2012年8月6日月曜日

経過報告(8)

  日々オタク、いや、もとい、私はオタじゃない。(2012年8月~)


  2012年9月2日(日)
  徹夜明けでコミトレに赴こうとは、なんと愚かな私。



  2012年8月27日 えくすとら
  [ http://cdrive-soft.com/ddrive/tsugokano/spec.html ](※アダルトゲームサイト注意
  フルプライスに代わる廉価連作構成も、Andrd版を含む多角的発売も、今後増えていくであろう方向性だが、つくづくCdriveは野心的だなあ。


  萌花ちょこさんや篠原さんを「お気に入りクリエイター」に登録(まだしてなかった)。それ以外も、チェック漏れなどがたくさんあってがっくり(一々直す気にもなれない)。


  気に入ったゲーム音楽(BGM)を聴きたい時は、製品版の鑑賞モードよりもむしろサントラ(があれば)で聴くし、場合によっては内部データをアレして直接再生するし、それも面倒なら体験版(※セーブが出来る場合)だけを残しておいてそこから聴くとか、それならいっそもう製品版の鑑賞モードの方がいいじゃないかということになり……冗談はともかく、HDD容量節約のためにも、製品版をコンプリート&アンインストールした後でも体験版だけを残してあるタイトルはいくつかあり、今聴いている『とっぱら』もその数少ない一つ。いつでも佐本ヴォイスの美影さんに会えるって素晴らしい。


  「こみ(中略)っくパーティーCom(munist)ic Party」という話をしたことはあった。まさに同志。



  2012年8月27日 プラスコミュニケーションとかアフターシーズンズとかポーカーとか(永劫回帰)
  ぱたり(……さすがにやばい)。


  おれたちのなつやすみはこれからだ!
  (まだ休めないフラグ。そういえば『おまなつ』も未プレイだった)


  blggr上部のnavbarがggl+の共有ポイントを一々表示する仕様になったのがたいへん煩わしい。navbar自体を消すことが可能らしいし……どうしようかな。今後ともこのアカウントではggl+を利用することはおそらく無いので、ここから私が利益や利便を得るということはほとんど考えられないし。



  2012年8月27日 -Moonlight Cradle-(寝ちゃ駄目だ、寝たら駄目だ!)
  『ルートダブル』PC版は買おうかどうか迷っていたのだけど、キャスト情報を見た瞬間に購入を決意することができた。いろいろな方に、ありがとう!


  『うたわれるもの』は思い出深い作品の一つ。計算式を自力で検証したりいろいろなプレイスタイルの実験をしたりと、私が独力で自立してゲーム攻略ができるようになったのはこの作品がきっかけであり、そしてこの作品のおかげだったと言っていいくらいなので。今にしてみればそれらの探求は随分初歩的なものだったと言うべきだが、しかしながら、動機づけという観点でも基本的な方法的習熟という意味でも私にとって非常に教育的な機会であったことは確かだ。
  そんなわけで、このタイトルを思い出す機会があると再プレイしたくなってしまう。きっと今でもあのゲームのシステムの中を自由に泳ぎきれる筈だという自信があるだけでなく、もちろんストーリー全体の魅力からしても。


  その『うたわれるもの』(のアニメ版)もだけど、原作と同一の構図を再現するのは、非常にシンプルな手法でありながら(原作経験者には)絶大な効果をもたらすものなので、「ずるい、ずるいよー」と言いながらいつもその魅惑に屈服している。特にゲーム版がアニメ化される場合、アニメーションの速度感の中に、原作一枚絵の密度感が――その場面全体の記憶及び印象とともに――凝縮して注ぎ込まれるのだから尚更だ。なお、これと似た例として、話数制アニメの一つの回のタイトル(特に最終話のタイトル)が作品名そのものを再叙しているものも、意識の一部ではしばしば嫌な思いをしつつも、全体としてはなかなか抵抗しがたい。もちろんPCゲームにも実例はある(例:『白詰草話』)。
  とはいえ、一つのゲーム作品の内部で(あるいは『夢幻廻廊2』のような続編作品の場合も含めて)同一画像や同一レイアウトの再出現及び変化を演出の梃子にする手法は、文句無しに大好きだったりする。AVG作品の一枚絵でこの手法が用いられるのは非常にオーソドックスなものだが、しかしSLG作品の中にも優れた例がある。私の経験してきた中では、(美少女PCゲームではないが)『FFVI』の中に、秀逸な二重写しのシーンがある。ゲーム中盤で主人公一行がオペラに出演するイベントで、望まぬ婚姻を強いられた(PC「セリス」が作中作として演じる)亡国の姫が月夜のテラスに出て花束を投げるセンチメンタルなシーンがあり、これはゲーム前半パートの最も華やかな見せ場となっているが、物語の後半パートのとば口でこれと酷似したレイアウトが現れる時には、そのキャラクター(まさにセリス自身)が荒れ果てた世界に絶望して――もはや作中作としてではなく――崖から身投げする陰惨きわまりないシーンとなっている。プレイヤーは、その場面に強い既視感と、そしてその落差から来る深い喪失感をおぼえた筈である。同様の想起的対比演出は、過去の栄華を偲ぶパブマスターのイベントや、過去を悔やむ悪夢のイベント(カイエン)に際してもくりかえし執拗に行われているが、なかでもこの高台シーンの類比表現こそは、私見では、最も繊細かつ隠微に形作られており、最も深刻な心理的効果を伴った、本作の中で最も卓抜な視覚的演出であった(※――以前の私はこの作品を「ゲーム難易度が低すぎ、かつキャラゲー化している散漫な作品」として低く見積もっていたが、今となっては、「ゲーム」と「物語」を様々な視覚的/音響的/言語的/システム的労作によって結び合わせることに成功した優れた作品だと考えるようになっている。ゲームと物語の関係はもっと肯定的なものであることができる)。
  もちろんPCゲームの中にもいくつもの挑戦と成果が存在する。ループゲームにおけるその種の演出は最も典型的なものである(とりわけ『夢幻廻廊』『夢幻廻廊2』の間の複雑な照応関係)し、フラッシュバック/フラッシュフォワードもPCゲームでは非常に使いやすい技法である(――例えば『THE GOD OF DEATH』序盤の凄惨なFF連続は印象深い。また、極端にいえば、発売前に公開された一枚絵やOPムービーで使用された一枚絵はプレイヤーの体験の中でしばしばFF相当の効果を発揮しているとも言える)。定型的(バンク的)に使用される汎用画像も、物語の推移の中で特別な意味を担うことになる場合がある。SLG『神採りアルケミーマイスター』のプロローグとクライマックスでの同一イベントCG再使用は、主人公(=プレイヤー)がヒロインとともに過ごした丸々50時間のプレイ体験全体を凝縮した、SLG+AVG作品ならではの重厚な二重写しとして機能していた[ 65513847359942656 ]。
  音響表現においても、特定の音響(BGM)の特定の場面での――時としてアレンジされながらの――再出現が同様の効果を持つことがあるが、こちらはまた別の話。


  もしもゲーマーとして名字を名乗るなら、「高宮」になりたい。エレンさん、アスカ先生、紗月姉さん。
  西田とか鈴田とか井村屋とか大波とか木村とかになりたい願望もあるけど、それはまた別の話。


  罵倒芸には(あるいは、もちろん罵倒芸"にも")語彙力/修辞技術/構成力を含めた言語表現力が要求され、それゆえとりわけ「毒舌キャラ」として設定されているような登場人物の場合にはその台詞の巧拙がキャラクター像の品質に対して決定的に影響する。有名なのは『家族計画』における饒舌な罵倒台詞であろうが、『バルバロイ』における主人公「高宮アスカ」(CV:高原くくる)の台詞群はどぎつさ――その語彙選択の下品さ、相手の心理的弱味に対する仮借なさ、口調のいぎたなさ――において突出していた。脚本家のジュリエッタ中島氏は本作でしか名前を知られていないようであり、プレイしていて「誰か名のある脚本家/小説家の覆面名義ではないか」とすら疑った。作中で行われている蹂躙行為自体も非常に過激なもので、管見のかぎり黒箱系の数多くの作品の中でもその苛烈さはちょっと類を見ない水準だった。
  一般的に言って、そもそもフィクション作品においては、特定のキャラクターに対する人格的罵倒表現が担い得る強度には限界があると考えられる。1)内在的理由として、主人公であれその他のキャラクターであれ、登場人物たちは原則として作品の中で、当該作品の中で初めて作り出され、物語の進行とともに生成されつつある存在である。それゆえ、そのキャラクター性そのものが確立されていない状況では、人格的侮辱は単なる空疎な結論先取りとなってしまう虞がある。それを回避するためには、例えば現実的に認識可能な一般的属性(例:身体的欠陥や少数派的/被差別的属性)に対する攻撃や、現実的に想像可能な特定状況(例:いじめ)に結びつけるといったアプローチがしばしば取られる。『陽だまりの陰で』『はなマルッ!2』秋華氏は、まさにこうした描写を得意としてきた。2)他方で外在的かつ一般的な理由として、プレイヤー(読者)は作中キャラクター本人ではないので、いかなる罵倒も原則として無害な音響として受け流されてしまう可能性が常に存在する。罵倒の文言がある閾値を超えた衝撃を与えるのは、プレイヤーの側が作中キャラクターにコミットする場合であろう。ここで、そうしたコミットメントを自発的かつ積極的かつ事前的に取り付けている分野として、「寝取られ」ものや被虐系作品は特異な地位にある。これらの作品群が、シチュエーションの過激さや猥褻感と並んで言語的コミュニケーションの側面に大きな比重を置いていること、そして実際に人格的罵倒表現に――つまりテキストの力に――大きく依拠していること、そしてそれゆえそれらの成功した作品の脚本家たちがいずれも優れたライターであることは、論を俟たない。
  その他、藤崎竜太、枕流(『鎖』)、丸谷秀人らが時として示した酷薄なテキストワークも印象深い。


  公人でもない個人の発言に対して、その当人が知りがたい場所で批判を提起するのは、あまりお行儀の良いことではないとは思います。しかし、1)元発言自体が公然となされたものであり、2)それに対する批判が明確な根拠(事実に関する反駁であれ価値観上の基礎であれ、第三者が検証可能な根拠)を伴って提示されており、3)その根拠が私個人に帰属するようなものではない(少なくとも他人が一応理解可能なものであるという程度には一般性がある)、という条件が維持されているかぎり――つまり公共的議論としての資格を保持しているかぎり――、批判を正当に提起しうる余地はあると考え、そしてその条件をできるかぎり守るように努めつつこのようになっています。どこまで出来ているかは、時として疑わしいかもしれないけれど。そして、訪問者の眼前に不幸や不快をばらまくよりも良きことをこそ広めたいとは願いつつも、自分のすべての言葉を現存する無数の作品の美質と挑戦と達成をひたすら讃仰するためだけに費やすなどということは実際になかなか出来ない(出来ていない)のだけれども。


  一昨日リンクを貼って言及していたabogado powersのプログラムスタッフの件、確認して記載して下さっていたようです。ありがとうございます……と御礼を申し上げたいのだけど、どうやってお伝えしたらよいのか。折を見て御礼のメールを出すつもり。私が何か積極的な寄与をしたわけでもないので、「御礼」をすること自体が僭越となるかもしれないが。
  なお、『Pigeon Blood』はOPムービーによれば「プログラム 浦和雄」、同じく『M×S』はOPムービー上の記載では「プログラム 斎藤慎弥」となっているのだけど、こういうのはパート筆頭者の一人だけが記載されるのが通例なので、誰がどのような形でプログラム作成に携わったかは実際に本編クレジットで正確に確認する必要がある。『とおりゃんせ』(Crime、2000年)はエンドロールで「プログラム 浦和雄」と明記されている(手許のスクリーンショットで確認済み)が、こちらはこちらで本当にあぼぱ本家のものと同一or同系統のエンジンなのかを確認しなければいけない。『PB』『つもバカ日誌』は未所持なので確認できないし、『M×S』『黒の断章』『フォークソング』『とおりゃんせ』あたりはゲームディスクを掘り出せてもエンドロールまで現行OS上で動作可能かどうか分からない。ひょっとしてマニュアルに全クレジットが記載されていたら好都合なのだが。
  いかに水純氏&野宮氏出演作品とはいえ、『すくすく水着』までは、ちょっと……。



