――キャラクターの視覚的表示方法をめぐって――
(はじめに)
http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-689.html
たいへん興味深い記事を拝見した。現代AVG表現の刺激的な側面に光を当てて、目端の行き届いた的確な洞察を提示している。
そういえばフェイスウィンドウ(顔窓)の働きについてはきちんと述べてこなかったが、おおまかにいえば「発話者表示の延長線上」と「カットイン表示の一形態」という二つの視点の間に収まる、あるいはその両極の振れ幅に直面することになるだろう。さしあたり簡単にまとめるなら、それぞれ「話者表示機能」と「存在表示機能」におおむね対応することになると考えているが、多様な実例に即して検討していくとなかなか一筋縄ではいかない論点であることが判る。以下、かなり散漫な(そして実証的検討を怠ったままの)書き方ながら、顔窓表現について私見を述べてみる。
――目次――
(はじめに) Ⅰ. 立ち絵シーンに関して Ⅰ-1. 話者表示に関して Ⅰ-1-a. 差分効率性テーゼの検討 Ⅰ-1-b. 発話者強調テーゼの検討 Ⅰ-1-c. 可読性配慮テーゼの検討 Ⅰ-2. 存在表示に関して Ⅰ-2-a. 立ち絵の代替 Ⅰ-2-b. 特殊な登場人物の表示 Ⅰ-2-c. 第三者の表示 Ⅰ-2-d. 不在者の表示 Ⅰ-2-e. 特殊なスタイル | Ⅱ. 一枚絵シーンに関して Ⅱ-1. 話者表示に関して Ⅱ-2. 存在表示に関して Ⅲ. 実例検討 (※別ページ1:1. 立ち絵と顔窓の関係について/2. 顔窓表現の様々な現れ/3. 顔窓表示の積極的意義/4. 顔窓表現の応用Ⅰ/5. Ⅱ/6. Ⅲ) (※別ページ2:7. 特殊な表現スタイルの下での立ち絵と顔窓/8. 発話者表示について) (結語) 補説:AVG形式における発話者表示について |
Ⅰ. 立ち絵シーンに関して
Ⅰ-1. 立ち絵シーン:話者表示に関して
まずは立ち絵シーンを基軸として発話者表示の一環としての顔窓使用について概観する。
発話者顔窓の歴史は、一般向けコンピュータゲームのかなり初期にまで遡り得ると思われる。当初はSLG作品におけるキャラクター表示手段としての使用例が支配的であったと想像される。国内アダルトゲームにおいては、例えばF&C作品における戯画的な顔窓表現、studio e.go!などのSLG作品、そしてSLGの気風を当初から色濃く反映していたLiar-soft作品(『行殺☆新選組』、2000年)などがある。しかし、読み物AVGにおいても、立ち絵と顔窓を併用するスタイルが次第に現れてきた。早期の例では、例えば『ねがぽじ』(Active、2001年)、『バイナリィ・ポット』(AUGUST、2002年)など。AUGUSTはブランド最初期から一貫して顔窓を使用している。やや特殊な形態として『とびでばいん』(abogadopowers、2001年)、また上記リンク先記事によれば『魔法少女アイ2』(colors、2002年)もこれを実行している。
上記記事は「近年、再びフェイスウィンドウを使用する作品が増えてきています」と述べており、この観察はそれなりの妥当性があると思われる。筆者の知るかぎりでは、2005年までは顔窓を用いたAVG作品はほとんど存在しないが、2006年には『とり×とり』(すみっこソフト)、『この青空に約束を―』(戯画)、『彼女たちの流儀』(130cm)、『ゆんちゅ』(xuse)、2007年には『プリミティブ リンク』(Purple software)、2008年には『オト☆プリ』(しゃくなげ)、『水平線まで何マイル?』(ABHAR)、『プリンセスラバー!』(Ricotta)、『ファンタジカル』(UNiSONSHIFT)、『祝福のカンパネラ』(ういんどみる)、2009年には『りんかねーしょん☆新撰組っ!』(りぷる)、『大阪CRISIS』(つるみく)、2010年には『かしましコミュニケーション』(AXL)、『初恋サクラメント』(Purple software、※ただしコンフィグ選択式)、『こんそめ!』(Silverbullet)などが、メッセージウィンドウの脇に顔窓を表示するスタイルを採っている。ただし、同一ブランド内でも顔窓を使用しているタイトルと使用していないタイトルが混在しており、今のところ、ブランド毎の一貫した姿勢や分野全体の趨勢などはほとんど見出されない。
キャラクター科白に付随する形態での顔窓使用には、暫定的に3つほどの機能が考えられる。
a)表情差分の追加:全身立ち絵の差分に比べて効率的に差分増加できる効用。
b)発話者の強調:メッセージウィンドウ及び発話者表示を視覚的に補強する効果。
c)可読性配慮:テキスト表示位置にキャラクター顔面画像が近接するメリット。
上記記事との関係でいえば、本稿の論点a)は上記記事にいう役割(1)におおむね対応し、論点b)は(2)及び(4)に、論点c)は(3)に対応することになるだろう。以下、それぞれの論点について検討を行う。
Ⅰ-1-a. 差分効率性テーゼの検討
