本節が紹介してきたとおり、AVGのあらゆる局面において無数の表現上の試行錯誤が行われてきている。これらの表現には、当該パートの制作担当者のアドホックな職人的技巧に強く依存するものもあれば、第1章で検討したいくつかのブランドのように組織的包括的な演出スタイルの下で成された設計の成果である場合もある。しかし、個々の演出をもたらした源泉がどこに遡るものでありそれを成り立たせている仕組みがどのようなメカニズムだと見做されるとしても、それらはAVG表現のあり方に対する制作者たちの意識的姿勢の産物であろうこと、そしてプレイヤーに対してもAVGの基本構造に対する再考を触発するであろうことに変わりはない。すなわち、立ち絵画像+背景画像+テキスト+音声+BGM+SEによって構成され、選択肢選択によって進行分岐していき、なんらかの(通常は複数の)エンディングに到達するという現在のAVGのモデル的形態(の可能性及び限界)に対する反省的意識である(註39)。
註39) AVGのこのような複合表現を成り立たせているのは、あるいはPCゲームの複合的表現に対する我々の理解の仕方は、諸要素のモンタージュ的組み立てであるとするのが最も妥当な説明であろう。『THE GOD OF DEATH』(Studio Mebius、2005年)のライターにしてNScripterエンジンの開発者でもある高橋直樹による、2006年の宣言的文章「エロゲ演出の重要性」(ならびにこれと関連する記事群:2005年6月3日、2005年8月6日、2005年9月4日、2007年9月15日、2008年1月1日)を参照。 それに対して、AVGの描写を何かの写実的再現だと見做すのは、私見では誤解であり、あるいは少なくともAVG表現の可能性を著しく狭める見方である。写実志向が強いように見える作品(例えばPurple softwareの作品)においても事情は本質的に異ならず、作品中に生起するあらゆる要素は記号的であることを免れていない(――そしてこの記号的性格は、AVGにおいて数多くの表現文法と豊かな共通言語と様々な演出技巧を生み出す母体となってきた)。AVGに含まれる各要素は常に、制作者が意図したその都度の特定の美的様式の下に、方向づけられ組み立てられている(乃至は、そのように見做される)。原画(絵柄と構図)、CG(着彩スタイル)、BGM(方向性と使い方)、テキスト(文体選択)、キャラクター(設定とデザインと物語中での位置づけ)、各種特殊効果、シナリオ(フラグ構造と場面分節)、インターフェイス、ゲームパート、といったあらゆる要素を組み合わせた意味連関の総体こそが、その作品の表現内容である。 そして、AVGの基礎的性質に関する如上の理解に立脚するかぎり、演出と表現一般とを区別することは本来不可能である。すなわち、「事実的対象としての表現内容」と「それに対する加工的装飾としての演出」といったような二分法的階層化は、AVG理解として妥当ではない。双方は、完全に同一のものではないにしても、少なくとも不可分のものであり、それゆえ本稿が取り組んでいる諸々の「演出技術」をすべて「表現技術」と読み替えても基本的には差し支えない(※――にもかかわらず本稿がAVG「演出」論を名乗っている理由は、一つには、AVG表現におけるこれらの特徴的な諸側面が現在のAVG受容において「演出」の名で通常呼び慣わされているからである。そして第二に、それら個々の演出技術[=表現技術]の存在のみが重要なのではなくて、個々の表現要素に対してそれらを作品全体の中でそのコンセプトに照らして組織化し方向づけする作用としての「演出」の次元もまた[あるいはその次元こそが]重視されるべきだと考えるからである。さらに第三に、これらの演出がただ単に結果的に立ち現れてきた自明当然の所産なのではなくて、ゲーム制作者たちの多かれ少なかれ意識的な労作[=演出努力]によるものだという点を強調したいからである)。 |
【追記コメント】
本文全体をリライト。
上記2006年9月14日付記事の中心部分は以下のとおり(※原文htmlに含まれるハイパーリンクは省略した。引用文中の太字強調、外部リンク、段落開始字下げは引用者による)。