  2012年8月27日 らぶらぶマキシマム!
  やっぱりキスシーンに一枚絵があると盛り上がるよねー。 > 『さくら、咲きました。』


  [ http://alicetale.com/ ](※アダルトゲームサイト注意
  かんたか氏原画の(西洋)童話ものか、良いなあ。気持ちの良い奥行き感と自由なレイアウトが特徴的で、初期の『Apocalypse』以来ずっと好きな原画家さんの一人。
  童話の明示的パロディというと、もちろん何作もの「アリス」ものがある――『ファンタジカル』は好きだし『ALICEぱれーど』初回版の箱は潰れそうになったし『メルティ・メルヘン』も思い出深い――し、その他にも『黒の図書館』、『鬼ごっこ!』、それから『Forest』あたりも含めて、わりと良い印象の作品ばかり。ワンクッション置いた語りのあり方(が少なくとも念頭に置かれていること)が、PCゲームの剥き出しの構造的性格との間で相性が良かったりするのだろうか。
  ただし、神話、故事、民話伝承、妖怪譚あたりとの境界はわりと相互流動的に扱われているようで、例えば『超時空爆恋物語』では楊貴妃やクレオパトラといった歴史上の美女たちと並んでかぐや姫や織姫が登場していたりする(――ちなみにかぐや姫キャラを青葉氏が演じているのは絶妙のキャスティング)。童話というと、どちらかといえば女性向けタイトルの方が印象が強いかもしれないが(『絶対迷宮グリム』や、あと『~迷いの森』も)。あと、web検索してみたら『LEGEND SEVEN』もそうだったし、『鏡の中のオルゴール』という連作ものもあったらしい。


  「ちょーきもいら」は、「ラジャです/ラジャった」とともに、いつか実生活上で使ってみたい台詞。いや、実際には前者の言葉を発する羽目に陥りたくはないし、後者はいかにも垢抜けないのでこれまた実際に(口頭で)使いたくはないが。


  俺、この仕事が終わったら『萌月刊FAVORITE』を買いに行くんだ……。


  個人的に収集してみたいのは、「作中でテーブルゲーム(ボードゲームやカードゲーム)をしているシーンのある作品」。チェス、囲碁将棋、オセロ、麻雀、各種トランプゲーム、等々。どのようなゲームで、どのような参加者たちがいて、どのように状況が推移したか、そういう描写を見るだけでも楽しいものなので。オーソドックスなところでは、『うさみみデリバリーズ!!』の麻雀対決は点棒計算までしっかり記述していたシリアスなもの。ソフトハウスキャラ作品にも、麻雀、チェス、将棋シーンが頻出する。特に『忍流』の温泉麻雀シーンは華やかで良かったし、『真昼』には麻雀勝負シーンに駆け引きの選択肢もあった。チェスは『DAISOUNAN』に一枚絵シーンあり。『イマ』でもチェスや将棋をしていた筈。『よつのは』にはオセロ(一枚絵あり)。なかでも数が多いと思われるのは将棋(『愛しい対象~』『恋チョコ』『のーぶる~』『Maple Colors 2』等)で、手筋進行まで具体的に示されるものはなかなか無いが、勝負事の場面を作るのに利用されている。FDのミニゲームでオセロなどを実際にプレイできるタイトルも何本かあるらしい。『痕』の神経衰弱シーンはキャラクターの個性を巧みに浮き彫りにするものだったし、『白詰草話』のチェスはその場面の寛いだムードを出すための小道具的扱いだった。『coμ』にもチェスあり。『神樹』にはビリヤード台があったが、本来の用途では使用されなかった。『ままらぶ』にも思わせぶりなルーレット。『Forest』の「ザ・ゲーム」はここで取り上げてよいのかどうか……。『夢幻廻廊』でも、館の主人たちがチェスの齣を使って遊ぶ場面がある。そういえば囲碁シーンは一度も見たことが無いかも。TRPGらしきオリジナルカードゲーム遊戯は、『グリンスヴァール』にあった(――PLたちが「王様」「大臣」「民衆」に分かれる政治的駆け引きシミュレーション)。
  まだ他にもいくつかあったと思うが、なかなか思い出せない。こうして見てくると、あまり使われていないネタなのかもしれない。むしろ天体観測や学生演劇やゲームセンターの方が多いくらいだろう。映画館シーンも、一見多そうだが、しかし実際にはなかなか無いという印象。十年ほど昔の作品(例:『Piaキャロ』シリーズ)ではスクリーン側をロングショットで表示していたものもあったが、近年の作品ではシートに座っているキャラクターたちを(仰角気味に)レイアウトするのが主流だろうか? あと、ゲーム内遊戯で面白かったのは『グリンスヴァール』の「吸血鬼ごっこ」。鬼ごっこのアレンジルールで、学園生全体が「吸血鬼」グループと「人間」グループとに分かれて、たしか日中は「人間」が追う側、日没以降は「吸血鬼」が追う側になって学園中を使って遊び回るというものだった(――漫画『もやしもん』の農大祭ルールとちょっと似ている)。


  咲氏、同人BL作家歴があったとは[ http://onsen.ag/?title=iwaou 52分~]。読んでみたいなあ。



  2012年8月27日 オルタネイティヴ
  どこからの引用であるかというよりも、あるいはどのようなテキストがどのような効果のために引用されているかというよりも、そもそも現代AVGの表現空間の中でのテキスト使用一般に関してエピグラフ的引用を本文進行に馴染ませるのが難しい(ように感じられる)というのは、以前から気になっていた(cf. [ http://twilog.org/cactus4554/date-110221 ])。本文進行から逸脱しそして本文進行を寸断して唐突に現れる、誰が発した言葉とも知れないそのテキストに対する私の違和感は、小説ではなくゲーム(参加的メディア)のテキストであるからなのか、それともテキストインターフェイスの機能上のなんらかの特性に由来するものなのか、現代AVGの特殊な一人称志向(及びそれと関係する、個人的には疑わしく思われるが繰り返し提起されている「感情移入」テーゼ)との関連で生じている現象なのか、あるいはそもそも私の違和感自体が一般的ではないのか。自分なりに納得できる結論に到達できないまま、ずっと放置している問。章構成作品の章題表示やアイキャッチ的挿入くらいの使い方ならまだしも自然に受け入れられるのだが、その違いもまた丁寧に考えていくと面白そうだ。
  『夢幻廻廊2』にせよ『R.U.R.U.R』にせよ――そして『ク・リトル』あたりにもあったような曖昧な記憶がある――、マザーグースの引用には脚本家が意図していたであろうような積極的効果は感じられず、むしろ如上の違和感の方が強かったのは確かだが、それらは選択された引用文言の個別的実質的な適否巧拙が問われる以前に、おそらくAVG表現一般に(あるいはAVGにおける「語り」のあり方に)内在する複雑さに遡って再考されるべき事柄だろうと考えている。


  たまたま視界に入ってきた相変わらずの安っぽい歴史観トークが不快。どうやら「悪堕ち」概念の意味内容を誤解しているようだが、そんな基本概念の次元で無知を晒しておいて大掛かりな歴史的「転換」を語られても、どこを信用すればいいのか。当てずっぽうでしょ。時間的分野的な巨大な広がりの中で、確かな通時的展望を獲得しそこから説得力ある有意味な変化を見て取り抽出することが、どれほどの知識が要求されどれほど慎重さを要する作業であるかがまったく分かっていないというのは、歴史学に限らず知的営為に取り組むための最低限の用意すら整えられていないという致命的欠陥を露呈するものだ。結局、周知のビッグネームばかり並べて底の浅い歴史を語るくらいしかできていないとおぼしき連中だが。
  それにしても、本当にどうでもいいことだが、ああいう非実証的な批評志向の連中が決まって「歴史」的展望(の恣意的に分節化された像)を作りたがるのは、あるいは「歴史」的進展(を声高に捏造までして)に自説の基礎を置こうとするのは、あるいは自説を歴史叙述そのものに擬しようといつも試みているのは、何故なんだろうか? 不思議ではある。事実を正確に述べなくても歴史"観"は(表見上)提起できてしまうから? 歴史語りがブリリアントな大言壮語のお手本だ(と彼等が感じている)から? 精細かつ体系的な理論的基礎付けの作業に携わらずとも歴史的転換の指摘は可能だ(と誤って考えられている)から? 「相違」点のあるそれぞれの対象の背景事情や環境要因や分野的前提や作品コンセプトを精査せずとも、単線的な通時的「変化」なのだとしてしまえばそれだけで一応の結論が提示できる(ような気分になる)から? 歴史的真正性(こそ/のみ)が自説及び自説提起を正当化すると(これまた誤って)信じているから? それ以外のアプローチを(不幸にして/怠惰にして)知らないから? 理解できないし、まあ、理解したくもない。

  ここ数ヶ月でアレな言動の例もいろいろ貯まってきたことだし、こちらの不快感も溜まりきっているので、近いうちにきちんとした(正式かつ最終的な)批判を提示しておきたい。


  「良作に恵まれない原画家」といった評価が出てくることがあって、それ自体はわりとどうでもいいことだけど、しかし「原画家がギャラをふっかけているので、そのぶん制作費が圧迫され、結果的に粗のある(そしてそれゆえ評価の芳しくない)作品になってしまうことが多い」という話を見かけたことがあり、それはそれで(その前提が事実である場合には)あり得ることだと思った。それなら社内原画家の場合でもフリー原画家の場合でも起きうる現象だし。
  もちろん、逆に安請け合いしがちな原画家の場合にも結果的に同じような事態が発生する可能性が考えられるし、「良作に恵まれない」という前提認識自体が誤謬乃至偏見であるという場合もあるだろう。前者については例えば、ユーザー評価には頓着せず業界内で正当な評価を受けること(そして業界内で定期的に仕事を獲得できること)をもっぱら重視するようなクリエイターの場合には、関わった作品群の傾向や品質にムラが出ることはあり得る。また、一部のユーザーには人気があるが業界内では低評価である(例えばユーザーからの高評価は着彩のおかげであって原画自体は出来が悪いとか、あるいは納期超過をするとか人格的に問題があるとか)がゆえに、大きな企画には関わらせてもらえないといった場合もあるかもしれない。後者については例えば、実力は高いが特殊な少数派的性嗜好を好んで取り上げる原画家の場合、それを好まない多数派から否定的評価を受けることになるかもしれない。結局、「良作に恵まれない」という(そう見做された)事実だけからでは確かなことは何も言えない、ということだが。
  金目鯛氏や綾風氏はわりと仕事を選ばないように見えるし、T氏あたりは……のように感じられるけど、実際にどうなのかは知らない。
  思考実験を続けて、それでは逆に「良作に恵まれる」ための条件としてどのようなものがあるかを考えると、これはこれで難しい。即物的に考えると、1)画風が個性的であって複数原画作品に適しておらず(あるいは逆に原画家間のすり合わせが非常に上手く)、2)ゲーム原画業に限らず幅広く安定した基盤を持っており、3)業界内で技術面/人格面ともに十分な信頼を得ている、という場合には、周到に準備された企画に招聘される可能性が比較的高くなるだろうか? この高い要求に当てはまりそうな方もたくさんいそうだが。