キャラクターの身振りや表情の変化をすべて立ち絵画像の差分変化で表現する代わりにそれらを顔窓部分に委ねてしまえば画像素材制作上の節約になるという発想及び実践は、たしかに存在する、あるいは、存在した。ただしそれは、DVDメディアがいまだ普及していなかった2000年頃の問題意識としては、制作コストという経済的観点よりもむしろゲームデータのサイズ削減に眼目があったように思われる。実際、顔面部分を差分変化させていく場合には、それ以外のパーツはそのまま流用できるので、表情差分を増加させても画像制作のコストが跳ね上がるわけではないだろう。立ち絵表示を制御するだけでなく顔窓表示をも制御しなければならなくなるという点では、スクリプトの手間(とコスト)はかえって増大している。また他方で、全身のポーズ変化を表現しようとする際には、もちろん顔窓変化だけで賄うことはできない。効果があると思われるのは、脇役などの重要度の低い登場人物については立ち絵画像を制作せず顔窓画像のみで処理する手法である(――例えば『巫女さん細腕繁盛記』[すたじお緑茶、2004年]、『おたく☆まっしぐら』[銀時計、2006年]など)。
この時代の制作様式をよく反映していると思われるのが、F&C――とりわけ『Piaキャロットへようこそ!!2』(カクテルソフト、1997年)の頃――の画像使用である。F&Cや戯画では全身立ち絵の画像素材にその都度表情差分画像を重ねて表示することによって表情変化表現を実行していた(――福笑いを想像してもらえばよい。顔面無地の立ち絵素材の上に、目鼻部分のみを切り出した画像を乗せる形態である)。また、現代風の「立ち絵+背景」型AVGのスタイルが確立されておらずSLGの様式感が支配的であった時代の気風を窺わせる実例として、alicesoftのそれが挙げられるだろう。「立ち絵」が(ageや緑茶のような写実志向的利用形態ではなく)あくまで静止画としてイメージイラスト的な佇まいのうちにそのキャラクターの「像」及び存在を示しつつ、表情変化などは顔窓によって適宜補完されていく。こうしたスタイルにおいては、顔窓表現は状況を忠実に描写するためというよりもむしろ、SDカットインなどと同様の「賑やかし」のためのメカニズムであったのかもしれない(――上記記事ではAVG形式における顔窓を「デザイン的にフェイスウィンドウを挿入し」ているのかもしれないと述べているが、そのアプローチはおそらく歴史的にはSLGにおいて先取りされていた)。同様のことは初期Liar-softの遊戯的な顔窓使用にも見出される。『ねがぽじ』の例も、こうした過渡期的状況を踏まえて捉えることもできるだろう。
なお、立ち絵を一切使用しないAVGの試みも存在するが、それらがコスト節約に寄与しているかどうか、あるいはコスト節約のための仕様であるかどうかはいささか疑わしい。例えば『行殺☆新選組』では立ち絵ではなく顔窓によってキャラクターが表示される[参考リンク: http://www.liar.co.jp/gyo_pal.html / http://www.liar.co.jp/gyo_yam.html ]が、それらの小窓は画面内の様々な位置に出没しては活発な拡縮移動運動を繰り返しており、結果的にかなり手間の掛かった作りになっている。また、『SWAN SONG』(Le. Chocolat、2006年)は通常の意味での立ち絵(全身またはバストアップの正面画像)を用いておらず、人物表示は基本的にカットイン(と見做されるであろう形状のもの)で賄われている。ここではたしかに画像素材制作の節約が果たされているが、それと同時に、登場人物たちが画面上に無防備に姿を現すことが無いという事実からプレイヤーはその見通しの利かなさ状況に息苦しさを味わわされる。
結局のところ、アダルトゲーム分野における顔窓の当初の使用は、データサイズ節約の目的とSLGからの様式的影響の双方によって規定されていたのではないかと思われる。しかしながら、これらの事情にもかかわらず、また近年では立ち絵の品質重視の傾向すら現れているにもかかわらず、その後のアダルトゲーム分野はこの「顔窓」の発想それ自体を様々なかたちで応用していくことになるが。
Ⅰ-1-b. 発話者強調テーゼの検討
発話者を文字表示するだけでなくそこに顔窓も追加することによって発話者識別が補強されるということはあるだろうか。画面内に立ち絵が1個(1人)しか表示されないオールドファッションなAVGにおいては発話者表示に対する顔窓追加はほとんど意味をなさない(それはいわばSLGの盲腸に過ぎまい)であろうが、しかし現代のAVG表現空間においては発話者識別のために一定の意義があると考えることができる。とりわけ、多人数の会話劇に強く志向しかつ画面内に複数の立ち絵が同時表示される近年の純愛系AVG作品にあっては、プレイヤー(読み手)があらかじめ各登場人物のアイデンティティを記憶していなければ、ただ名前が表示されるだけでは発話者をキャラクター画像と結びつけて識別することに失敗する可能性があるからである。実際には、プレイヤーが登場人物を一人一人把握していけるように脚本構成されているものだ(だから時として冗長だと批判される序盤進行にもきちんと意味がある)し、そうでなくとも公式サイト等でキャラクターの名前と画像と声をあらかじめ一致させておくこと――これは一種の「リテラシー」だ――がプレイヤーに期待されているかもしれないが、それでもなお顔窓に安全装置としての役割を見出す見解には一定の説得力がある。
