主として20世紀末(Windows98時代)から2008年末までに商業発売された成人(男性)向け国内PCゲームに依拠しており、それゆえあくまで2008年末時点で通用し得たと思われるパースペクティヴにすぎない。2009年以降の作品を次々に視野に入れていけばこの論題の枠組とウェイトと射程を大きく変更する必要が生じてくるであろうが、そうしたアップデートを含めた展望は稿を改めて別に論じたい。



  【追記コメント】

  リンク:ウェブサイト「居酒屋 むらさき」の記事「ADVの演出技法」が、まとまった概観を提示している。2005年11月頃の、かなり早い時期のもの。

  こう書いてはみたものの、いろいろと疑わしい。もちろん私はPCゲーム史の専門家ではないしその歴史を体験してきたと言えるほどでもない。例えば、Win95/98への移行がPCゲーム業界にとってプラスだったのかマイナスだったのか(あるいはどのようなメリットとデメリットを生じたのか)という論点だけでも、詳細な検討を必要とするに違いなく、本来あまり安易にコメントできるものではない。
  長い目で見れば、前世紀末頃に一時的に技術発展が停滞し、そしてそれはPCゲームの歴史の中ではむしろ例外的(イレギュラー)な事態であって、それ以降再び様々な技術的試行錯誤が為され各局面での進展が見られるようになっているのはゲーム史にとっては通常形態に立ち戻っただけなのだ、と見る方が適切なのかもしれない。

  もう一つ問題なのは、 日本の男性向け商業アダルトPCゲームの十年のみに範囲を絞っていること。全体を読み返してみると、範囲の限定が枠組の安定性と記述の明確さを提供するよりも、むしろ射程の短さが評価のいびつさを帰結してしまっている箇所も間々ある。これは端的に私自身の知識の量に由来するものなので、当面どうしようもない。

  この全体構成それ自体も、いかにも雑多錯雑なものでけっして良い構成とは言えない。個別ブランドの紹介から技術要素の紹介から構成要素ごとの概観までの、複数の視座を単純に並べてしまっているだけなので。個々の章節の記述も、ブランドに着目してみたり個々の作品の様式(スタイル)を取り上げてみたりPCゲームのメディア特性に言及してみたりと落ち着きが無い。実際、改稿途中で迷ったところもあって、純粋に技術乃至技法の展望及び紹介に徹しようか、それともそれらを成り立たせている制作者たちの存在――そしてディレクションの次元の強調――をも視野に入れようか、という点で後者に舵を切ったのだが、それで良かったのかどうかはまだ自分で納得できていない。様式論までつまみ食いしようとしかけているのはさすがに迂闊すぎるのだが。そうした着眼点の選択を別としても、やはり論点の散漫さと体系的未整理は否めない。例えば「背景アニメーション」に関しても、個別ブランド論、背景アニメーションそれ自体、動画使用、3Dアニメの4つの論点にまたがって――あるいは分散して――しまっていて、まとまりが無い。
  いずれにせよ、知は――個々の知識(情報)であれあるいは知性全体の作用であれ――ただ単にバラバラに放り出されているだけでは無意味であって相互に関連づけて組織化されねればならないものだと考えている。知は、具体的な効用(外的作用、すなわち知識の外部の諸要素諸事実に対する連関)を持つか、あるいは――その前段階もしくは補助的整理または(私見では)知それ自体の意義として――相互の内的連関の中で意味及び体系的位置価を与えられるのでなければ、自己目的的に秘儀化していくかあるいはせいぜい雑学のネタ――要するに「死んだ知識」――に終わってしまうものだろう。本稿の「知」――がいくらかでもあるとして――はその性質上、体系化に適したものではないしまた本稿が論題に即した緊密な体系化をなし得たとは言えず、そして知の対外的行使――すなわち技術の具体的事例への「適用」――に寄与しうるほどのものでもないが、しかし少なくとも理想的極限としては上記のような知のあり方をここでも追求していきたい。

  このようなテーマに関する(日本国内での)先行研究――紹介的論述であれ歴史学的実証であれ――はどのくらい存在するのだろう。AVGまたはPCゲームの演出学、あるいは表現システムとしてのAVGについての様々な検討。いくつかの研究会でこれに関わりのある報告がなされたことはあるようだし、それ以外の形式でも皆無ってことはなかろうから私の知識が浅いだけだろうけど。

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