  私cactusはあくまで男の娘(偽)なので、妙な勘違いをされたくないということはお断りしておきます。以前にある趣味関係の掲示板で――たぶん一人称の名乗りが「私」だったからか――「女性の方ですか、女性なのにこんな漫画を読んでいるなんてすごいですね」云々と絡まれて辟易したことが……(どろどろ)。個人の性別なんか(そしてそれ以外のあらゆるカテゴリー的属性も)どうでもいいじゃん。そしてそうする理由の一つとして、公平な(つまりバイアスをできるかぎり排除した)言論の条件を確保するという点を私は重視している[tw: 62477628870901760 / 62552218821341184 ]。mxiとかは今でも性別表示を強制しているのだろうか。
  他方でフィクションの中での台詞の語調がどのようなものであり得るかについては、以前も少しだけ言及したことがあり(cf. [ http://twilog.org/cactus4554/date-100122 ]の7:02から7:27あたりまで)、例えば女性キャラクターの場合であれば女性らしいとされる(が現実にはほとんど使用されていない)語尾「~わ」「~わよ」を使用させるのは、たしかに型に嵌まった因習的なものではあるが、しかし今あらためて振り返ってみると、そのような人工性もまたその創作物特有の人工性(人為性、様式性)そのままに認めて良いのだと――それをもっとはっきり肯定的に述べてしまってよいと――考えられるようになっていた。


  例の「ゲームエンジンとプログラマー」リストに浦氏のabogadopowersエンジンが記載されていないことに気付いて、歯がゆい思いをしているところ。あぼぱ本家タイトルだけではなく、『フォークソング』や『とおりゃんせ』でも使われていた筈だけど……ゲームディスクを掘り出せるかなあ。
  →確認&記載していただけたようです。多謝。


  面白選択肢いろいろ(※――こちらのページ[演出論]に移動した)。


  そういえば、このブログにも応援バナーを貼り付ければ華やかになっていいじゃないか!と遅まきながら気付いたけど……しかしSkyFish新作のあれ(※不吉&グロテスク注意)を貼るわけにはいかないよなあ……。これは心臓に悪い。しかしMlnBksの特典はこのキャラクターがしどけない姿を晒しているポスターなので、「せっかくだからこちらで買ってみようか」という気分に……。


  皇征介氏が在籍していたらきっとおまけムービーは「禁門を守るお仕事」(菊紋でも可。このえへー)だった筈だ。あるいは「仏門を守るお仕事」(こんごーりきし)とか、「校門を守るお仕事」(つんでれふうきいいん。あるいは『LikeLife』)とか、「邪宗門を守るお仕事」(まじんあまくさしろー)とか、「波紋を守るお仕事」(とんぺてぃ)とか、あるいはストレートに「門を守るお仕事」(かんがえるひと)とか、てんあんm…いや、それは無いか。


  c「多忙って言ってたじゃないですか!」(譴責)
  c「いや、まだ今日は27日だから……」(現実逃避)



  2012年8月27日(月)
  Escu:de新作、ADVと言いつつ『LLD』や『WR』みたいな複雑なフラグ管理ゲームだったりしてくれないものだろうか。


  『追奏のオーグメント』って、主要登場人物に眼鏡キャラが二人もいるのか……善き哉。


  メインヒロイン級キャラクターがしばしば明るく健康的な茶髪だったりつややかで深みのある金髪だったり、あるいはヒロインたちの髪型が繊細に心地良くデザインされていて(キャラクターの性格表現のための記号的/抽象的/意味志向的な髪型造形ではなくて)きちんと整えられた髪としての感触を表してくれていたりする――「姫百合愛」の見事なウェーブロングから、これぞ宮沢ゆあなと言わんばかりの「六角すずめ」のアップの輪郭造形、そしてこの分野ではなかなか見かけない「七里由馬」の柔らかなショートボブ――ようなところに典型的に見て取れるように、HOOKSOFTは男性向けと見做されるこの分野の中であんなにもフェミニンな雰囲気の作品を作り続けているという珍しいブランドだが、しかし「女性的」ではあっても「女性受け」はちっともしなさそうなところがまた複雑で興味深い。実際どうなのか知らないが。UNiSONSHIFTも、似たような方向性に見える。他方で女性受けしそうなブランドといったら、minori、elf、Amolphas、LWあたりだろうか? Cyc系列やIGにも、ファンの方が何人もいらっしゃったが、あれらはそもそも男性だからor女性だからどう、という――この視点設定自体が疑わしいものであることは勿論だが――ブランドではないだろう。


  多忙のため、月末まで(つまり今週一杯は)このブログは一時休止。WINTERSとKAIの新作を買いに行くのも9/3以降になりそう。



  2012年8月25日(土)
  先日(8/10)の声優交替の話に部分的に関係するようで、しかしあまり実質的な関係は無いけれど。単一作品内での交替がユーザーサイドに知られた例もあった。『月神楽』で、当初告知されていたキャストの一人が、発売前に別の役者さんに変更されたというのがあった(cf. [ http://cgi.din.or.jp/~tabito/diary/?200712a&to=200712033#200712033 ])。同じようなキャスト交代の例は、まだ他にもいくつかあったような……ぼんやりとした感触があるけれど、タイトルを思い出せない。

  追記:制作途中での声優交替の例について、適当にweb検索してみた(敬称略)。
- 『しろくまベルスターズ』:「月守りりか」役が鷹月さくらから有栖川みや美に変更(cf. 公式告知)。
- 『そらいろ』:「篠原花子」のキャストが制作途中で変更されたことが示唆されている。
- 『さくらさくら』:「立花くるみ」役は、当初北都南が予定されていたが榊原ゆいに(cf. 公式告知)。
- 『はらみこ』:「神坂舞」役は木村あやかが予定されていたが、 手塚まきに交替(cf. 公式告知)。
- 『カミカゼエクスプローラー!』:「宇佐美沙織」役が七原ことみからみるに変更(cf. 公式告知)。
- 『色に出でにけり わが恋は』:「天城桔梗」役が佐本二厘からかわしまりのへ(cf. 公式告知)。
- 『姫×姫』:「篁保奈美」役が、成瀬未亜から金田まひるに交替(※公式告知は消滅している)。

  その他、続編等でのキャスト交代の例として、以下のものがあった模様。
- 『D.C.』シリーズ:「朝倉音夢」「天枷美春」「紫和泉子」など、いくつもの役で声優変更が生じている。
- 『魔法天使ミサキ』シリーズ:「桜庭美咲」役(西田こむぎ→桜川未央)、「ミント」役(柘翁そのか→青川ナガレ)が変更されている。
- 『戦女神』シリーズ:『~VERITA』でいくつかの役がキャスト変更。
- 『ジブリール』シリーズ:『戦国天使~』で、「真辺リカ」役(青山ゆかり→ヒマリ)と「綾小路葵」役(有栖川みや美→芹園みや)が変更。
- 『魔法戦士』シリーズ:「ココノ・アクア」役(日向裕羅→茶谷やすら)、「七瀬凛々子/スイートリップ」役(木葉楓→青井美海)に声優変更あり。
- 『るいは智を呼ぶ』:本編とFV版/FDとで「白鞘伊代」役が水鏡から小手島ひばりへ(cf. 公式告知)。
- 『ラブラブル』:FDで、「柳瀬さつき」役が春乃伊吹から北都南へ交替(cf. 公式告知)。
- 『FUTA・ANE』:「高千穂若葉」役が、FDで松永雪希から有栖川みや美へ変更(cf. 公式告知)。
- 『Signal Heart』:「高司智沙」役は体験版では夏野こおりだったが製品版は木村あやかに。
- 『ヨスガノソラ』:「倉永梢」役は当初は春奈有美だったが降板して姫川あいりに変更。
これらのほか、8/10付記事で挙げたいくつかの作品もこれに該当する。

  公式情報の裏付けを取りきれていないので、ただのメモ書きとして残しておきます。こうして見てみると、『ベルスターズ』にせよ『るい~』にせよ『はらみこ』にせよ『ジブリール』にせよ『カミカゼ~』にせよ、当時その告知を読んで知っていた筈なのに、すっかり忘れていた。ゴシップに近い話題だとはいえ、こういう事実を自力で思い出せなくなっているのはちょっと悔しい。
  いずれにせよ、フルプライスアダルトゲームの収録は長期間に亘るそうだし、キャスト選定から収録完了までの期間も長く、さらに続編制作の場合にも元作品から年単位の時間が経過していることが多いので、当初予定されたキャストを完全な形で維持するのは非常に難しいと思われ、それゆえ上記の例のように声優交替が一定頻度で生じるのはやむを得ないことだろう。


  うそだ……たしかに今夏は食欲を落とさずに乗り切れているし、ケーキやらプリンやら美味しいものもたくさん食べていたけど、規則正しくそれなりに節制した生活を送ってきたつもりだし、多少の運動を含めてカロリーもかなり消耗してきた筈なので、体重は減りこそすれ増えるなどということはあり得ない。だからつまり、本来あり得べからざるおかしな体重を示したのは体重計が壊れているからであり、体重計が壊れているのはおかしな体重を示したことからして自明である、ということに相違ない。



  2012年8月24日(金)
  キャスト非公開タイトルでも、それなりに訓練された声優ファンなら70~90%は当てられるものだと思う。特に、出ずっぱりの主要登場人物だったり、そのブランドの旧作から配役が推測できたりする場合であれば尚更。他方で判別が難しいのは、一場面でしか登場しない脇役や、SLGのユニット音声などの場合。そういったモブ芝居の場合には声優さんもふだんとは違った自由な演技を試されていたりするのも、難しさに拍車を掛けている。例えば、純愛ヒロイン級キャラクターでは聴き慣れていた方であっても、その方がSLGパートでキメラやリザードマンや骸骨剣士などのユニット音声を演じている場合には、かなり気付きにくく、あるいは判別に確信を持ちにくい。男性向けアダルトゲームでは、男性声優さんも総じて憶えにくく聴き分けにくい。そのお声を聴く機会が(タイトル数、台詞数ともに)少ないうえ、出演傾向も分かりづらいので。――ただし、残念ながら私自身は、そういう聴き分けの特殊スキルはあまり持ち合わせていないが。SHC作品の登場人物データベースもキャスト(推測)欄は穴だらけのままだし。
  (※結論の無い独り言を一段落削除。)

  ところで『空帝戦騎』は、手許のSSを見るとクレジット(エンドロール)にキャスト情報が含まれていない。公式サイトにも、出演声優一覧が載っているだけで、配役は公開されていない。何故かgetchuではごく一部のキャラクターのみ配役が公表されているが。マニュアルには記載されていただろうか。後で調べておきたい。
  →パッケージは掘り出せなかったが、Eushullyの他作品を見るかぎり、マニュアル等にキャスト詳細が記載されているということは無さそう。頼りは自分の耳のみ、か。



  2012年8月23日(木)
  『門を守るお仕事』体験版プレイ中でふ!
  以下、内容に関する細かい話は別ページにて。



  2012年8月21日(火)
  テキストの右端がデコボコしているのに、以前から落ち着かない思いをしていたので、遅まきながら均等割付で揃えることにした。やり方は非常に簡単(cf. リンク:Bloggerでエントリーの右端を揃える方法)。アルファベットの連なりを含む場合は不格好に隙間が空いてしまうことがあるが、全体としてはメリットの方が大きいと判断した。両端がきれいに揃って気持ち良いし、改行箇所が識別しやすくもなっている筈。すっきり!
  アルファベット文字列の問題は、特にurl表示に際して問題になりやすいが、長大な文字列をどこで区切るかについてはブラウザ毎の解釈が異なっている場合もあり、もとよりユーザー個人では完全に制御することができない部分だったので、これはやむを得ない。また、投稿テキストの中でtableタグ等を使っている場合はその内部に均等割付が効かないという問題もある。これらをすべて揃えようとしたら、おそらく一つずつ手作業でプロパティを追加していくしかない。しかし、これは比較的瑣末な問題と言えるだろう。気が向いたら、再編集のついでに修正していくかもしれない。



