雑多な話。
【 声優について 】
声優さんの名前を一つも挙げられなかったのは実に悔しい。例えば主題歌への注目というくだりで海原氏や理多(Rita)氏――どちらも声優であるだけでなく歌手としてもとても素晴らしい――を挙げることも考えていたのだけど、人選を決めかねたまま断念してしまった。
ほかに声優兼歌手として活発に活動されている方というと、榊原氏、民安氏、青葉氏、新堂氏、伊東氏、立花(あや)氏と、人数は少ないながらあり得るスタイルとして確立されてきた様子。
【 AVGと「時間」表現について 】
「AVGにおける時間制御」についてもひととおりの展望を得ておきたいところ。とりわけ、通常はプレイヤーのクリック操作という断続的介入を必須要件としていわば離散化されそして未決定なままに放置されているAVG進行のあり方に対して、独自の時間的継起を持たせようとするものがいくつか存在する。例えば、オートモード(例:古典的にはF&C、あるいはApRicoTやminori)、強制進行(例:minoriが多用している)、ムービー進行(例:SkyFish、pajamas soft)などによって自動化された進行形態。例えば、その都度の画面生成に暫時の蟠りを持たせていく見せ方(――とりわけ初期LittlewitchのFFD表現やInnocent Greyのカットイン挿入に典型的に見られるような手法。しかも前者の場合はクリック単位の内部での比較的長大な[場合によっては十数秒にも亘る]推移を伴っており、それはいわば複数クリックの進行を適宜パッケージングしたのに等しい独自の文法概念を持っていると言うことができ、すなわち見た目の感覚的直感的な分かりやすさとは裏腹に非常に複雑な組み立てになっている。また時には他方で、新たなテキストの表示を伴わない画像更新のみのクリックを持つ場合もあったりする。ゲーム画面の時間的造形に対する注目とセンシビリティは明らかである)。そして、最新のスタイルとして、ALcotに代表されるような――ただし立ち絵連続切り替えによる瞬間的な振り付けとして古くから行われてきたものではあるがしかしそれ自体の成立経緯としてはおそらく近年の立ち絵スクリプト演出の延長線上にあるのではないかと思われる――立ち絵進行の時間制御。ゲーム進行の基盤部分そのものにリアルタイム性を導入する試みも、すでにいくつも存在する:3D-AVG、RT-SLG(例えば『WoRKsDoLL』、あるいは『Wizard's Climber』の塔戦闘パートなど)、フルアニメーション化(esp. Overflow)、局所的には時限選択肢システム、あるいは特異な例として『days innocent』、等々。Abel softwareにもたしかリアルタイム時刻進行のあるタイトルがあったと仄聞したことがある……『不確定世界の探偵紳士(/Rebirth!)』かな(――ただし、フラグの観点からいえば、リアルタイム進行であるかどうかには本質的な違いは無い。例えば、5分単位で時間を進めることのできる『THE GOD OF DEATH』と、時間進行を示すシークバーが表示される『days innocent』との間には。しかしながら、「待つ:5分進める/10分進める/30分進める」といった選択肢からその都度機械的に決定する前者の制御システムと、自動的に進行する時の流れに応じて村の俯瞰風景の彩りが刻々と変化していく後者のデザインとの間には、やはり決定的な相違があり、この違いを私はここで問題にしている)。私自身の知識不足と体系的位置づけの難しさから本文には組み込まなかった論点であり、またほとんどシステムの次元の話になってしまいそうだが、AVG演出が拓かれていく方向性の一つとして見守っていきたい。
【 2009年以降のAVG演出実践の動向について 】
この演出論の構成及び配分は、いわば「2007~2008年時点でこの分野が推移していた状況(だと私が認識したもの)」を後からふり返ってみたようなものだった(――2009年のタイトルも何十本か挙げているが、それらはあくまで補充的追記的なものに留まっていたし、留まっている)。それに対して、10年代に入った現状での観察と診断と展望を別途新たに提示することも――知識と能力が及ぶならば――可能だしまた必要になってくるだろう。その後の数年間で、いかなる方向性が芽吹きあるいは伸張してきたか、2007年当時の目立った動きがその後どのように推移したか、2011年時点での全体的展望としてどのような趨勢が見出されるであろうかについて、私なりに暫定的に書き留めてみよう。
まず、ムービー導入はそれほど広がらなかったように見受けられる。技術的にはかなり以前からすでに実行可能/実行容易になっていた技法であり、SkyFish(とりわけ『白銀のソレイユ』)やういんどみる(『ツナガル★バングル』冒頭)やMay-be soft(『パトベセル』の様々なアニメパロディ的シーン)が実践していたものだが、現在ではlightが継続的に行っているくらいで、目立った実例はあまり現れていないようだし、ユーザーサイドでも動画組み込み表現に注目が向けられたり賞賛されたりする様子はほとんど見られない。業界の実態は分からないが、3D表現や中間的なアニメーション化プログラムによって代替されてきたということだろうか?