ただし、多様化し緻密化している現代AVGの広がりの中で、こうした顔窓追加は必ずしも肯定的に見られない場合がある。例えば、映画字幕志向型の画面造形――age、minori、Tarteなどに代表され、ワイド画面採用、無地メッセージウィンドウへの嗜好、テキストセンタリング等によって特徴づけられるスタイル――の下では、顔窓はメイン画面への集中を妨げる夾雑物として否定的に見られるであろう。また、デザイン重視の画面レイアウト設計(典型的にはUNiSONSHIFTやlight)に際しても、顔窓採用の効用は両義的である。さらに、フキダシ型メッセージウィンドウにおいても、顔窓は忌避されるであろう(――とはいえ、『Quartett!』[Littlewitch、2004年]では発話者識別のためにフキダシに顔窓が添えられる箇所があるし、また『幼なじみとの暮らし方』[ハイクオソフト、2006年]もフキダシの側面に人物顔窓を付加している。『水スペ』[Liar-soft、2009年]も、[擬似]フキダシ型の複数化されたメッセージウィンドウにそれぞれ顔窓を添えている)。また、先にも述べたように、プレイヤー(読み手)に発話者を識別させる視覚的技術手段は顔窓以外にもいくつか存在する[参考リンク: http://irimadonna2.blog105.fc2.com/blog-entry-309.html / http://d.hatena.ne.jp/mp_f_pp/20110204/1296791431 ]。
このような発話者識別の機能を拡張していくとき、顔窓はその都度の科白との一対一対応という制約を離れて、登場人物の存在表示の機能をも果たすようになっていく(――詳しくは後述する)。いみじくも上記記事が引用している『Hyper→Highspeed→Genius』(ういんどみる、2011年)の画像では、正面に立っている二人のキャラクターのどちらでもない第三のキャラクターによる科白が、その顔窓を伴って表示されている。
Ⅰ-1-c. 可読性配慮テーゼの検討
第三に、テキスト表示位置に隣接した顔窓上に表情パーツを表示しておけばプレイヤー(読み手)は意識と視線をメッセージウィンドウに集中させつつAVGを読み進めることができるのだという見解が時折提示されている。私見では、画像利用による発話者識別補助作用に関しても、視野限定によるプレイ速度向上作用に関しても、その所見は疑わしいように思われる――それが妥当するとしてもごく限られたいくつかのタイプの作品のみであろう――が、しかしそうした設計及び受容が思考されることはあり得るだろう。
それでは、そうした想定に合致するためには、顔窓使用は具体的にどのような形態になる筈であるか、そして実際に様々な作品における顔窓使用はどのような形態になっているか。立ち絵の差分変化と顔窓上の差分変化との関係についてどのような形態の顔窓表現が採用されるかは一様ではなく、いくつかの立場を想定することができる。すなわち:
α)立ち絵よりも顔窓上の表現の方を充実させているならば、視線集中の観点をも重視しつつ、基本的には顔窓によるアドホックな差分補強機能が目指されているであろう。
β)立ち絵と顔窓の双方を正確に一致させている場合は、視線集中されても構わないように、つまり立ち絵と顔窓の間で落差が生じないように、演出上の整合性が意図されていると考えられる。
γ)立ち絵変化と比べて顔窓の差分変化は簡素なままであるならば、もっぱら発話者識別と可読性のための顔窓使用であると考えられる。
先に述べたように、初期(2000年頃)の作品では(α)のバランスを採っている例が比較的多く見出される(『ねがぽじ』、『空色の風琴』[THE LOTUS、2004年]など)。他方で近年の作品では、(β)の形態が多数を占めるようになっている(『THE GOD OF DEATH』[Studio mebius、2005年]、『この青空に~』、『ファンタジカル』、『プリンセスラバー!』、『とり×とり』、『こんそめ!』等々、実例は多数に及ぶ)。なかでも、その最も徹底的な形態として、『秋色謳華』(Purple software、2005年)及び『シュガーコートフリークス』(Littlewitch、2010年)においては顔窓にも立ち絵と同じ様々なエフェクト表示(落胆の波線、光る歯、喜びの光輝など)が施されている。他方で(γ)のスタイルは、実例は比較的少ない(例:『大阪CRISIS』)が、ただしバックログ画面上の発話者表示に際してはこのような形態になっている――すなわち話者表示のバックログ顔窓画像はキャラクター毎に一種類だけで済まされている――作品がいくつも存在する(ブランド単位でいえばFAVORITE、ぱれっと、Eushullyなど)。
ただし、これらのタイトルの多くは「読み物」的方向性に特化しているわけではなく、むしろコメディ作品にも豊かな顔窓演出の実例が多数見出される。個別作品のトータルデザインの観察に鑑みて、顔窓表示が可読性を促進するのに寄与しているということはあまり無さそうに思われるし、また制作者サイドの認識においても可読性促進機能のために顔窓形態を採用しているメーカーは少ないのではないかと思われる。スクリプトによる立ち絵振り付け演出が充実してきた現代AVGにあってはなおさら、立ち絵を――そしてもちろん画面全体を――常に見続けるだけの余裕と意味と必要があり、その画面レイアウトの中で顔窓が占める役割はおそらく視線限定作用ではなく、あえてその側面があるとしてもそれは複雑な視覚的進行にプレイヤーを馴染ませるための手掛かりであると見做す方が実態に即しているだろう。
なお、顔窓使用が一時的に差し控えられる場合もある。とりわけアダルトシーンにおいて、画面レイアウト全体を変更するとともに顔窓使用を中断するというスタイルは、美的理由と合目的性の双方から肯定される(――その一例として『彼女たちの流儀』)。
Ⅰ-2. 立ち絵シーン:存在表示に関して
顔窓使用は、そのキャラクターの科白がある場面のみではない。むしろ多人数の登場人物の間での会話劇に大きなウェイトが置かれる現代のAVG表現の中では、一つの場面に三人、四人、あるいはそれ以上のキャラクターを同時に存在させて彼等がそこに居合わせていることを表現するために、しばしば顔窓形態での画像表示が行われている。また、場所移動選択画面などでそれぞれの場所にいるキャラクターを表示するためにキャラクターアイコンを用いる手法も、『とらいあんぐるハート』(JANIS、1998年)以来よく知られている。