  2012年8月20日(月)
  穏健なリアルタイム進行を伴うゲーム作品はわりと好き。ここでは、一般的なSLGのことではなく、特にキャラクター要素を豊富に含んだその種の分野のことを考えているのだが。その種のものとして私が最初に触れたのは、たしか『WoRKs DoLL』(TOPCAT、1999年)。亜人間の少女たちを育成するSLGで、建物の断面図(メイン画面)の中を二人のヒロインたち(小さなドットキャラ)が自由気儘にうろつき回るのをただ眺めているのが、とても楽しかった。元々は知人が見せてくれたもので、入手したけれどあまりにも気持ち良すぎるので結局コンプリートする前にやめてしまった。
  『グリンスヴァールの森の中』(ソフトハウスキャラ、2006年)にも、それと相通じるムードがあった。こちらはリアルタイム「進行」ではなく、ゲーム時間進行を止めて状況を眺めるものだが。学園風景を俯瞰表示するメイン画面を閲覧モードに切り替えると、パラメータ表示やコマンドメニューが一時消去されて学園敷地内全体を視界に入れることができるようになり、さらに個々の建物(施設)にマウスカーソルを当てると学園生たちの活動ぶりを示唆するSE音声が出力される。魔法実験をしていたり、グランドでいろいろな遊びをしていたり、学園に対する感想を口にしていたり。画面上でマウスカーソルをふらふらさせているだけで、学園の様子を肌で感じる思いだった。しかもそれは、画面の(視覚上の)俯瞰性とそれら音声の(聴覚上の)現場性とが二重写しになって同時に現れてくるという、ちょっと不思議な感覚をもたらすものでもあった。もう一つ、「学園の風景」を表示するコマンドもあり、こちらは学園内の路上風景を映し出すもので、そこをドットキャラの学園生たちが(スクリーンセーバーのように)闊歩しているのを見ることができた。
  非-SLG作品に分類されるであろう『days innocent』(inspire、1999年)もそう。こちらも、ゲーム進行を制御するメイン画面は、山村の全景を俯瞰で捉えたものであり、それが日付を追ってシームレスに時間経過していく過程で、ゲーム画面の色調は明るい日中から、橙色に染まる晩へ、家の光のみがまたたく夜、灯りの消えた深夜へと様変わりしていき、そしてそのマップの其処此処にイベント発生のサイン(たしか可愛らしい花型マークだった)がふわりと浮き出ては消えていく。そのサインをクリックすると、AVGパートのイベントが始まるという体裁。この作品を実際にプレイしたのはわりと最近のことだったが、このゲーム画面を目にした時は、本当に心が震えた(――もちろん、この画面設計は、作品コンセプトと物語スタイルに照らして明確な意味がある。ちなみに、『とっぱら』の移動選択時の俯瞰画面がその土地の広がりを感じさせてくれたのも、これと相通じるところがあるように思える)。
  『花暦』(Cyc、2000年)もプレイしたことがある。魔法の庭に花壇を作って花を育てるSLGで、ゲーム進行のテンポはわりと速く、様々な花が咲いては消えていき、あるいは猫などの闖入者もあったように記憶している。水やりや種植えなどがそこそこ忙しかった。たしか、花壇の保守管理を怠っていたら花の精(ヒロイン)が害虫たちに襲われるイベント(一枚絵あり)が発生して、泣きそうになったような憶えがある。ちなみに、EGScapeを見ていたら、どうやら咲氏のデビュー作でもあった模様。
  微笑を誘う現れとしては、『あかときっ!』(Escu:de、2010年)もある。箒に乗った魔法少女たちのコマンドバトルを含む作品であり、その戦闘シーンでは、コマンド待ち状態のキャラクターの画像がその都度表示される際に、彼女等は画面上で不規則にふわふわと浮遊している。犬洞あん氏らによるキャラクターたちのその姿は、時には愛くるしく見え、時にはバカゲーめいてコミカルに映り――被ダメージに応じて衣服が脱げていくので――、時には凛々しく頼もしくも感じられた。様々なゲームシステムの作品を野心的に制作してきたこのブランドが、画面上の視覚表現に対してその確かな技術力と卓抜な発想力を傾注してみせた、実り豊かな成果である。
  リアルタイム進行の戦闘表現、つまり一般的な意味でのRTSを、最も正式な形で提示しているアダルトPCゲームは、――究極のみるヴォイスゲームとも言われる無料配布ミニゲーム『病みの声異聞録』(Black Cyc、2005年)を別とすれば――、おそらく『キャッスルファンタジア エレンシア戦記』(studio e.go!、2000年)だろう。私がプレイしたのはリニューアル版(2003年発売)だったが。
  そして、特にこれを得意としてきたのがソフトハウスキャラである。上記『グリンスヴァール』だけでなく、『巣作りドラゴン』(2004年)、『Dancing Crazies』(2005年)、『Wizard's Climber』(2008年)も、この関連で言及される価値がある。特に『巣作り』『DC』の2本は完全なオート進行なので、プレイヤーは戦闘とパートの間中ただ見ているしかなく、そしてただ見ているだけで面白かった。『雪鬼屋温泉記』(2011年)にも同じ雰囲気がある。このようなリアルタイム(+オート)進行メカニズムは、多数の登場人物たちが各自自らの利害及び目標を持って活動し相互作用しあうというマルチアクター状況表現――私見ではこのブランドが一貫して追求してきたもの――と非常に親和性が高く、それゆえこのブランドがランダム要素と並んでリアルタイム進行システムを繰り返し導入してきたのは十分に理由のあることだと考えられる。
  いずれにせよ、こういったのんびりとしたリアルタイム要素を備えたゲームの魅力は、この分野ならではの、あるいはこの分野が活用しやすいものだろう。とりわけ、1)キャラクター要素のウェイトが大きく(つまりキャラクターの魅力を梃子にすることができる)、かつ2)慣習的に高難度のゲームが忌避されがちである(せわしい「ゲーム」である必要が無い)、という事情からして。そして、私個人としては、このように生成してゆくものを眺めて愛でるガーデニング的ゲーム享受は、ゲームの楽しみの重要な一部となっている(――実際、「ガーデニングゲーマー」を自称してみたいと思うことがあったりする。二重、三重の意味で)。


  実際、大阪は現代デジタルゲーム制作が大きく花開いている一大文化都市だよね。alicesoft、Leaf、NEXTON、VA、UNiSONSHIFT、ゆずソフト、e.go!/でぼ、戯画、アトリエかぐや、Escu:de、ソフトハウスキャラ、Q-X、つるみく、サイバーワークス……PBの多くも、これに該当するものは多い筈。不確かだけどプレイム、ま~まれぇど、はむはむソフトとかもそうだっけ? ずいぶん前に会社所在地情報を収集整理していたサイトがあったのだが、今検索してみたら見つからなかった。
  どうしてこんなにも極端な集中が生じたのかは、分からない。SOHOワークの容易な業種だろうから、物理的集中のメリットはそれほど大きくないだろう(――実情は知らないが、制作上、対面での打ち合わせもそれほど頻繁には行われていないのではなかろうか)。大阪特有の税制や物価等の経済的影響というのも、思い当たるものはほとんど無い(――大都市であれば、事務所賃貸費用などはむしろ割高になる可能性が高い。「ゲーム制作会社」としてのオフィス賃貸が大阪では特に容易だというようなことも無いだろう)。日本橋という大規模な電気街/オタク街が存在するというのも、説明根拠としては非常に疑わしい(――会社所在地との関連は希薄だし、地元特化的イベントが多いわけでもないし、歴史的にみてもタイミングが合わないと思われる)。巨大な求心力を持った会社や個人がいるということもあるまいし、そうしたデジタルクリエイター志望者が多数輩出されてきた土地柄という感じもしない。ちなみに、物理的に集中しているにもかかわらず、在阪メーカー同士の連携は――技術的人的交流はともかく、広告面での協力などは――ほとんど見られない。この点は、北海道(「きたえろ」)と対照的だ。もしかしたら、実際にはメーカー間の交流会があったりするのかもしれない。実際、在阪メーカー間での人材移動はそこそこ生じているようだし。逆に、ブランド間で競争意識があるとか仲が悪いとかいった噂も聞かれないのは、ユーザーとしては嬉しいことだが。近隣府県(京都や兵庫)にはほとんど進出されていないというのも興味深い。あえて言うなら、ベンチャー気質の強い土地柄であるとか、ポルノグラフィに対する抵抗感が比較的薄い(というか大都市圏なので道徳的規律自体が弱い)といったような文化的事情を想定することも一応可能だが、実態にどれほど対応しているかは分からない。
  いずれにせよ、この時代にあって一本1万円近い高額の趣味コンテンツを毎年万本規模で(あるいは会社全体では十万本規模で)売っている企業が10社かそこら存在するというのは、わりとすごい事実であり、そして不思議な現象であると思う。もちろん、家電品等と比べればずいぶん小さな額の小さな市場ではあるけれど。


  bootUP!のスタッフはどんだけ木村あやかが好きなんだ……。今度の新作でもメインヒロイン級で配役されるとは。


  最近、このblggrでの投稿エラーが頻発している。大丈夫だろうか? リトライすればなんとかなってはいるものの。下書き(バックアップ)自動保存のタイミングと競合して投稿エラーになることもあったし、いろいろと不安がある。
  blggrには画像以外の投稿はできないようだ(――動画などの外部からの埋め込みは可能)。私としては、表計算データのファイルや圧縮ファイルなどをアップロードできたらわりと便利になるのだけど……。どうせ容量は潤沢にあるのだから、使い方についても融通を利かせてくれたら嬉しいのだが、そうもいかないのだろうか。


  あやうく忘れるところだった! 再来週、9/2のコミトレ20に参加します。
  佐々木氏のサークルには今回もなにか差し入れ(お菓子)を持って行くつもりだけど、SHCの社員人数が分からないので、うまく分けていただけるような数量を選ぶのに毎回頭を悩ませている。



  2012年8月19日(日)
  マヨネーズをボトルから直接ちゅーちゅー吸うヒロイン――しかも3本も――のイメージがいまだにフラッシュバック的に思い出されて、その度に胸焼けとともにうなされたような気分になる。あれはきつい。良いキャラなんだけど。


  親と同居している主人公といったら、有名作品ですぐ思い出せる範囲でも『ONE2』『天使のいない12月』『果て青』(片親のみの場合も)あたりはどれもそうだった筈だし、実親に等しい存在(伯父母、継親、養親など)についても『夏めろ』『星空のメモリア』『腐り姫』『雪影』などがある。『フォークソング』『Quartett!』『モノごころ~』『タペストリー』とかもそうだったかも。『朝凪~』も母親と双子の姉との三人世帯。SLG作品でも、『ママトト』も『エスカレイヤー』(沙由香の父)も『空帝戦騎』(の主人公の一人)も『メタモルファンタジー』もそう。微妙な例では、エイn…とか、ときどk…とかも。親がいる場合もいない場合も、それぞれに特有の理由が設えられているものであって――実際、思い出してみると本当にいろいろなものがあって楽しい――、それらそれぞれの趣向を愛でるのがゲーマーの「粋」というものじゃないかしらん。
  成人している主人公(SLG作品には職業人主人公が多い)はもちろんのこと、若くして社会人として自立しているという主人公(『うち妹』)もいれば、複雑な事情で家出中(『ねがぽじ』)というものもあり、あるいは両親がどうこうが問題とならない休暇中の出来事(『瀬里奈』は大学生のフィールドワーク、『とびっきりRUIN』は移籍探掘サークル。『神樹』は理由自体が選択肢で変化する)だったり、全寮制学園への入学(これは多数)だったり、両親を亡くして妹と故郷に帰ってきた二人(『ヨスガ』)だったり、ケーキ店シェフの父親が入院した(『パティにゃん』)とか母親が倒れた(『シュトラッセ』)とか、あるいは低価格タイトルでは家庭描写がばっさり省略されていたりもする。
  (※以下、ここで書いても仕方のない部分を削除した。創作の成果及び可能性を侮って不誠実な態度しかとらない人々のことが大嫌いなのは確かだが。)



