今世紀のPC用AVGの演出強化傾向について、最も消極的に評価を下そうとするならば、それらはストーリー面での行き詰まりに直面したAVG作品が、その内容的充実を模索する中で補填乃至代用として案出した時間稼ぎの小手先芸であって、AVGの本質的な深化にはなんら寄与しておらず、またプレイヤーにとっては物語を読み進める上でただ単に時間を徒過させる夾雑物であるに過ぎないのだと批判する立場を採り得るかもしれない。しかし、そうではなくて、AVGという形式に内在していた総合芸術的可能性、すなわち視覚表現+文字表現+聴覚表現+システム表現の四者によるマルチメディア複合表現の可能性がまさに開拓され深められつつある過程だと捉えることもできるだろう。それはまさに、遠く前世紀に「ATLACH=NACHA(アトラク・ナクア)」(alicesoft、1997年[『アリスの館4・5・6』所収])によってすでに予告されていた可能性である。
PC用AVGにおいて開拓されてきた様々な演出技術及び演出技法は、ストーリーに対する表層的装飾以上のことを達成しており、AVGという媒体において実現し得る表現のキャパシティそのものを拡張することに成功している。ただし、演出「技術」は本質的にはあくまで技術的手段であって演出そのもの(あるいは演出のすべて)ではないということがあらためて自覚されるべきである。演出技術の使用は演出効果の質それ自体と同義ではないし、まして作品全体の質を自動的に保障するものではない。それゆえ本稿が行ったこともまた、せいぜいのところ、実質的なAVG演出論のための形式的な修辞学的準備作業であるにすぎない。そして、開拓された技術をどのように用いるかについての、より高い次元での演出意識の差が、今後不可避的に問題となってくるであろう。いずれにせよ、演出技術の発展がAVGにとって何を意味するかは、今後のゲーム制作者たち自身の創造性にかかっている(註43)。
註43) 本稿の論述は、現在のAVGにおいて行われている様々な演出の技術的手段についての記述的整理作業に終始してきた。しかし、AVGの現状に関するこの概観的認識を、AVGに関する規範的乃至価値論的議論へと振り向けることもできる。開かれている(あるいは、開かれるべき)一つの路は、本文でも示唆したように、AVGに関してその自律的基準としての美学的視座をさらに発展させていくことである。AVGのあらゆる局面に関するよりいっそうの技巧開拓及び全体的洗練が制作者たちに求められるとするならば、それに対応して、それらの優れた作品を適切に評価していくことが、作品の受け手である我々プレイヤーの任務であり責務となるであろう。そしてその際には、個々の作品をもたらしかつそれらをつなぐ技術的演出的ノウハウの担い手たる個々のゲームブランドに対する注目――本稿でも積極的に試みたものであるが――が重要な手掛かりを提供するだろう。ただし、このブランド論の視点は、ここ十年来のアダルトゲーム受容層におけるディレクターに対する注目の欠如及びゲーム制作技術一般に対する関心の欠如と同様に、そしておそらくはそれらの欠如と相伴った現象として、不幸にしてこれまでこの分野でほとんど閑却されてきたものであるが。また、ゲームに対するこの美学的視座は、統一的総合的な体系知を築き上げるにはいまだ程遠く、そればかりかそのような実質的含意を伴う美学はそもそも目指されるべきでない(成立し得ない)ものであろうが、しかし少なくとも実用的な方法上の道具立ての束としては十分に見込みがあると思われる。 そしてもう一つの路は、AVG表現の現代的意義の再検討への取り組みである。AVGが実現してきた豊かな内実の実証的観察を基礎として、いまや我々は、AVGに対してしばしば提起されてきた四つの非難乃至偏見を、いわれなきものとして退けることができるだろう。すなわち、一つは「演出は、ストーリーを粉飾し、ゲーム進行を遅滞させ、プレイ時間を水増しする、単なる余剰的夾雑物である」という見解(家庭用ゲームに関しても縷々唱えられる演出不要論)であり、第二に「AVGには素晴らしいストーリーがありさえすれば良く、それ以外のものはせいぜいのところ副次的な価値を持つに過ぎない」とする見解(ライター中心主義やテーマ論志向と結びつきがちな物語至上主義)であり、第三に「現在のPC用AVGは、技術的発展への努力を放棄して先祖返りめいた原始的形態へと退行してしまった、きわめて底の浅い媒体である」とする見解(因習化した電脳紙芝居説)であり、そして第四に「デジタル読み物へと単純化されたアドヴェンチャー"ゲーム"は、本来『ゲーム』でなければならないのにその条件を充足していない、ゲームとして欠陥のある形態だ」とする見解(硬直的で一面的なゲーム性信仰)である。国内PCゲームに関するこれらの論点の直接の起源は、AVGの読み物的側面を強調するノヴェルゲームがもてはやされたいわゆる「葉・鍵」時代(1996年~2002年頃)に遡ると思われ、その当時は――「Hシーンの必然性」というフレーズをもって縷々言及されていたもう一つの曖昧な論点とともに――有効な議論パラダイムであったのだとしても、しかしそれらが現代のAVGに対して向けられる場合にはもはや実態にそぐわないアナクロニスティックな偏見でしかない。本稿が取り上げてきた多数の実例は、これら四つの偏見を覆すのに十分であろう。 複雑さを増した現在のAVGの中には、数多くの演出技術と演出要素が、すでに欠かすことのできない重要な構成部分として取り込まれており、また総体的な(演出上の)様式選択それ自体が、個別作品の意味全体に深く関わっている。その中ではシナリオ技巧もゲーム性もアダルト要素も、利用可能な手段の一つではあっても、絶対的な優位を占めるものではない。そしてそれら自身も、AVGの他の様々な構成要素との相互関係の中で評価されるのでなければならない。結局のところ現代のAVGは、なんらかの特定の要素に依存せねばならないような脆弱な媒体ではなく、それどころか逆に、本稿が「演出」の名の下に紹介してきたとおり、AVGは自分自身の表現能力を、十分な幅広さと厚みと柔軟さをもって、しかもいまやAVGにとってごく普通の表現手段のセットとして、発達させてきているのである。 成人向けPCゲームの可能性について、過去には「この分野は、稚拙なデジタル紙芝居からいつまでも脱却できない、袋小路の表現分野なのではないか」といった類の悲観的展望が囁かれたこともあった(――現在でもその種の論調は時折見られる)。しかし、それらの予想に反して、AVGが無数の試行錯誤を経て開拓し到達しそして立脚しているこの地平は、そのような不毛の世界ではなかった。AVGが現在進みつつある方向性には、――永らく続いている社会情勢上の困難を別とすれば――深刻な行き詰まりの予兆はさしあたり見当たらない。そして、ここ十年来のAVGの発展を導いてきた最も重要な契機は、なによりもまず、AVG制作実践における演出意識の高まりであった。 |
【追記コメント】
最後の最後に『アトラク=ナクア』を持ってきたのは、私にしては珍しい(そして私にできる精一杯の)大見得。 実際、テキスト表示スタイルの使い分け、音響演出(激化していくアレンジ、延長と途絶)、場面転換の妙、章編成とアイキャッチ演出など、当時としては桁違いに先進的であり洗練されておりそしておそらくこの分野全体に対して決定的な影響があったものと想像される。
『アトラク=ナクア』終章への有名な移行によく似た演出を『SWAN SONG』が実行していたけど、瀬戸口氏は『アトラク』をプレイしていたのだろうか?
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