存在表示のための顔窓利用は、当該人物の科白に相伴われて現れる場合には上述の発話者表示の延長上に理解することができるし、それ以外の場合には往々にして「カットイン」の一形態として捉えることができるが、いずれにせよその用いられ方はその形状においてもその機能においても様々である。
Ⅰ-2-a. 立ち絵の代替
存在表示的顔窓の代表的なものは、立ち絵代替機能である。脇役、動物、小道具類を顔窓形態で表示する作法はすでに広く普及している。先に述べた『巫女さん細腕繁盛記』以降のすたじお緑茶は、この手法を頻繁にそして活発に用いている。
立ち絵形式で表示することが(一応)可能であるにもかかわらず顔窓表示形式を採用する事情には、様々なものがある:
α)全身立ち絵ではなく顔窓画像のみで済ませることによる制作コストの節約。
β)動的演出のため。多くの場合正方形に規格化された顔窓がその形状の統一性及びサイズの柔軟性からして様々な動的演出(移動、拡縮、回転etc.)を施すのにも適していることは、緑茶作品のみならず『行殺☆新選組』や『らぶKiss!アンカー』(ミルククラウン、2007年)によっても確認することができる。
γ)ゲーム画面の狭隘さのため、多数のキャラクターを同時に表示するために顔窓表示を(部分的に)採用する。とりわけ、ワイド画面が採用されていなかった時代のすたじお緑茶作品(~2006年)に、この手法が見出される。
δ)通常の立ち絵画像では背景画像とのすり合わせが困難である場合。例えば遠景俯瞰の背景画像上でキャラクターたちが走り回っている状況を視覚的に表現する場合、立ち絵をそこに重ねると立ち絵が「浮いて」しまうが、顔窓による簡易的抽象的表示であればそうしたギャップを意識させずに済む。SLG寄りの発想と言えるだろう。この他にも、キャラクターの縮小表示(ロングショット時など)のために立ち絵縮小表示の代わりに顔窓表示を行うこともある。
ε)SD化などの極端に戯画的な表情を見せようとする場合には、立ち絵画像をそのまま崩してみせるよりも顔窓上でのみ表情変化を行う方が、表現の自由度においても、プレイヤーの心理的受け入れやすさにおいても、コメディらしさを強調するうえでも、有効である。
Ⅰ-2-b. 特殊な登場人物の表示
通常の形状の立ち絵では表現することができないキャラクター、あるいは立ち絵表示に適さないキャラクターを視覚表示する際にも、顔窓は有効利用される。例えば巨躯のキャラクター(ロボット、触手など)や極端に小柄なキャラクターなどをそのサイズの如何を捨象して柔軟に表現する共通了解的手段として、顔窓が用いられる。さらに、主人公を――なかんずく主観視点な画面構成に強く志向する純愛系AVG作品において――視覚的に表示しようとする場合にも、顔窓は大いに役立つ(――ゲーム開始冒頭のわずかな瞬間とイベントCG場面[とりわけアダルトシーンのそれ]を別とすれば、純愛系作品に限らず、また特定の主観視点を定めない三人称テキストの作品においても、現在のAVGで主人公キャラクターの立ち絵が画面内に登場することはかなり稀な現象である。『ねがぽじ』、『輪罠』[Guilty、2005年]、『DUNGEON CRUSADERZ』[アトリエかぐや、2006年]、『マジカライド』[すたじお緑茶、2008年]、『BUNNYBLACK』[ソフトハウスキャラ、2010年]といったいくつかの作品では主人公の立ち絵が表示されることはあるものの)。主人公を顔窓表示することのメリットは、SLG要素を含む作品と並んでとりわけ女性主人公、女装主人公、ショタ主人公のタイトルにおいて絶大である(――『ねがぽじ』、『ひめしょ!』[XANADU、2005年]、『彼女たちの流儀』、『オト☆プリ』など)。風変わりなタイプとしては、『群青の空を越えて』(light、2005年)では、テキストボックスの右上に小さなバストアップ画像が表示され、その都度の視点人物を表している。
同様に、立ち絵を追加的に表示することが困難乃至不適当である状況においても、顔窓ならば許容され得るという場合がある。大別すれば、α)あまりにも多数の登場人物がそこに居合わせている場合と、β)一枚絵シーン(※後述)、の二つがこれに当たる。前者の例としては、『はるはろ!』体験版(propeller、2006年公開)、『片恋いの月』(2007年)以降の緑茶作品などが挙げられる。
Ⅰ-2-c. 第三者の表示
単純な立ち絵との置き換えではなく、立ち絵表示されているキャラクター以外の第三の登場人物を画面内に表示するためにも、顔窓が使用されることがある。とりわけ、そうした第三者の科白に際して、この機能が活用される。
立ち絵ではなく顔窓で表示する理由は、画面の狭隘さという消極的理由ばかりではない。むしろ、その場面において重要なキャラクターとそうでないキャラクターとの間で主/従の重み付けを行うという積極的意義を示している場合もある。すなわち、その場面の中心人物は立ち絵形式で中央に表示し、そうでないキャラクターは顔窓のみで簡易的に表示することによって、中心人物のみを適切に強調することができる。ただし、さらに、興味深いことに、顔窓表示は「重みを減らす」作用だけではなく「強調する」作用を担う場合もある。例えば、脇からのツッコミを入れるキャラクター(の科白)の場合には立ち絵を出すよりも顔窓で見せる方がその位置付けが明瞭になるのは、ツッコミ発言をするキャラクターが重要でないからではなく、顔窓挿入という動きによってその存在が一時的局所的に際立たせられるからである(――カットイン類似のクローズアップ効果が生じる。例えば『ましろ色シンフォニー』[ぱれっと、2009年])。