  2012年8月18日(土)
  ヒロイン名字「鳳/西九条/北園/東雲」の中で鳳だけが方角を含んでいないように見えるが、鳳凰は朱雀(四神の南方守護)に通じるので、ネーミングの規則性としては一貫している。鳳家が所有するのが「"南"桜丘学園」だというのも、それと平仄を合わせているのだろうし。

  こういうのは基本的にお遊びの範疇で捉えられるべきものだが、悪い意味で「真に受ける」人たちがいまだに一定数存在する(!)のは本当にうんざりさせられる。典型的には、「この名字は軍艦○○に由来していて、その艦がこういう経緯を辿ったことを考えると、このキャラクターが××になったのは興味深い」云々といったタイプのあれ。実在のロケーションに由来する舞台設定や、既存有名曲の使用の場合と同じように、現実の諸事実や諸観念を言語上あるいは造形上参照することによって作品の側にイメージの重層性を付与するのは、別段おかしくもなんともないごく普通の手法だが、しかしそれらを受け手の側が後付けで作品解釈のための根拠の地位に引っ張り上げてしまうことが適切であるかどうかはまた別の問題として慎重に取り扱われねばならない。もちろん、それらの規則性や外部参照性が作品中で実質的な意味を担うようになる場合も確かに存在する――それらがすべて拒絶されるならば例えばあらゆる歴史もののフィクションは成立し得なくなってしまう――し、そして作品内在的に取り込まれた意味表出であることとただ単に作品外在的な参照項を持つこととの境界は必ずしも明確ではない(無数の実例とともに曖昧で長大なグラデーションが横たわっている)というのも確かだが。「初瀬も八島も戦争で沈没してるやんかw 不吉www」などと冗談で言うならまだしも、もったいをつけた文体で書かれているのを目にすると、「真に受けちゃっているのかなあ」と心配になる。哲学者の言葉を貼り付けながらどうこう述べる手合いも同じことだ――それどころか、哲学それ自体の性質からして、よりいっそう愚かしく、致命的に誤っており、オカルト的神学とほとんど区別できないものになる――が、そちらはまた別の機会にきちんと批判しておきたい。エヴァ産業の方々に対しては、「とうにネタ切れしているのに何かひねり出さなければいけなくてお疲れさん」としか言えないが。


  コミケカタログのような例にせよ、あるいはtwやmxのようなSNSの様々なリストにせよ、一人一人が自身の特有のセンスによって命名したバラバラな名乗りが大量に並んでいる無秩序感には、いつも目にする度に圧倒される。私には、あるいは一人の個人には、ああいう放恣な多様性を作り出すことは非常に難しい。



  2012年8月17日(金)
  なつやすみのしゅくだいがまだ完成していない……うう、どうしよう。


  古典的な静止画一枚絵と、それを解体したいくつかの拡張的利用との間の関係について、どのような展望を持つことができるだろうか。後者は、差分変化による単一性の解体、スクロールや拡縮による確定性の解体、レイヤー分割操作(多重スクロールなど)による一体性の解体、AEアニメーションや動的エフェクト(感情エフェクト付与など)やムービーアニメーション化などによる無時間性の解体と、すでに様々なアプローチが存在する。最も単純な線引きを試みるなら、前者にあっては一枚絵がゲームの目的乃至価値そのものである――つまり「褒賞としての一枚絵」理解――のに対して、後者においては一枚絵はそれ自身が目的であるとは限らず、その特権性は破られてしばしば他の特定の表現上の目的(人物の登場/退場を表示する機能上の目的であれ、画面演出上の目的であれ、性描写拡充の目的であれ)に奉仕させられている――つまり「道具(素材)としての一枚絵」理解――、と概括的に述べることができるようにも思える。しかし、実例をふりかえってみると、もちろん、簡単に割り切れるものではない。たとえば、ムービーアニメーション化された画像にしても、変身シーンのバンクであれば汎用化寄りに捉えることができるが、戦闘シーンの中の決定打を表現するために用いられている場合には、その瞬間のみがアニメーション素材によって表現されているという事実は、むしろ通常の一枚絵以上に特別な価値をその画像(映像)に付与することになる(――『白銀のソレイユ』であれ『Dies~』であれ)。レイヤー分割による「特別な」加工についても、同様のことが言える(――『愛cute!キミに恋してる』から『恋色空模様』に至るまでの)。アダルトシーンのアニメーション化は、どのように受容されており、そしてどのように評価されるべきなのだろうか。仮説として述べるなら、「アニメーション化によって画像(一枚絵)単体の特別な価値に影響があるかどうかが問われる以前に、アニメーションによってそのシーン全体が特別な迫真性を――そして特別な付加価値を――与えられているという事実が重要なのだ」ということになるのではないかと思われる。一般的なユーザーが、通常の静止画アダルトシーンと比べて、アニメーション化されたアダルトシーンに特別な付加価値を実際に認めているものなのかどうか、私には分からないが。
  もう一つ、"全画面"画像であるかどうかという点は、検討されるべきだろうとは考えていながらも、取り組む手掛かりすら得られていない。つまり、非全画面CGが一般的だった時代における、一枚絵に相当するような比較的重要視される特定画像と比べて、LVNS以降の全画面一枚絵はどのような価値を引き受けるようになってきたのか。そこにどのような(美)意識の変化があったのか、あるいは無かったのか。遡ってきちんと跡付けられるべき問だと思うが、知識不足とアクセス手段不足により放棄されている。私自身は90年代半ばのelf作品のいくつかをちょっとプレイした、というか見せてもらったことがあるという程度だが、『同級生』にせよ『野々村病院の人々』にせよ、女神像のような意匠化された枠の中にメイン画面が表示されていたり、あるいはベース画面の上にメイン画面やテキストボックスが浮き出るように表示されていたりした(――曖昧な記憶から今しがたggってきたので、たぶん本当にこうだった筈だ)。それらはけっして「主人公の視界」ではなく、ゲーム内の(「ゲーム"世界"内の」と言ってよいかどうかは自明ではない)事象とプレイヤーを媒介するインターフェイスであり、あるいはそのゲーム内事象をプレイヤーが覗き込むための窓のようなものだった……のかもしれない。あのような、日付表示と画像ウィンドウとテキストボックスと所持金欄とメニュー欄が一画面内に整理されて組み込まれて併存していたゲーム画面とそのゲームのあり方を、当時のプレイヤーたちはどのように感じていたのだろうか。

  ところでいわゆる「SD絵」は、全体的傾向としては一枚絵とは逆に、非褒賞的充填材の地位から出発して、特別な見せ場を担いうるだけの褒賞的価値の共通了解を獲得しつつあるように思われる。その傾向は、SD画像の使用頻度の増加や、SD画像が回想登録される作品の増加を実証することによって確認することができるかもしれないが、これもまた私個人の能力を超える作業だ。


  そのせい、というわけでもないけれど、PCゲームはウィンドウモードでプレイするのを常としている。映像ディスクの場合はカメラの存在が所与とされる――物理的な撮影カメラが存在しないアニメにおいても観念的にそうなる――のでFSで観るようにしているけれど、ゲームの場合は、AVG作品であっても、自分が操作するインターフェイスの上に成立している画面内事象であるというように認識しているので、ウィンドウモードでもまったく気にならない。そして、自分がそのようにプレイヤーとして作品の生成推移に関与しているという意識が存在するという意味において、読み物AVGであってもやはり「ゲーム」として受け止めている。もちろん、純粋(徹底的)なデジタル読み物アプリケーションの場合にはその意識は放棄されることになるだろうし、そしてそこに至るまでの無限のグラデーションの中に明確な線引きを行うことは困難だろうが、さしあたり「AVG」を名乗って発売されているあれやこれやの作品群については参加意識を持っており、そして同時に、それらはその都度特定のシステム及びルールの下にプレイヤーとして自己の知性を作用させつつ振る舞うメカニカルな体験であって、それゆえそこでは体験の全体性や包括性は絶対の要求ではない。ウィンドウモードに対する私の姿勢は、おそらくこのような姿勢と関わっている。



  2012年8月16日(黙)
  TOMA氏については本当にいろいろと思うところがあって、自分が感じていることをなんとか言葉にしてみたい(それによって暫定的にでも決着をつけて落ち着いてしまいたい)のだけど、ついぞ果たせずにいる。あの超ミニスカートに代表される趣味の悪さといぎたなさ、籐太氏起用からも窺われる下品さと過剰な猥褻感、そして辟易するほどの暑苦しさと通俗性、それらにもかかわらず、その選び取られた趣味の徹底性とその表現意欲の勁烈さとその表現空間から押し寄せてくる異様な切迫感を前にすると、私はいつも言葉を失う。氏の創作の中に私が常に感じているものはもしかしたら、その「気高さ」なのかもしれない。創作(芸術)に対する、志操を持った専心と自身の理想への献身の、そういう特別な。氏の率いるブランド「ApRicoT」の名乗りがまさにART(アート)を強調しているのは、偶然ではあるまい。そして、その印象の中には、『Maple Colors』『AYAKASHI』『ゆにばる!』で主役級に繰り返し起用されてきた北都南氏の張りつめた澄明な声の印象も、間違いなく含まれている。


  べっ、べつに私はツンデレなんかじゃないんだからねっ!(遂行的矛盾)


  昨日の話の続き。
  どこかの作品のOPムービーにラフ画像を多用しているものがあったような憶えがあってもやもやしていたのだけど、雪の結晶をヒントに思い出すことができた。『天使のいない12月』だ。これもLeaf東京開発室の作品。カメラフィルムを象った枠の中にラフ画像を並べてスライドさせていったり、画像をセピア色にしたりスクラッチノイズを掛けたりして、絵と物語に対する距離の遠さともどかしい捉えがたさを執拗に強調しているように感じられる。
  そしてそこから芋蔓式に『Piaキャロットへようこそ3』『ヨスガノソラ』のそれも思い出した。奇しくも、いずれも橋本タカシ氏と鈴平ひろ氏が関わっているタイトルで、これらは立ち絵や一枚絵の下絵(原画)ではなく、おそらくこのムービーのために描き下ろしされたイラストを使っている。「ラフ」と言うよりは、完全にはクリンナップされていない原画の上に軽く色を乗せた体裁の絵だが。これらのラフ画像使用の表現効果は、雑駁に言うなら開放感(夏の田舎町)やロマンチシズム(海辺の二人)あるいはノスタルジー(麦藁帽子)を暗示するものだろうか。
  橋本氏の参加作品が立て続けにラフ画像を利用しているのは、単なる偶然なのか、それとも橋本氏ら原画家サイドからの示唆があったのか、それとも上記Leaf東京開発室も含めてF&C(の誰か)に淵源があるのか。実際にムービーの表現構成にどのスタッフの意志がどれだけ反映されているかなど、一ユーザーには知りようもないが。あるいはもしかしたら、これら(旧)F&Cの系譜はちっとも特別なものでもなくて、他の多くのブランドでもラフ画像使用ムービーはしばしば行われているのかもしれない。ムービー素材に使うのに設定画や下絵画像は便利だろうし、画像単色化(例:『忍流』)はムービー進行に適度なコントラストと刺激を与えてくれるだろうし。しかし残念ながら、私の乏しい知識では、そのような大掛かりな展望に説得力ある実証的根拠を提供することはできない。
  その他、『クロウカシス』のOPムービーも、線画を大量に使用しつつ大半のショットをほぼ単色で(つまり極端に彩度を落として)表示するという奇怪な実験作。ただし、一つの映像作品として見た場合、このブランドのムービーの悪しき伝統で、画像素材の高品質ぶりと画像処理の手の込みように比して、映像編集のいいかげんさ(つまり前後の脈絡の無さと音楽的進行の無視されよう)が苛立たしいほどだが。『バルバロイ』も、「完全鬼畜ADV」の名に相応しく、男声デスボイスの主題歌とともにOP映像はラフ画像と着彩画像が頻繁に交替して非現実的なムードをまとうものとなっている。それ以外は……一定以上の分量及び効果をもってラフ画像を使っているOPムービーは見当たらなかった。ごく断片的に、一瞬だけ使われているという程度なら他にもあるのだけど(――例えば『MERI+DIA』OPムービーの最初とか、『恋神』OPムービーの一部に筆書きそのままのSD絵が使われているとか、まあいろいろと。『ロンド・リーフレット』OPムービーにも何ヶ所かあった)。
  ……というわけで、そうした趣旨のことを加筆しておいた。