同様に、背景アニメーションなどの部分的な(擬似)アニメーションも、サーカス芸的に注目を集めることはあっても、結局のところAVGのスタンダードな表現として取り込まれるには至らなかった。実際、私自身の経験に照らしても、それらは局所的に人目を引く要素にはなり得ても、読み物AVGにとってはむしろその中途半端な動きがプレイヤーの気を散らせるマイナスの影響の方が看過できないものであるように思われる。ごく限られた特定の場面でその表現効果が熟慮されたうえでなければ適切な成果は得られないものだというのは、これ以外のあらゆる演出技術についても当てはまることだが、とりわけこの局所的アニメーションに際しても一般的に妥当する教訓だろう。自宅シーンでの長閑な日常会話の背後でTV画面がせわしなく動いていたり(『明日の君と逢うために』)、痛切な告白の場面で扇風機がアニメーションしていたり(『恋色空模様』)しても、プレイヤーのゲーム体験にとっては邪魔者にしかならないだろう。
他方で立ち絵画像操作を中心としたスクリプト演出は、その普及の度合いにおいても、技術的進展と品質向上の度合いにおいても、最も豊かな成果を収めてきたと言えそうだ。その(2011年現在での)おそらく先進的な形態がALcotに見られる。また、これらの中で比較的長い歴史を持つカットイン表現も、(AVGの画面構成に十分に馴染んだとは言いがたくまたとりわけワイド化傾向の中でさらに新たに潜在的なデザイン上の困難に直面しつつあるように思えるが)数多くの制作実践の中でいくつもの好適な使用機会を見出してきた。
全体としてみると、ここ数年の間にAVGの様式上の大きな「転換」は起きていないように思われるが、しかしこの数年での新たな動きもいくつか現れてきている。たとえば、現場技術レベルでは(おそらく)3D技術の浸透が演出スタイルの可能性と方向性に対して小さくない影響を与えてきたように感じられるし、ゲーム形式のレベルでは可読性制御についての発案と試み――これまでも時折現れていたフローチャート導入と、それを拡張したジャンプ機能、そしてさらにはテキスト検索機能に至るまで――がAVGにおける「ゲーム」観念に対する(さしあたっては潜行的ながら)挑戦を行いつつある。また、デジタルゲームとしての外部拡張性に関しても、2009年頃から同時多発的にさまざまな実験がなされてきた。具体的には、twitter連動機能(例:MOONSTONE)、インターネットランキングシステム(『神楽道中記』、『ランス・クエスト』)、インストール時の認証システムの――今回のはようやく本格化した――普及(とりわけlight)、旧作や低価格タイトルのDL販売の顕著な増加傾向――なお、これについては、2011年4月20日のtw上での意見交換(1/2/3)の中で、広告依存による売れ行きの両極化の懸念、それに伴うシチュエーション特化傾向の可能性、旧作が市場に留まり続けることによる新作収益悪化の懸念、あるいは逆に購入の敷居が下がるメリット、物理的在庫の問題が生じないこと等によるマイナーブランドの相対的有利の可能性、などが指摘された―― 、そして――呪わしいことに――予約特典という形態での内容拡張手段の普及(これも実践としては古くから存在したものだが、2009年頃から『BALDR SKY』、『神楽道中記』、『姫狩りダンジョンマイスター』のゲームパートに関する予約特典アイテムがきっかけとなってAVG作品にも近時広汎に普及している)、などがある。ワイド画面構成の普及は、一枚絵構図に対する反省と実験を促しつつ、また同時にテキスト表示への関心を刺激してきたと言えそうだ。
市場としては、先に述べたように低価格化とDL販売化が挙げられるだろうが、この傾向はさしあたっては個々の作品の内容への影響はもたらしていないように感じられる。
――雑駁にいえば、2011年現在での展望はこのような感じになるだろうか。
【 立ち絵演出の体系的展望に向けて 】
もし叶うなら立ち絵演出文法の体系的整理を行ってみたい。つまり、立ち絵表現の言語研究、文法論。例えば:
・一度大きく上下動(下がってから戻る)=首肯、嘆息、力を入れるetc.