第三者表示機能は、発話者表示と同時に用いられることもある。つまり、通常のテキスト進行では発話者欄が使用されないが、画面外からの声(例えば戸外からの声、あるいは一枚絵に映っていない人物の発言など)に際しては発話者欄に顔窓が表示されるというものである。一例として『翠の海』(Cabbit、2011年)。
Ⅰ-2-d. 不在者の表示
さらに、「この場にはいないキャラクター」の存在を表現する際にも、(立ち絵を用いるよりも)顔窓によってそのキャラクターを視覚表示することがある。典型的なのは、電話等による外部からの通信者(との会話)を表現する場面である。『蒼海の皇女たち』シリーズ(anastasia、2008年/2009年)や『マブラヴ オルタネイティヴ』(age、2006年)にその実例を見ることができる。ここでは存在表示、不在表示、発話者表示の三者が複合的に顔窓表示の文法的意味を形成しており、またこの顔窓使用はカットインにほぼ等しいものとなっている。その場にいない言及対象を思い浮かべる場面でも、その言及対象の顔窓をポップアップさせることがある(例えば『Quartett!』。漫画的な使い方と言える)。
Ⅰ-2-e. 特殊なスタイル
特殊な表現スタイルの下にある作品。
α)『白詰草話』(Littlewitch、2002年)、『銀の蛇 黒の月』(Project-μ、2003年)のように、精緻なカットイン組み立てによって画面構成及び進行表現を行っている作品では、通常の意味での立ち絵はもはや用いられない。個々の登場人物を表すそれぞれのカットインの「齣」には、部分的には顔窓として捉えられるものもある。
β)そもそも画像による存在表示は「立ち絵」「顔窓」の二形態に限定されるものではない。例えば『Forest』(Liar-soft、2004年)においては、登場人物を表すキャラクター画像は背景画像とのすり合わせを考慮することなくしばしば全身画像のかたちで画面上に放り出されている。これは、SLG作品におけるキャラクター表示の抽象性及び機能性に匹敵する、AVG形式における抽象的かつ象徴的なキャラクター表示の徹底的なスタイルである(――同様の自由さは、Liar-softの他の作品の中にも瞥見される。例えば『漆黒のシャルノス』[2008年]では、同一キャラクターについて、抽象的な全身表示と表情表示のためのバストアップの二つを同時に表示するという一見奇妙な画面構成が生じる)。『days innocent』(inspire、1999年)における極端に切り詰められた話者表示も、この関連で言及されるべきだろう。
γ)またあるいは、顔窓とカットインの双方を兼ね備え、さらにそれを超える新たな役割を担わせていく高度な視覚的組織化のアプローチも現れている。『あまつみそらに!』(Clochette、2010年)においては、正面(と見做される方向)以外のキャラクターの科白に際してはしばしば、立ち絵と背景画像を組み合わせた大柄な(画面の三分の一を占めるほどの)カットインが挿入される。ここでは、存在表示、発話者表示と併せてさらに、その場の空間表現と主人公の視界表現までもが、カットインによって表現されている。
δ)特殊な(そして実例のきわめて少ない)使用形態として、立ち絵あるいはイベントCGと顔窓画像との二重表現がカメラワークの代替となる場合がある。例えば、イベントCGでは顔を背けているキャラクターの表情を、顔窓上で表示してプレイヤーに認識できるようにする、というもの。これもカットインに類するものと位置づけることができるだろう。
Ⅱ. 一枚絵シーンに関して
一枚絵(全画面イベントCG)シーンに際しての顔窓利用の実例及び効果については、もはや贅言を要すまい。
Ⅱ-1. 話者表示に関して
話者表示について。複数のキャラクターが描き込まれている一枚絵では、それらが既知のキャラクターでないかぎり、個々の科白について話者識別の困難が生じうる。それゆえ、メッセージウィンドウに顔窓を添えるならば可読性に寄与するだろう。しかし、顔窓が一枚絵を遮蔽することが忌避されるためか、このようなスタイルは基本的に採用されていない。話者識別のためには、それ以外の手段が採られるのが通例である。一つには、差分変化によって個々の人物画像部分を消したり出したりするもの(実例多数)。もう一つは、あまり用いられない手法であるが、一枚絵の中でパンニングやズーミングのカメラワーク的操作を行ってその都度の話者を強調する演出手法も存在する(――例えば『秋色謳華』、『だめがね』[10mile、2009年])。
Ⅱ-2. 存在表示に関して
存在表示について。一枚絵で描かれていないキャラクター(あるいは第三者キャラクター)の出現及び科白を簡易的にコントロールする手段として、一枚絵に顔窓を重ねて表示する場合がある。カットイン類似の抽象的機能的な存在表示であり、こちらもとりわけすたじお緑茶が精力的に挑戦し続けている。ただし、このようにキャラクターを一枚絵の中に描かず顔窓でそこに重ねる手法を採るブランドはきわめて少ない(――そもそも、そこに登場してくるキャラクターがいるなら、初めから一枚絵の中に描き込んでおくようにするのが普通だろう)。また、顔窓ではなく立ち絵を一枚絵に重ねる作品も存在する(――例えば『えむぴぃ』[ぱれっと、2007年]、ただし戯画的なシーンにおいて)。
(結語)