「エロゲの演出技術は、ようやく映画でいうエイゼンシュテインのモンタージュ理論の段階に到達したように思う。『Fate/stay night』[cactus註:TYPE-MOON、2004年発売]が切り開き、『この青空に約束を』などが上手に踏襲しているスクリプト演出の流れだ。 これはエロゲ独特の映像文法でありメディアとしての積極的存在意義だ。もはやエロゲは小説の出来損ないでもアニメの出来損ないでも3Dプログラミングが出来ない奴の逃げ場でもない。エロゲでしか出来ない表現を俺たちは探求している。それは誇れるものだ。 2D画像のバイト列を直接いじくる前時代のプログラミングを恥じる必要はない。確かに技術自体は前時代的だし、この業界でしか需要のないものかもしれないが、それで実現されている演出効果自体は十分に新しいのだ。研究するにたるテーマだ。紙芝居は紙芝居だが、進化した紙芝居を舐めるなよ、と。 昔は、細かい手作業で作られた静止画にエンジンからαブレンド以外で動的に手を加えること自体が忌諱される傾向があった。ジャギるしね。しかし、ジャギ絵で止めるのは出来るだけ避けるべきだとしても、動的な二次元デジタルエフェクトには意義がある。そして、それを制御し映像表現をするスクリプト演出は、それ自体が立派に創作的な仕事だ。シナリオライターの仕事の単なる補助ではない。 画像の回転拡大縮小と、ルール画像を使ったトランジション(NScripterで言うとエフェクト18番)、加算ブレンドによる光線効果や効果音を組み合わせれば、一コマ一コマセル画で描いてたら大変な費用がかかるところを、絵をあまり増やさずに実に多彩な表現、たとえば、『ジャンプ』や『すばやくかわす』等を表現出来るのだ。アニメに出来ないことを俺たちはやっているのだ。 Windows95への移行に伴い一時的に業界のプログラミング技術が低下した現行エロゲ業界の黎明期に、文章を増やし絵を減らす初期ノベルゲームのスタイルが確立した。その結果、『文学主義』『(文学)作家主義』のようなものが生まれた時期もあった。しかし最近のエロゲの進化を見ていると、それはもう破綻していると俺は考える。我々は文学をやっているのではない。映像も音声も合わさって始めて成立する視聴覚芸術をやっているのだ。高度な映像音声表現が可能になり、特にボイスをつけることが一般化した辺りで、文章偏重スタイルを選ぶ必然性がなくなった。 では映像表現メディアとして考えた場合、あえてエロゲを選ぶ意義はあるのだろうか? その答えが、多分スクリプト演出技術なのだ。俺は『Fate』という作品の意義について、もちろん話も面白かったけど、スクリプト演出が一般に受け入れられる土壌を開拓した、という点に特に注目している。Fateがあれをやる前は、立ち絵を動かすなんてギャグでしかなかったからね」。 |
氏と私の間にはおそらく見解の相違も存在するだろうが、上記の観察及び評価は私にとって大筋で首肯できる。
ところで、個々の演出技術を呼称する際に、その実際の挙動に忠実な記述の仕方を目指すならば、その一つの方法としてゲームエンジン上で動作するスクリプトの記法を参照しまたはそれそのものによって呼称するということも考えられるだろう。ただし、本稿ではそのようなアプローチは採用しなかった。理由はいくつかあるが、本稿は実務書ではなく筆者は専門家(実作者)ではないこと、呼称が統一されているわけではないこと(代表例を一つ挙げて「吉里吉里では○○」「NScripterでいえば○○」といった説明はできるが)、そのような前提知識をできるかぎり要求しない論述を意図したこと、そして現象の分析に際しては当事者(ここでは実作者及びプログラム上の動態)に従わねばならないということは無いこと、がある。ただし、個々の表現技術の実行可能性/実行容易性や新規性を適切に評価しうるためには、そのような実態に関する知識も必要になるであろう。いずれにせよ、どのような視座での――どのような言語空間を通じての――記述を選択するかは、その都度の筆者の知識及び価値観そして執筆目的と関わるものだが、PCゲーム演出について思考する際にその基底的メカニズムとしてのプログラムの次元を常に意識し続けることが有益であることに疑いの余地は無い。
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