  ラフ画像の話を始めたのは内発的なものではなく、こちらの方の発言[tw: 234969498938114048 ]がきっかけだったりするのですけれども。以前にtw上でフォロー関係をいただくご縁があり、それ以来、PCゲームに関して私がそのセンスと判断力を信頼して、たまにログを拝見している方の一人です。お会いしたことすらありませんが。


  スクリーンショットを撮りながらのプレイは、その目的においてもその態様(プレイ姿勢)においても不純だと言われ得るだろうが、しかし、ゲーム画面上で生起している事象に対する多面的な注意と特別な集中力が要求されることになるという意味では、非常に教育的なエクササイズでもある。最初からSS目当てでプレイするのは作品に対する集中を阻害しそのアーティキュレーションに対する感覚を鈍らせてしまうと思うのでけっしてお勧めしないが、すでにプレイ済みの大好きな作品を再プレイして「これは良い」と思ったところで適宜撮影キーを押していくのは、刺激に満ちた面白い経験になる。


  見慣れすぎて意味が分からなくなることってあるよね。ゲームにしてもアニメにしても、「なんでこんな妙なレイアウトにしているんだろう?」とか「なんでここでカメラがこんなところに寄っているんだろう?」とひとしきり首をひねった後でようやく、「あー、お色気表現なんだ!」と気付くとか。見慣れすぎというより、染まりすぎなのかもしれないが。


  時野つばき氏がライター参加されていると知って、HOOKSOFT新作のサイトを見てきた。……北欧ヒロインの担当なのはまず間違いない。そして――先日書いたばかりのことを再確認することになるが――やはりHOOKの彩色はすごく好みだ。色彩設計全体も、明るめのパステル色を基調にしつつ、どぎつくならないようにコントロールされているし、服にも肌にも妙なテカりが無くて気持ち良く見られるし、特に下着がとても布地が柔らかそうに塗られているのが好ましい。服飾デザインの癖(プリーツの多用、チェック柄偏愛、安っぽいヘアアクセサリーなど)には好き嫌いもあるだろうが、一枚絵もパースや傾斜に無理をさせず穏当な構図に収まっているし、全体として爽やかで親しみやすい画風が維持されている。スタッフ情報を見るに、ちゃんとしたCG班を社内で持っているようで、実際にグラフィックワークを重視しているのが窺われる。キャストも毎回大きく変えつつ良い配役を披露してくれるので……ってこれは別の話か。今作の豊足恵名氏は、たぶん車の人。



  2012年8月15日(水)
  書き出してみたら長くなったので、独立の記事にした(またそれか!)。→「PCゲームにおけるラフ画像使用についての覚書」 先日(8月6日)の話題とも関連する大きなテーマで、もう少し慎重に構成を練ってから書いた方が良かったかもしれないが。
  上記本文では書かなかったが、『だめがね』にも、ヒロインたちの立ち絵ラフを並べているアイキャッチがある。この作品は、全てのシーンが一枚絵のみで――つまり、汎用画像の組み立てによる画面構成を一切行わず、その都度専用の全画面画像のみで――表現されているという異例のスタイルを採用している。それゆえ、プレイヤーはこの作品の中で、ヒロインたちの立ち絵に出会う機会を与えられていない。しかし、制作工程上、ヒロインたちの設定画(立ち絵)――記号的な立ち絵画像はそのキャラクターの理念的標準的な姿を体現するものでもある――は確かに存在したのであり、そしてそれらをアイキャッチとはいえ作中で瞥見しうることによって、プレイヤーは一種の安心を得ることができたのかもしれない……と考えてみたのだが、さすがに牽強付会が過ぎるので書かなかった。
  記号的に理解される立ち絵は、同時にそのキャラクターの標準的な(、あるいは「中立的な」、あるいは「本来の」、そのほか何でもいいが)姿を表すものであり、その意味において非常に重要なパーツである筈だ、ということを常々考えているのだが、個別作品分析の中でうまく非-規範的な形で取り込むことができずにいる。また、3Dゲームはもちろんのこと、立ち絵の運動演出、立ち絵の差分増加、そして近年では立ち絵それ自体のアニメーション化まで導入されつつある現在では、おそらくこの視点自体が失効していくだろうとも考えている。
  ところで、今日の一連の考えの中で気付いたことだけど、「物語の流れの中から一歩抜け出したキャラクター」というあり方に何かほっとさせられ、ほとんど救われたような気分にすらなるという、どうやら私がたまに発揮することがあるらしいその感性は、どれほど一般的な(あるいは、一般的でない)ものなのだろうか?


  過去の雑記テキストのいくつかを切り出して単独のページにした(→「個別記事一覧」)。さしあたっての目安としては、「一般化された明確な主題」、「具体的作品についての分析」、「分析及び思考の結果、結論として得られた、なんらかの示唆」の三者が揃っている場合には、独立の記事にしてもよいだろう。その出来はともかくとしても。言い換えれば、時事ネタや単発テーマはそのまま放置しておくということになる。このように処理する理由は、「単なる雑感ではなく、曲がりなりにも正式な(つまり全体についても細部についてもそれ相応の責任を負うつもりでおり、そしてそのつもりで読まれてよく、そのつもりで読まれたい)論述だ」ということを明示するためでもある。ネタバレもしていることだし、日記の中で訪問者に予期せぬネタバレに遭遇させるよりは、もっともらしいタイトルを付けた記事の中に押し込めておいて少しでも警戒してもらおうというつもりもある。
  ちなみに、昔の人を真似て題名を「~についての理性的思考」で揃えてみようかとも思ったし、実際にいくつかのテキストはそのアプローチにおいて哲学(抽象化された概念の厳密な操作を通じて対象の内実や特質について分析的に思考する活動というほどの意味で)と呼びうるものではあるが、この分野でそう名乗るとあのあたりの連中の同類と見做される危険があり、ひいてはバカと見做される虞があるので、差し控えた。


  ところで、論述の内容に合致しかつそれ自体としても美しい画像を、手持ちのSSの中から選別してくる作業はとても楽しい(あの『めぐり、ひとひら。』の一枚は絶品だ)し、正当化される引用の要件を満たすように配慮してはいるけれど、アクセス統計をたまに見ているとggl画像検索などでこのブログを訪れる人たちがそれなりにいるようなので、いささか忸怩たる思いが無いわけではない。転載されてしまう可能性もあるわけだし。あと、まるで「キャプションが本文」みたいなウェイトの置き方は良くないと思うので、最近は自制しているつもり。


  このブログ開設以来の活動をふりかえってみると、当初は演出論のコメンタリー作業(のためにハイペースでプレイしていた) → 2012年2月は『BB2』攻略に専心 → 4月からはしばらく停滞 → 7月頃からは(いろいろな作品に手を出しながら)小規模な個別記事を公開、といった感じ。しかし、ちょっと読み返してみるだけでも文章が(文言の細部も、事実の詰めも、ルーティン化しかけている構成も)いいかげんになっているのが自覚できるので、これからはあまり妙な記事を出してしまわないように節制していきたい(――「美麗イラスト」にせよ「シュールなギャグ」にせよ、以前の私だったら絶対に使わなかった言い回しだ)。9月からは、旧作ばかりでなく最近の作品もできるだけプレイしていこう。でないとセンスが鈍ってしまうし。


  忘れそうなのでメモ。『奥さまは巫女?R』に、写実志向的な視界表現あり。主人公が怪獣の着ぐるみの中に入っているシーンで、ゲーム画面の上下には怪獣の歯列を意味するギザギザの黒い影が掛けられている。これは、たぶん非常に珍しい例だと思う。私見では、ぱれっとやPurple softwareで見かける画面端の立ち絵見切れ表現ですら、実際にはまったく写実志向と呼べるものではなく、その記号性の了解に依拠した様式的表現であるが、この歯列表現は明確に具体性と実在性を志向して「ゲーム画面を主人公の視界として扱ったもの」と捉えざるを得ないだろう。


  ここでは政治の話に口を挟むつもりは無いが、[tw: 234962644258414593 ]には萌えてしまった。どこの人道的ヒーローの啖呵だよ、と。そういう台詞のようにもとれてしまう文面。


  青山ゆかり氏の演じた役というと、今なお辻川葉耶香が私の中で特別なところにいる。これまで50本以上の作品で出会い、それらの中の無数の輝かしい芝居に触れてきているにもかかわらず。もちろん一之瀬響や真柄亜利美も――あ、どちらもlightだ――素晴らしかったし、焔雪音や三木真智子のユーモラスなお芝居ぶりも本当に楽しいし、ジブリールこそが最高傑作だとする人もいるだろうけれど、そして、内藤テキストや朱門テキストの中ではそういう特別さを感じたことがいまだに無いのはいささか残念ではあるけれど。



  2012年8月13日(月)

  書いてみたら楽しくなってきたので、独立の記事にした。→「PCゲームにおける非-人間型主人公についての覚書」 大きな展望に結びつけるのはちょっと強引だったかもしれないが。

  ……なんの話をするつもりだっけ? Escu:deと緑茶を結びつけた展望を示すことが(もしかしたら私としては初めて?)出来て、自分としては大いに満足したので、これで良しとしよう。
  上記以外に、主人公が非人間型のタイトルって何があっただろうか。主人公が触手そのものだとか触手を持っているとかいった作品はすでにいくつも存在する。魔族が主人公の作品はしばしば人間離れした外見になっていて、例えば『BE-YOND』の主人公「宮本小十郎」は漆黒の甲冑に全身を包んだ巨大な魔王だし、『Princess of Darkness』(原題『冥色の隷姫』)の主人公「イグナート」も巨躯の四本腕魔族だった筈。いずれにせよ、この分野に特有の要請として、「濡れ場に参加できる身体でなければならない」という条件はほぼ絶対的なものだが。



  あれは公然相互ストーキング遊びをしているということなのか。そういうことをする者がいるということを事実として認識することすら躊躇われるが。当人は遊びのつもりなのだろうが、他人のプライヴァシーを探索し暴露する行為を(相手方の同意があるとしても、そして実際には第三者に対して公言しないとしても)躊躇いもタブー意識も無しに実行できて、しかもその振舞いを公の場で口にできるメンタリティは、気持ち悪さを通り越してほとんど不可解ですらある。それはフィクションやシミュレーションではなくて現実の行為であって、そして法律上の犯罪に当たるのと同一の反社会的行動だよ? 実際には法律上の厳密な定義に該当するものではないとしても、私はそのような行動をする人物を絶対に受け入れられないし、そしてそれが人間関係の中でそれほど遠くないところにいる人物――実際、tw上でやりとりしたことすらあった――であるという事実には、これまで私がweb上で経験してきたかぎり最大の嫌悪感と具体的な(つまり現実的侵害と直結しうるという意味での)恐怖をおぼえる。今ここで言及することすら躊躇われるが、しかし同時に、指摘せずにはいられないほどの、社会が存立するための最低限の一般的マナーと相互的モラルを破る致命的な顰蹙行為としか考えられない。
  もちろん、対他的侵害が社会的文化的に容認または正当化される状況は存在する。たとえば刑罰(侵害の抑止のための威嚇)、ある種の躾(容認される線引きは時代と社会によって変わるが)、ある種のスポーツ(ボクシングや武道など。文化的正当化)、中絶(他の重要な価値に基づく)、あるいは(微妙な事例だが)身元調査、間接喫煙、等々。しかしそのストーカー遊びには、社会的道徳的文化的正当化の余地はまったく無いように思われる。少なくとも私個人は、そのような行為に及ぶ感性(あるいはそのようなモラル[の欠如])とは、絶対に共存できない。
  生理的には心底「気持ち悪い」し、個人としていえば本当に「怖い」し、社会的に見て「非難されるべきだ」と思う。カテゴリー的偏見(例:オタク差別)のように「何をするか分からない」という不安のレベルじゃなくて、(私自身を含めて任意の他者に対して)実行されてはいけない尊厳侵害行為を、実行する明確な意欲があり、実行しそうなだけの具体的な手段を持っており、それどころかすでに実際に(フィクションの中などではなく現実に)実行しており、しかもそのことを何とも思っていない(ように見える)という具体的な個人がいるのだから。