キャラクターを示す小さな画像である「顔窓(フェイスウィンドウ)」は、発話者表示とカットインの二つの出自を持ちつつ、AVGの制作実践の中で様々な応用が試みられ、そして近年では発話者表示と存在表示を融合させた新たなスタイルをすら生み出している。なかでも、SLGの伝統に棹さしたLiar-softの顔窓演出、顔窓を超えた緻密で複雑な画像組み立てを実現したLittlewitchのFFD表現、そして力強くもよく整理されたカットイン組み立てスタイルを提示したClochetteのAVG画面構成は、際立った成果である。現代のAVG表現スタイルとしては、一つには活発な立ち絵振り付け演出とフキダシ型テキスト表示を組み合わせた緑茶-light型の方向性が開拓されつつあるが、それと並んで(顔窓型の)カットインを活用するスタイルにも刺激的な現代的意義と、そして将来有望な可能性の豊かさが見出される。
【 補説:AVG形式における発話者表示について 】
現代日本のコンピュータAVGでは、登場人物の科白をテキスト表示する際に、それと同時にその傍らで発話者もテキスト表示するのが通例である。メッセージウィンドウの傍らに発話者表示ボックスを別途設ける場合もあれば、単一のメッセージウィンドウ内部で(改行等によって)発話者を併記する場合もあるが、いずれにせよ、その都度の発話者が文字情報として明記される。音声出力すら無かった時代であれば、その都度のテキストがどの登場人物の科白であるかが判別しにくくなるために発話者が明記されるといった事情があったのかもしれないが、音声出力のみならずキャラクター別フォントカラー指定や立ち絵振り付けといった様々な技術的対処が充実してきた現代においても発話者表示の強固な慣行は変わっていない。
管見の限りでは、発話者表示を伴わないAVG作品は、それぞれ特別の表現スタイル上の理由のある場合のみに限られている。すなわち:
1)発話者に応じてテキスト表示位置が変化する、フキダシ型テキスト表示を行う作品。例:『白詰草話』、『プリンセス小夜曲』(すたじお緑茶、2005年)、『タペストリー』(light、2009年)、『幼なじみは大統領』(ALcot、2009年)、『初恋サクラメント』など。発話者の傍らにテキストが表示されるため発話者が視覚的に識別可能であるという合理的理由、そして漫画相当のフキダシ表示においては発話者表示が野暮ったく見えるという美的理由があると思われる。ただし、『FESTA!!』(Lass、2005年)のように、(擬似)フキダシ表示であっても発話者表示が伴われている作品も存在する。
2)ヴィジュアルノヴェル、つまり全画面テキスト形式の作品。例:『想い出の彼方』(PL+US、2000年)、『めぐり、ひとひら。』(キャラメルBOX、2003年)、『ToHeart2 XRATED』(Leaf、2005年)など。こちらは、小説相当の読ませ方に傾斜するためか、発話者が併記されることは無い。類似の形態として、『銀の蛇 黒の月』や『Clover Heart's』(ALcot、2003年)のように比較的自由にテキスト表示位置を動かす作品――どちらも発話者表示は無い――もあり、これは上記1)と2)の混合的形態と捉えることができる。『ONE2』(BaseSon、2002年)や『屍姫と羊と嗤う月』(Baseson、2003年)にも発話者表示が無いが、これらは画面下半分を使って数行のテキストが(つまり地の文と台詞が数クリック分混じり合って)表示される形態であり、ヴィジュアルノヴェルの範疇で捉えることができる。ただし、全画面テキスト表示スタイルの作品でも発話者表示を伴う作品も――とりわけ縦書きと横書きをユーザーが選択できる仕様の作品においては――少なくない。
3)その他、特殊な表現形態をもつ作品。例:SLGパート上の科白表示(とりわけ戦闘時テキストや幕間イベントなど。『days innocent』の俯瞰アプローチのような例も含む)。テキスト表示そのものを行わないドラマティックモードに際しても、もちろん発話者の文字表示は行われない。映画字幕風のレイアウトを志向する場合も、その忠実な再現を目指す場合には話者表示を撤廃することになるだろう(例:『誰彼』[Leaf、2001年]、『朱』[ねこねこソフト、2003年])。
これ以外の作品では、発話者表示の無いAVG作品は基本的に存在しない。『KANON』(Key、1999年)や『ちょこっと☆ばんぱいあ!』(Meteor、2006年)のように画面内に立ち絵が1個しか表示されない(それゆえその都度の発話者が明瞭である)作品も、『霞外籠逗留記』(raiLsoft、2008年)や『アトリの空 真鍮の月』(TOPCAT、2009年)のように縦書きテキスト表示を採用する作品においても、『マブラヴ オルタネイティヴ』のように視覚演出を突き詰めつつ字幕志向のテキスト表示を行う作品においてすら、発話者表示は存在する。
ただし、可読性という観点のみで考えれば、発話者が表示されなければならないということは無い。『誰彼』の実例が示すとおり、発話者表示が無くてもプレイヤー(読み手)が混乱することは生じないだろう。むしろ、科白と登場人物との個別的対応を識別困難にするのは、何人ものキャラクターが描き込まれた一枚絵シーンである。
――――――――――――――――
追記メモ。
検索語「"フェイスウィンドウ"」でggl検索してみたかぎりでは、以下のタイトルにもフェイスウィンドウ表現が使用されているらしい(――筆者が知っているものもあるが、多くは伝聞情報につき注意。個別に確認を要する)。
1993:Night walker 真夜中の探偵
1995:デュアルソウル/恋姫(DOS版?)