・一度大きく上下動(上がってから戻る)=驚き、伸び上がりetc.
・素早く上下動=元気さ、驚きetc.
・素早く反復上下動=激怒、促し、苛立ちetc.
・中速で反復上下動=活発さ、食事etc.
・上に数度ジャンプ=伸び上がり、台詞の強調etc.
・緩やかに下降=落胆、内省etc.
・横に細かく振動=恐怖、興奮etc.
・横に大きく揺れる=困惑、動揺、期待感、満足etc.
・横に微動しつつフェードイン:登場(画面内に入ってくる)
・横微動+フェードアウト:退場
・上下左右の不規則振動=怒り、ツッコミetc.
・一時的拡大=大声(怒声台詞時など)
・わずかに傾斜=落胆、当て外れ etc.
・横向きの波形移動:歩行
といった感じ。観念的なものではなく、実作上の実践(すなわち現実の言語実践)に即した実証的調査。しかし、さすがに私一人の手に余る仕事だし、ユーザーサイドの「研究」として行われるよりむしろ実作サイドでの方法論としてまとめられるべきものだし、おそらくはすでに実際にいくつものブランドやスクリプター(会社)によって様々にまとめられているであろう。
【 場面転換 】
本文では一切言及していなかったが、場面と場面の間の空隙も、表現上の特有の意味を担い得る。はっきりした例を挙げると、暗転の形状がそれに当たる。たとえば円周型暗転は時間経過を示すと考えられるし、横の蛇腹型暗転は場所移動を、波形+暗転は睡眠あるいは回想前後の転換を、それぞれ示すことができる(※模範的用例として、すたじお緑茶作品:『恋色空模様』など)。暗転の形式にも意味がある。
【 デモ/OPムービーに関する雑感 】
アダルトPCゲームのOPムービーは、本編素材の流用と装飾的エフェクトの組み合わせで成り立っているという素材面についても、中途半端なキャラクター紹介と本編一枚絵のカットインと適当なキーワード提示でお茶を濁しているその構成についても、ルーティンワーク的に型にはまっているものが大半で面白くない、といった不満の声は確かに一理あるだろう。私見では、ここでそのような状況を形成せしめた事情として、「ムービー制作がしばしば、内製ではなく専業のムービー制作会社等に外注して制作されている」という制作過程上の外的事実的側面と、「事前公開されるデモムービーと、製品版の本編中で使用されるOP ムービーとが流用されている」という作品構成上の内的構成的側面とが注目され、そして「デモムービーは/OPムービーは、作品を提示するうえでどのような作用を果たしている/果たし得るのだろうか」という見地で検討されるべきだろう。
まず制作工程上の事情として、多くの場合ムービー制作が外注制作で賄われているという点。これは、現在のアダルトゲームの制作形態及び制作規模からして、ごく自然な対処だろう。ムービー制作専門の社内スタッフを抱えておくというようなことは、よほど経営が順調に行って大規模化した会社でなければ出来ないだろう(そうまでする必要も無いだろう)し、内製制作している場合でもそれはたまたまある社内スタッフが動画制作のセカンドスキルを持っておりかつムービー制作に回れるだけの時間的余裕があったという偶然の結果か、あるいは特に意識的に動画技術を活用しようとしているメーカーの場合(例えば本編でも動画演出を多用している場合:後で調べたい)でしかないだろう。他方で、年間数百本もの新作タイトルが制作発売され、そしてその多く、とりわけフルプライス作品ではほとんど義務的であると錯覚されるほどの頻度でムービーが制作されているこの分野では、ムービー制作を請負う専業の会社乃至個人が現れるのは、これまた自然な成り行きだろう。ムービー制作が内製化されていくことは、ムービー制作技術及び制作ツールが十分に普及してポピュラーなものになっていくまでは―― あるいは、そのように敷居が低くなったとしてもなおも時間的余裕の問題から――なかなか生じないだろう。