  2012年8月11日(土)
  昨日の雑記、なんだか中高生時代の自分日記みたいな青臭い味わいが……。珍しく(もしかしたら数年ぶりに)マーラーを聴きながら書いていたせいでもありそうだが、構成と結論をきちんと見定めない文章を綴ると、なんというか、地が出てしまうものかもしれない。二十歳頃まで、具体性に乏しい思考の捏ね回し的雑感日記を、だいたい毎日、二千字くらいずつ書いていたのは本当だが。……なんにせよ、書くことよりもプレイすることの方が大事なので、月末くらいまでは静かにしていくつもり。


  今年発売していた筈の眼鏡on/off可能な――もちろんここは「眼鏡を外せてしまう」と否定的に捉えるのではなく「眼鏡を着用してもらえる」という肯定的なコンセプトとして捉えるべきだろう――低価格タイトルがあったのにまだ買っていなかったのを思い出して……えーと、タイトルをすっかり失念していたので見つけるのにちょっと苦労した。『愛する妻、真理子が~』。サンプルCGを見るかぎり、激しい運動で眼鏡がずれているところが特に見どころになっているものと思われる。
  ところで、眼鏡レンズの屈折に伴う像のずれを正確に表現したCGは、PCゲームではいまだに見た憶えが無い。少なくとも漫画分野では、これをきちんと実践している者は何人もいるしこれを眼鏡描写の醍醐味の一つとして受け取る者もそれなりにいると思われるが、CGイラストではほとんど見かけない。単色漫画の記号的表現と、特有の質感を伴ってしまいがちなカラーCGとでは、事情が異なるのかもしれない。さしあたっては、出来の良い3Dエンジンが開発されればそうした屈折表現も容易になっていくであろうことを期待しつつ、眼鏡透過度をユーザーが任意に変更できるという趣味のコンフィグを備えたPCゲームがすでに存在することをもって慰めとしたい。
  (追記:)……あ、手許の所持リストを見たら、もう購入済みだった。室内を探したら現物もすぐに見つかった。これまで書籍(特に漫画)の意図せぬダブり買いは何回かあったけど、ゲームやCDの二重買いはやらかさずにいたいなあ。



  2012年8月10日(ないしょ)
  「姉」ってのは年上演技のあとーかいやさん(『BF』)とかのことだろうか。
  ……というか、声優の「姉」「妹」というスラングの意味は私も一応分かるけど、もっぱらユーザー側の隠語的婉曲表現だと思っていたので、当の声優さん自身がこの言い回しを使われたのにはかなり驚き、そしてたぶん今もまだ狼狽えている。あえて言及されたのは、あの方の誠実さゆえだろうとは思いつつも。


  役者と役のアイデンティティについての、結論の無い雑感。
  役者が自分と同じ名前の役を演じている例は、アダルトゲーム分野にもいくつも存在する。「××エレナ」役の「○○エレナ」氏や、「××結衣」役を演じる「○○結衣」氏、「××未央」役の「○○未央」氏、「××みやび」役の「○○みやび」氏、「ミア」役の「○○未亜」氏、あるいは「青山×××」役の「青山○○○」氏、「篠原×××」役の「篠原○○」氏、「○○瀬良」役の「瀬良木○○」氏のようなキャスティングも含めて。両者の同一性が設定レベルで取り込まれている特殊事例(『たまたま』の湧井咲、『夢喰い』の藤森秋穂)を別としても、実例はすでに十指に余ると思われる。このような同名キャスティングに直面した時に、私は(あるいは我々ユーザーは)どのように捉えそしてどのように評価したらいいのか。
  まず、役者自身の側では、演劇であれ実写映像であれアニメであれ、「同じ名前なので、愛着をもって演じられた」あるいは「同じ名前なので、オーディションでは是非この役をと思った」といった発言があるくらいで、総じて役者当人としてはあまり気にしていない、あるいはむしろ好意的ですらある様子が窺われる。もちろんリップサービスの側面もあろうが、それが全てだと考えるのは無理があるだろう。PCゲームにおいても、これが役者を遇するマナーとしてNGであったならば、『鉄腕がっちゅ!』は制作され得なかっただろう。それ以外でも、役者が過去に演じた役を(明示的または黙示的に)引き合いに出すのはもちろん、役者本人に関わる事実(公言している趣味、よく知られた性格、webラジオでの渾名など)をユーモラスに取り込んでみせる作中場面は、度々現れている。もしかしたら同名キャストの依頼が同名役のゆえに拒絶された事例も存在するかもしれない――当然ながら存在したとしてもユーザーは知り得ない――が、全体としては当事者はそれほど気にしていないように見受けられる。
  しかし他方で私は、こうした(どれも偶然ではあり得ないであろう)一致を見る度に、どうしても引っかかりを覚える。プレイしている最中はあまり気にならないが、ふとその事実を思い出す度に、何かどうしようもなくいたたまれない気持ちになり、そしてそれは苛立たしい棘として作品全体の印象の中に残り続ける。この心情は、当然ながら、上記のような声優自身を含む制作サイドの事情(それが他意の無い遊びだとしてもなんらかの意図のある仕掛けだったとしても)とは関わりなく、そしてそれらの事情を忖度したり尊重したりあるいはその正当性如何に向き合ったりする必要無しに、存在することができる。しかし、その他には、どのような事情や価値を考慮して、どのように考え、どのような定見を得て、この感情と折り合いをつけたらいいのだろうか。役と役者との間の単なるノミナルな混同として無視すればいいのか、あるいは非芸術的事情の介在として拒絶する資格がユーザーにはあるのだろうか、それとも役と役者の切断に関するモダニズム演劇観との関係で批判されるべきなのだろうか、またはもしかしたら役者がその役に入り込みやすくするための好都合な処方として肯定的に捉えたりすることもできるのだろうか? この慎重な扱いを要する問は、PCゲーム表現に関して私が態度決定に躊躇し、ずっと迷い続けているものの一つだ。
  この問と多少関連するかもしれないのが、「カメオ」と「当て書き」だ。映画監督や脚本家自身のカメオ出演のような例はPCゲームにはほぼ皆無なので脇へ置くとしても、当て書き(つまり特定の役者をあらかじめ想定した台本作成)は、この分野では無視できないだろう。分野の特殊性をいったん無視してごく一般的な原則論を述べるなら、「特定の役に対する特定の役者の固有性は無視してよい(両者の関連性が確保される必要は無い)」という立場を提起することは可能だ。そして、もしもこの見解を――実際には異論の余地がありとりわけ現代では必ずしも一般的に主張することはできない見解を――採用するなら、例えばゲーム作品のアニメ化に際しても、異なる役者(声優)による異なった芝居が立ち現れてくることにこそ意味と妙味があるのであって、原作の反復再現には(しかも演者の同一性を根拠にした「原作に対する忠実性」などというものには)何の価値も無いということになる。しかし、「キャラクター」要素が決定的な意味を持つ現代の萌えフィクションの特有の事情及び価値観の前で、あるいは、特有の声が明らかにキャラクターのアイデンティティと結びつけられているこの現代的なマルチメディア表現の中で、その主張はどれだけの力を持ちうるだろうか? いろいろと考えてきて、今では私は、これらの(「萌え」によって成立している)分野では声のアイデンティティを含めたキャラクターのアイデンティティ造形を肯定的に受け入れつつある、あるいは少なくとも、そのような形でアイデンティティを認めようとする人々の立場は(それが提起される場合には)それはそれで尊重されるべきだと考えるようになっている。……しかし、さて、この見方は、上の問との間でどのように折り合いをつけられるのだろうか?
  『SWAN SONG』の「佐々木柚香役の佐々木柚香」だけは、いまだに意味が分からない。プレイ中にクレジットを目にした時は、誤植を疑ったくらい。

  続編、ファンディスク、再録音などの機会に際してもキャストの同一性は基本的に維持されるが、様々な事情からキャスト変更された実例も存在する。『蝶ノ夢』は、新規キャラクターを追加し音声を再収録した2009年版では、ほとんどのキャストが入れ替わっている。同様に、アトリエかぐやは、『恥辱診察室』などの作品のDVD版に際して、旧版音声とDVD版新規音声の両方を同梱するという珍しい対処をしている(――新旧のヴォイスはプレイ中に任意に切り替えられるとのこと)。『星空のメモリア』は、FDに際してヒロイン「小河坂千波」のキャストが交替した(――「みなづき蓮」氏から「藤森ゆき奈」氏に交替。cf. [ http://www.favo.co.jp/cgi/blog/blog.cgi?id=mizuma&time=1262718414 ])。本編とFDを同梱再発売した『星空のメモリア COMPLETE』版では、本編部分にも藤森氏による新録音声を収録し、「どちらかを選択してプレイでき」るように配慮された。『マジカルウィッチアカデミー』の主人公「ツカサ」は一部のシーンで台詞に音声が付与されているが、彼が『DUNGEON CRUSADERZ 2』で主要キャラクターとして再び登場した際には、別の声優によって演じられた(フルヴォイス)。Eushullyのマスコットキャラクターも、『姫狩りダンジョンマイスター』では「作風に合わせ」た声優変更を行った(――ただし、実質的に同じ声。cf. [ http://www.eukleia.co.jp/eushully/eu10/eu010_download.html ])。ソフトハウスキャラの作品には旧作のキャラクターの再登場が比較的多く、そしてキャスト変更もしばしば生じている(――『真昼に踊る犯罪者』のヒロイン「奥平鈴」は、『Dancing Crazies』で脇役として再登場した際に声優変更。同じく『真昼~』の脇役「葵秋風」は、『雪鬼屋温泉記』でのヒロイン演技は別人キャスト。『BUNNYBLACK』の「メリル」役も、続編で交替している。サブキャラクター兼味方ユニットの「レイリン」も、これまで少なくとも三人の役者によって演じられてきた。その他、無名脇役やユニット音声などでは、数え切れないほど存在する)。 ※その他の実例について、このページの8月25日付記事で追記した。
  もちろん、これらは数少ない例外であって、たいていは数年越しの再登場であってもきちんと元の役者が宛がわれている。「ある一つの役を、ある一人の役者(声優)がひとたび引き受けて演じたならば、その役が再度演じられるべき機会が生じた場合には、その当人によってふたたび引き受けて演じられるべきである(そうするのが当然である)」という信義は一般的に存在するものと想定してよいだろう。ただし、それがゲーム会社に対する音響会社及び役者の特有の職業倫理なのか、あるいはユーザーに対するゲーム会社のキャラクターアイデンティティ維持のための信義なのか、どちらにより大きく依拠しているのかは分からないが。