2000:Message/シンクロナイズドリーム/Parallel Harmony/Lien
2001:このはちゃれんじ!/フーリガン
2002:Floraliaシリーズ/ぼくらがここにいるふしぎ。/神無ノ鳥(BL)/学園の狩猟者/サイキッカー美々/Princess Holiday
2003:月は東に日は西に/我家に魔女がやって来た!/セイレムの魔女たち/サンダークラップス!/PIZZICATO POLKA/Night Demon(ナイトデーモン)
2004:魔将の贄/らくえん/ホワイトブレス/ままらぶ/夏ノ空
2005:注射器2/ぎゃくたま2/夜明け前より瑠璃色な/確かにキミはココにいた/ウソツキは天使のはじまり/魔法少女沙枝シリーズ
2006:まいんど☆ぱぺっと
2008:残暑お見舞い申し上げます/昇龍戦姫 天夢/ステルラエクエス シリーズ
2009:真剣で私に恋しなさい!!/あい☆きゃん/満淫電車2
2011:Strawberry Nauts/触祭の都/電脳侵犯・キサラギ参事官/よめはぴ/12+/手毬花/晴れときどきお天気雨/もろびとこぞりて
コメント欄でははじめまして。udkです。
返信削除フェイスウィンドウの機能についての覚書、読ませていただきました。私の大雑把な記事が機能毎に分類され、また具体的な作品例を伴う検証によって論拠がより確かなものとなっており、フェイスウィンドウの機能に関する考察がより整備されていると思います。
以下、気になった点をいくつか述べさせていただきます。
>I-1-a. 差分効率性テーゼの検討
個人的に興味深かったのは、シミュレーション系のゲームの様式が変わりアドベンチャー系のゲーム生み出されたというところです。
90年代のPCアダルトゲームの変遷を肌で感じていない身としてはとても参考になります。
私はアドベンチャーゲームのウインドウ構成(キャラクター絵とテキストウインドウ)が他形式(シミュレーション等)のゲームの影響を受けてフェイスウィンドウが追加された流れだと認識していたのですが、シミュレーションゲームからの発展系としてのフェイスウィンドウ実装アドベンチャーゲームという流れがあるんですね。もっと言えば、PCアダルトゲームが独自に発展していったというよりもコンシューマゲームからの影響を受けて、技術的向上とともに徐々に変化していったのだと考えていたものでして……。認識を改められました。
>2000年頃の問題意識としては、制作コストという経済的観点よりもむしろゲームデータのサイズ削減に眼目があったように思われる。
それはともかくとしてコストの意味でのフェイスウィンドウはあると思います。
エロゲにおける立ち絵と顔と身体 -モルガン・ル・フェイク-
http://d.hatena.ne.jp/n_nisin/20100718/1279389560
他記事からの引用になりますが、引用記事の後半でされているフェイスウィンドウの考察について。引用記事では立ち絵の差分は重要でないという風に記述されていますが、
>>立ち絵の種類=ポーズも(服装差分除けば)2種類くらいしかない
というのはコスト的制限があったからなのではないかと。立ち絵差分を用意できるなら作るはずです。「いつも不敵な笑み」はさすがにちょっと……となるので。
2000年前後に限ったものではないですが、こうした例もあるということで。
2000年前後の問題意識としてのデータサイズの削減というのは確かにあったと思います。ですが、データサイズで問題になっていたのはグラフィックのそれよりも音楽データの大容量化による方が強いのではないでしょうか?CD音源レベルでのBGMと膨大な量の音声データ、2000年前後からメディアのDVDへの移行はこれらがデータサイズの上で問題になっていたように思えます。確かに、グラフィックデータもそれなりのサイズではありますが、CD-ROMの時代でそこがネックになっていたとは考えにくいです。
>SDカットインなどと同様の「賑やかし」のためのメカニズムであったのかもしれない
よくよく考えれば、立ち絵ではなく、フェイスウィンドウではないと表現できないものもありますね。最近の作品でSD絵を使った一枚絵をよく見ますが、あのデフォルメ絵を立ち絵で表現しようと思ったら難しそうです。ですがフェイスウィンドウなら枠内だけの変化で良いのでデフォルメ絵も表現しやすいのではないでしょうか。コメディ系の演出として有効に活用できそうです。
先の引用記事でもコミカルな表情を作れると言っているように。
>立ち絵を一切使用しないAVG
『行殺☆新選組』のようにフェイスウィンドウだけで構成されている作品なら表現手段が限られているので、様々なフェイスウィンドウの活用方法が出てきてそうですね。
それにしても活用例を逐一示してもらっているおかげで、あれもや見てみたいこれも見てみたいとなってしまって……。またやりたいゲームが増えていってしまう……。
たいへん真摯で示唆的なコメント、ありがとうございます。
削除udkさんが提起された議論の後追い(コピー)になってしまわないようにと、問題設定を少し変えて整理してみたのですが、udkさんの元々の議論に対する応答としては不十分なものになってしまったかもしれません。おそれいる次第です。
1. SLGとAVGについて。
私自身、昔の状況はよく知らないのですが、サウンドノベル/ヴィジュアルノヴェルが成立するより前の「アドヴェンチャーゲーム」形式は、そういうものだったんじゃないかと思います。現在のような意味での「立ち絵」の成立もゲーム史全体の中で見ればかなり後発的な現象なのでしょうし、また「AVG/SLG」(あるいは読み物AVGスタイルと、そうでないゲーム要素のあるスタイル)の二分法的な見方をするのはアダルトゲームに特有のものであって一般性のある分類ではないということも、注意していなければいけないのだろうと思います。いずれにせよ、顔窓アイデアの直接のきっかけが何であったかはともかく、今世紀のPCアダルトAVGの様々な演出的使用が、すでに他からの影響を脱して十分に自律的な発展を遂げているということは確かでしょう。
2. 制作コストについて。