最もイージーな事例を想像すれば、適当な本編素材の詰め合わせデータと音楽素材(主題歌)と作品コンセプトを伝えれば、社内スタッフの手を煩わせることなしに、作品のセールスポイント-兼-重要な広告素材が調達できるということであり、これは各ゲームメーカーにとっては非常に便利なものであろうと思われる(――実際、ムービーのために新規のグラフィック素材を用意し使用してある作品は少ない。ムービー専用素材を増やしたり、あるいはムービーでの再利用を見込んでSD素材等を拡充していったりするという漸次的変化は現れているが)。ただし、このことは、上記のようなイメージムービー化を帰結する一因になっているであろう。
第二に、非常に多くの場合に、デモムービーと本編OPムービーとでまったく同じ動画素材が流用されているという点。デモ用のトレーラームービーを別途制作公開しているブランドもあるが、依然として少数派のままである。この分野に親しんでいない人にこの事実を教えたら、きっと大いに不思議がられるに違いない。デモムービーとOPムービーのどちらの慣行が歴史上先行していたのか(1990年代後半には後者が現れており、その後デモムービー配布が行われるようになった00年代初頭のほんのわずかな期間で急速に収斂したものと思われるが)、あるいはどちらが「本質的」か、といった論点は重要ではないが、何故このような慣行が続いているのかは興味を惹く。コスト面だろうか? 外注したとして、せいぜい数十万円(――おそらく10万~50万。例えばK社は、通例10~40万円、通常のアダルトゲームでは20万前後が最も多い、と案内している。ただしアニメーションムービーを制作するとなったら100万でもきかないだろうが)。小さくない額ではあるが、現在のフルプライスAVGの制作規模からすれば容認できる範囲と思われる。しかしなかなか微妙な額だ。1本だけなら広告費扱いで問題なく計上できるが2本、3本も作るとなると制作費のバランスを圧迫してきそうな額。つまり、デモとOPを別途制作するのは、予算上はおそらく不可能ではないが、ペイするかどうかの判断はかなり難しそうだ。また、品質の点で見ても、トレーラームービーを別途制作した場合にOPムービーのスタイルが劇的に変化しているといった様子はあまり見受けられない。こうして見ると、デモとOPのイージーな流用が蔓延している事情は、もしかしたら「宣材としては重宝されているが制作スタッフからは(デモであれOPであれ)たいして顧みられていないままである」ということなのかもしれない。
問を一歩進めてみよう。デモムービーは必要なのだろうか? 店頭でデモムービーが流される頻度は数年前と比べて高まっているとはいえ、全体としてはごく限られた大作(期待作)が集中的に流されているというのが現状であるように見受けられる。通販購入の割合も上がっているように思われるし、そうでなくともデモとしての露出機会はそう多いわけではない。webからダウンロードして個人視聴される場合でも、「デモムービー公開」というニュースによる宣伝効果は一定程度見込まれるものの、広告効果のほどは疑わしい。内容面でみても、発売日や特典を周知させる手段としては迂遠だし、本編に関しても――ユーザーの間に根強いネタバレ嫌悪の風潮の中では――形ばかりのキャラクター紹介以上には事前情報をそうそう出せるわけでもない。もしも「気に入ったデモムービーは何度でも繰返し視聴する習慣があり、さらにそれが購入意欲に結びついていく」という層がある程度の厚みで存在しているならば、デモムービーにも大きな効用があるということになるだろうが、その前提は現状でどこまで満たされているだろうか? あるいは、いっそ「デモ」の役割を捨てて(あるいはデモとしての情報はムービー末尾に載せる程度にして)、OPムービーに一本化してしまえばいいのだろうか。しかし、本編の一部を成すムービーを切り出して先行公開したとして何になるだろうか?