「コスト」にまつわる話をする時にややこしいのは、いくつもの局面に関わる多義的な言葉であることですね。脇役を含めたキャラクター配置の決定(進行管理やキャスティングに広く影響する)、キャラデザのために掛かる手間、画像素材制作(原画&着彩)、スクリプトによる組み込み作業(これもかなり労力を要する)、ディスクメディア収録容量とそれに掛かる(枚数分の)コスト、ユーザー側でのインストール容量の負担への配慮、etc.。実際、顔窓がコスト削減に役立ちうるということ自体は確かにあると思います。特に、ポーズ差分を増やしたり特殊な表情差分を追加したりする場合には、『Trample on "Shatten!!"』の例のように思い切って顔窓差分変化に注力するのは十分アリでしょうね(――ただし、この『ToS』はけっして特別な例外ではないと思いますし、立ち絵の記号性を「運動」の観点から説明するのも説得力を欠き、さらに立ち絵の角度からキャラクターの「内面」までも読み込むことの是非まで、ご紹介いただいたurlの記事の論旨には首肯しがたい点がありますが)。SD変化についてのご指摘も、もっともだと思いました。立ち絵ではやれないけれど顔窓上でなら出来る、という極端なギャグ演出もありますね。顔窓ならではの自由度というのは確かにあると思われます(――このあたりも本文に加筆してみました)。
なお、細かい話ですが、DVDメディアへの移行は2002~2005年あたりなので、私の認識ではちょっと時期がずれますね。2000/2001年頃までは、ゲームデータ全体をCD-ROM一枚に収めようとする意識はあったのではないかと思います。2002年あたりからはヴォイス有りが一般化して、CD-ROM一枚ではとても収まらなくなります。そして『エスカレイヤー』がCD版とDVD版をリリースして話題になったのが2002年のことで、そして2004年頃まではCD-ROMn枚組の作品もありましたが、2005年には大半のタイトルがDVDメディアに移行した、という感じだったと記憶しています。2004年頃までは、選択式インストール(ムービーや音声データをHDDインストールするかそれともディスク読み込みで動かすかをユーザーが選択できる)のタイトルがたくさんありましたが、それ以降は減ってきていますよね。CD-ROM時代にはBGM(CD-DA形式)をその都度ディスクから読み取るスタイルもよくありました(――oggが使われるようになったのはいつ頃からなんだろうか? 2003年頃から?)。
3. 立ち絵と顔窓。
立ち絵を使わない作品はそれぞれに意欲的な画面作りをしているので、プレイしていて面白いですね。
立ち絵と顔窓の使い分けについては、写実性(具体性)と象徴性(抽象性)の割り振り方についてしばしば正反対のアプローチが存在するのが興味深いところです。ご紹介いただいたurlの記事でも書かれていますが、「立ち絵の像を標準的な姿として、顔窓でそこからの逸脱的/戯画的/遊戯的な変化を見せる」というアプローチもあれば、逆に「立ち絵は記号的なイメージを表すものとして、顔窓の側でその都度の具体的な表情を細かく見せていく」というスタイルと、二種類の正反対の流儀が成り立つというのが、AVGの(立ち絵システムと顔窓形式の)面白いところ、懐の深さだと思います。
なお、本文を少しだけ改稿しました(2012/03/25)。
丁寧な返答ありがとうございます。
削除改稿によってより充実したものになりましたね。
> 1. SLGとAVGについて
確かに、ここ数年のPCアダルトゲームは他分野のゲームからの影響をあまり受けず、独自に進化していっている感じですね。だからこそ他分野にない先鋭的な部分があっておもしろいのかと。
> 2. 制作コストについて。
おっしゃる通り、メディアのCDからDVDへの移行は2002年以降です。間違えています。
>DVDメディアがいまだ普及していなかった2000年頃の問題意識
というのから問題提起をして何も考えず、そのままDVD化の方でも2000年からとしてしまいました。(ちゃんと見直せば間違えを見つけられるレベルのものなのに……)
>ゲームデータ全体をCD-ROM一枚に収めようとする意識
これにより、ゲームデータの総容量を調整しようとする動きはあったのでしょう。想像に難くないです。
ですが、フェイスウィンドウが本当にデータサイズ削減に貢献したのかは疑問が残ります。立ち絵からフェイスウィンドウに切り替えたことによるデータ削減量がそれほど大きな値だとは考えにくいからです。ただ、これ以上踏み込もうとすると、その時代のCD-ROM内のデータ内訳を調査していかなければならないので、この件についてはここでおいておきます。CD-ROM内のグラフィックデータの総量ならまだ調べが付きやすいですが、その中に占める立ち絵とフェイスウィンドウのデータ量を出していくのは少々骨が折れそうなので。
引用記事の前半部分は……そっとしておいてあげたい部分です。
ご指摘を受けて再考してみますと、ディスク容量節約という観点は、かなり限られた時期の話であるように思います。作品外の諸要因(ディスクメディアの選択、制作側のPC環境、ディスプレイ解像度上の要求、etc.)だけでなく、一つのAVG作品をどのように形作るかという内的考慮(立ち絵差分の数量は? 立ち絵造形は何を目指すべきか? 音声データの品質はどこまで? etc.)の中でも様々なものがあり、それらが複雑に絡み合う中で立ち絵画像サイズの問題が決定的であった状況は、実際にあったとしても歴史上の偶然のレベルであるのかもしれません。応答コメントの中でも言及しましたが、コストの観点で重要なのは制作労力の増大(スクリプトを通じての組み込みも含め)なのだろうかと想像しています。
削除立ち絵や顔窓が「記号」であるという見方は、おおまかな認識の手掛かりとしては十分妥当な適用対象を持っていると思いますが、それはあくまで個々の作品の観察について(観察から)得られる暫定的なイメージの域に留まるものであって、そこから何かの特別な議論を導き出せるようなものではないと思いますね。AVGという表現様式一般についてなんらかの「理論」や「学」を構想することが不可能だとは考えていません――むしろその可能性に期待しています――が、しかしやはり難しいものです。