もう一つの問。OPムービー(と主題歌)は必要なのだろうか? 起動するやいきなり無頓着に流されたり、あるいは本編中の適当な区切りでわりと恣意的に挿入されたりするOPムービーは、演者(キャラクター)紹介的作用とその因習的安心以上の何ものかを提供しているだろうか? OPムービーが何のために存在しているのかという問に対する答えは、(少なくとも私にとっては)ブラックボックスのままである。「作品の基底的イメージを与える」ものだろうか――そこまで強力なものだろうか?「アニメOPと同様の様式性」があるのだろうか――しかしアニメにおいても、OPの存在は必ずしも絶対的なものではないということがすでに認識されている。慎重な検討を要する論点ではあるが。制作スタッフにとって、ムービーが出来上がるというのはモティベーションを高めるものなのだろうか――こうした機微に関しては、私には想像も出来ない。
私が今考えようとしているのは、本編の表現と密接に絡み合うようなOPムービーを作ることは為されないのだろうか、ということだが、しかしこれは言葉でいうほど容易なものではないだろう。デモムービー相当のスタイルに依らずに、独力で(あるいは外注によってでも)、本編の一部としてうまく機能しかつ鑑賞に堪えるような2~3分の動画を作り上げるのは、おそらく容易ではない。映像制作それ自体のノウハウとセンスのみならず、本編表現への組み込みを踏まえた調整を――そのための時間と労力、つまりコスト(資金)を――少なからず要する仕事になる。実例が無いわけではないが。例えば、演出論(Ⅲ章3節)でも紹介したように、『明日の君と逢うために』のOPムービーには、本編の物語に影響を与えた本編開始以前のある状況が描かれたショットが含まれているし、同様に『SEVEN-BRIDGE』のOPムービーにも、主人公以外のキャラクターたちが本編開始時点の状況に至る経緯が暗示されるシークエンスが存在する。しかし、全体としては、ゲーム作品全体の中でのOPムービーの地位は、特別な演出素材として祭り上げられつつもその中身はたいして重視されていない、単なる風変わりな埋め草素材の地位に置かれたままであるように思われる。
もう一つ、ムービーの美的造形を制約し方向づける要因が存在する。すなわち、単なる映像の連なりだけではなくそこには音響、とりわけ主題歌が関与してきているという点。そのために、イメージムービー以上のあり方へと踏み込むことが――宣伝ムービーに徹底することも、本編中の特定の表現要素として埋め込むことも――困難になっている。これに対して、『LEVEL JUSTICE』『エインズワース』『最果て』『白い蛇』『脱衣雀3』のように、非ヴォーカル曲のデモ/OPも存在する。少数派であるが、ヴォーカル進行に従属しない視覚的秩序優位の映像を独自に構築することにそれぞれ成功している。主題歌の存在は、(OP)ムービーが物語の特定の描写を担うことを難しくしているだろう。
ひとしきり考えてみたが、私には新しい視点を提示できなかった。結局のところ、外注制作が多分に慣例化した状況下でそのことに無批判なままデモ/OP流用による中途半端な紹介ムービーが溢れかえっているというのは現状の評価として一定程度正しいであろうし、それを――本編から切断された名技披露の場に開き直る(典型的には、本編の絵柄から乖離したキャラクターが動き回るアニメーションムービー:例えば『白詰草話』のそれ[……残念ながら。ただしその後の『聖剣のフェアリース』『シュガーコートフリークス』のアニメーションOPでは、大槍イラストの雰囲気を見事に反映させるものになっていた])以外の方法で――克服することは依然として困難であるように思われる。OPムービーの緻密な本編組み込みを企図するならば今以上に多大なコストが掛かるし、かといって横並び的なデモ/OPムービー制作慣行の中でムービー無しにするのは胆力を要する判断だろう。この十年来続いてきた現状維持的ムービー慣行は、いつまで続いていくのだろうか。
もしも私がアイデアを出せと言われたら――デモムービー+主題歌はプロモーションヴィデオ(文字通り、販売促進のための作品広告的、コンセプト紹介的、イメージ浸透的映像)に徹した作りにさせて、製品版(回想モード)でも一応閲覧することができるようにしておく。製品版本編では、デモ流用のOPムービーはそのまま使用せず、ただし主題歌は主題歌で本編中で別の使い方もする。少なくとも、起動直後にいきなりOPムービーを流してそれっきり、という見せ方はよろしくない。OPムービーを使用すべき特定のスタイル(例えば話数制脚本など)を採用するのでない限り、OPムービーは無しでも構わないと思う。……私だったら割り切ってこんな感じにするかなあ。
……あれ、おかしい、こんな贅言を費やすような話じゃなかった筈なのに。
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