  2012年8月8日(水)
  独言癖は無いけれど、たまに(意識的に)漏らす言葉がある。「くぱぁ」。なんか音の響きが明るくて気持ちいいし、事実上一音で力を込めずにさらりと発声できるシンプルさもいい。「うぐぅ」と同じような感じ。もちろん、他人の居合わせているところではけっして口にしないが、お風呂上がりの一休みにふと吐息とともに密かに声にしてみたり、眠りにつくまでの間に寝床でつぶやいてみたりすると、わりと楽しい。……ひどい話だ。


  もかちょこ氏、神経の行き届いた繊細な芝居ぶりといい、ヒロイン級キャストに連続起用される信頼されようといい、デビューしたての新人にはとても見えないぞと思ってggってみたら。


  お二人の「桃井」氏の名前を、いまだに自分の頭の中できちんと区別(識別)できず、作品紹介ページなどで目にしても即座にイメージすることができない。声道不覚悟切腹よ♪(『行殺』ネタ) とはいえ、いちご氏の声には『紅蓮華』や最近のPurple SW作品などで接していたのだし、穂美氏の出演作もいくつかプレイしていた。6月のAXL新作で(初?)共演されていたようなので、ちゃんとプレイして耳に憶えさせておくというのも一案かも。


  女性がいきなり「ブタカン」と口にするのは何度聞いても慣れない。もちろん「舞台監督」のことだが。



  2012年8月7日(火)
  意外なことに実はお姉さんキャラだった咲氏のつややかなお声も、祝桜ラジオ再生の間中ずっと聞き惚れていたくらい好きだけど、個人的には、聴く度に圧倒されるのは鈴田氏のお声。あの倍音をたっぷり乗せたような不思議な響きの発声は、私にとって理想的と言っていいかもしれない(――ただし、芝居ぶりが好きな役者さんというと、また別の方のお名前を挙げることができるが)。というわけで随分久しぶりにあのラジオ配信サイトに足を運んでいる。


  生産的とは言いがたい話を引っ張るのは申し訳なくもあるけど。
  言語慣習として捉えるとして、1)それらの中には端的に悪習と呼ばれるべきものもあれば、2)一面の不適切さと同時に(多くの場合、ごく局所的な)利益をも生む慣習もあるし、3)一定範囲の者には許されるが素人が真似をすべきではない慣習もあり、そして、それら三者の区別ができない者のことを素人と呼ぶ(循環定義めくが)、ということになるだろうか。第一のカテゴリーはともかくとしても、第二のカテゴリーは、言語慣習それ自体がコードとして機能する以上、第二のカテゴリーが存在することは否定しきれない、というか否定しても仕方ない。サロン形成のためのコードであれ、効率性のためのジャーゴン使用であれ。そして、専門化された知的言語的体系及びそれを基礎にした共同体が実在する(そしてそれらの存在は認められざるを得ない)かぎり、第三のカテゴリーに属する言語慣習が存在する余地も確実に成立する。他人との議論の中で「筋が悪い」と述べる擬似論証の言語を以前に槍玉に挙げたことがあった(cf. [ http://twilog.org/cactus4554/date-100316 ])けど、私はこれも第三のカテゴリーと考えている。実力を疑う余地の無いプロ棋士が、特定の手筋進行に関する精密かつ膨大な思考の言語化を省略してその一言で要約的にコメントする場合、あるいは、当該分野に関して十二分な専門的知識を備えているにちがいない教員が、卒論指導の際にこの言葉をもって示唆を与える場合、そうした場合には「筋が悪い」と述べることは肯定されるだろうが、そうした裏付けを持たない者がこの言葉を用いてもそれは単なる批判的ニュアンス以上の内実を持つことができない。
  私自身はといえば、ここでは、一般的な文系大卒者(のゲーマー)であれば大抵理解できる筈の語彙と文体と知識――個々の「知識」に関しては、ほんの数分ggれば察しうる程度の――の範囲内でのみ書くことを目指している。つまり、社会の部分集団の特殊な言語慣習や特別な背景知識には極力依存しないように書いているつもり。しかし実際にはなかなかそうなってはいないんだろうなあ。twでも、おまえの書いていることにはついていけない(何が言いたいのか分からん)と言われたことがあったし。


  なんとなく気が済んだので、独立の記事にした。→「アダルトゲームにおける被服表現についての私見」  この記事こそはうまく画像引用したいところだが、手持ちのSSに良い画像が無かった。いずれ追加して、記事に説得力を与えておきたい。個人的見解としては、MIN氏は『シェル・クレイル』(2003年)か『魔女の贖罪』(2004年)あたりが良いと思う。さえき氏は昨年発売の『翠の海』を見ると分かりやすいだろう。elfはどれがいいだろうか。『媚肉』あたり?


  塩小路かなたの立ち絵がちゃんと男性の体つきで描かれているという指摘を見かけて、深く得心し、そして大いに感心させられた[ tw: 229578894628503552 ]。



  2012年8月6日(月)
  アダルトゲームにおいて最も祝福されている植物と言えば、百合……ではなく、あるいは柑橘類(※ブランド名に多用されている)よりも、やはりシロツメクサだろう。『白詰草話』、『Clover Heart's』、『Clover Point』、『よつのは』。どれも、非常に個性的で素晴らしい作品。『R.U.R.U.R』にもシロツメクサ卿がいた。『四つ葉のクローバー』や『恋めくりクローバー』まではプレイしていないが。
  他に候補を挙げるとしたら、向日葵だろうか。すぐに思い出したのは『もしも明日が~』『SWAN SONG』あたり。キャラクターの名前にも「向日葵(ヒマワリ)」は何人もいるし。


  『SWAN SONG』はあまり好きではないし制作者たちのこともあまり信用していないが、あるシーンで「星月夜」だか「叫び」だかのような表現主義めいた筆致の一枚絵提示を敢行してくれた点、この一点はたいへん好ましく思っている。近時のAVGにおけるSD絵使用を(感性においてはあまり好んでいないにもかかわらず原則的立場としては)肯定的に捉えているのと同じような意味合いで、あるいは、一作毎に画風とレイアウトの全体を融通無碍に取り替えるLiar-softの挑戦的姿勢を称賛するのと同じような意味で。
  美術的様式の選択乃至変化に表現上の意味を担わせるものとしては、SDカットインと並んで代表的なのは、原画家分担だろう。ヒロインキャラクターと脇役キャラクターの間での原画分担(『えむぴぃ』『77』など)、勢力単位での描き分け(『プリスター』『恋姫†無双』)、あるいはAVGパート(立ち絵)とSLGパート(ドット絵など)の間での落差、そして作中作(とりわけ『長靴をはいたデコ』)。これらの中で最も印象的だったのは『DOOP ADVANCE』のそれだったかもしれないが:cf. [ http://twilog.org/cactus4554/date-100126 ]。

『SWAN SONG』 (c)2005 Le. Chocolat meets FlyingShine

終盤の凄惨なシーン。単一のカメラに擬せられるような擬似的写実性を一応維持した通常の一枚絵様式のままでは、この状況の全容を十分に表現する(想像させる)ことは困難であっただろう。のみならず、この荒々しいタッチはその状況の異常性を強調することにも寄与し、さらにその油彩画的印象はその場面の「視点」を担っている筈の主人公の存在及び特権性をも圧殺する。


  一枚絵の機能についての暫定的なメモ。上の話とも部分的に関連するが。
  一枚絵の価値の諸側面。1)何かが「描かれ」ている絵として。2)「特別」の絵として。3)描写のためではなく自律的な「絵」として。
- 1)描写拡充素材としての一枚絵。立ち絵/背景では賄えない専用の状況を表示する。機能面では、たとえば多人数同時表示なども。
- 2)褒賞としての一枚絵。とりわけアダルトシーンにおいて。時として、もったいをつけたエフェクトとともに(『水平線』)。
- 3)一種の無時間的象徴性。立ち絵/背景シーンの記号的抽象性との対比。
  一枚絵の外延、あるいは一枚絵の加工。差分(アダルトシーン、人物の出入り。『あかときっ!』の遊戯性)、拡縮移動(『秋色謳華』『だめがね』)、レイヤー多重分割(『MERI+DIA』、『恋色』)、運動性の取り込み(動画化、『ヨスガ』)。非全画面(『Forest』)。物量による一枚絵の解体(『わり なき』『オルタ』)、あるいは一枚絵の代替(『えむぴぃ』『カルタグラ』)。様式による解体(『白詰草話』)。「絵」として(一種の作中作、あるいは作中世界の多層化:『殻ノ少女』、『羊たちの憂鬱』)。一枚絵は(一枚絵もまた)、実際の作中「事実」の描写ではない(『おとぼく』の心象的使用)。
  もうしばらく寝かせておいて、考えが熟したらきちんと整理して公開したいが、いつになることやら。


  『その花びらに~』の一枚絵に百合を感じたことは一度も無い。異性愛の延長上の一変種にしか見えない、とまで言ったら口が過ぎるかもしれないが。視界に入る度に、「なんか違う」という違和感が頭をもたげる。


  話題になっている(らしい)アニメ批評(であるらしい)がどこの何なのかは知らないのであくまで一般的に言うと、註で文献を挙げたりもせず「~は周知」などと言い放ったら「いつ誰がそう言ったの?」と冷たい目でツッコミされるのは当然だし、「我々は」などという不適切な――大抵は不適切なものになる――主語で命題を提示したら「それってどの範囲? 違う立場の人もいるでしょ」と指摘されるのも当然のことであって、それらは受け手の無根拠な感情的反発のせいでもなければ瑣末な揚げ足取りでもなく、あるいはそれらのせいであるかどうかが問われる以前に、不味い文章それ自体の側の問題だと考えるしかない。オタジャンルの批評ならそういう迂闊でいいかげんな言語使用が容認されるというわけでもないし(※――論証の中でそうした言い回しの使用が不適切であることは以前にもここで述べたが。cf. 2012年4月18日付雑記)。
  実際にはもしかしたら、有益な示唆を含む議論に対して重箱つつきめいた反応ばかりに終始しているという残念な状況が生じているのかもしれないが、そのような他面の愚昧さはそれはそれで元のテキストとは別問題として扱われるのが適当だろうし、そもそも自分自身がそのテキストから何らかの刺激を得られたのならもうそれで十分であって、他人の愚行などは(自分自身に被害が及ばないかぎり)どうでもいい。
  ただし、現実の不幸な経験則として、ある種の(一部の)批評が共通了解を恣意的に先取りするような不必要乃至不適切なフレーズや文体を好んで使用しているのが馬鹿々々しく見えるのは確かであり、「批評」とは「学知」の補集合ではないかと――つまり、ある種の人々にとっては「批評」を名乗って発言することは知的誠実(事実を述べ判断を下そうとする際の慎重さ)を保持すべき責任を免れさせる作用(ただし単なる主観的な錯覚上のみの作用)を果たしているのではないかと――すら思うことがあるが。公平かつ相互的な吟味に対して開かれていないというこの一点だけでも、そうした言葉で紡がれた文章を低く見積もるのには十分すぎる理由になる。「批評」であるか否かにかかわらず、そこで書かれている言葉(及びそこで言及されている事実)を信用することのできないテキストなど、鼻で笑ってタブを閉じて良い。


  [ http://www.favo.co.jp/cgi/blog/blog.cgi?time=1343902877&id=mizuma&mode=disp&category=&all_disp= ]:杏子御津氏がFAVORITEラジオにいらっしゃるのか!


  先日の「胃」ラジオ(ザ36/37)で触れられていた(執事氏が閲覧していた)サイトって、うちのことだよねえ。あのラジオの過去回要約記事は、まさかweb上に二つとは存在しないと思うので。いろいろと申し訳なさもあるが、それ以上に、とても嬉しかった(――ちなみに、何年も前にじかにメールでご挨拶がてらの連絡はしていたのだけど、どうも読まれていなかったような気配だった。受信エラーか何かで到達していなかったものと思われる)。


  闇雲なS/L総当たりのAVGは「ゲームではない」と非難されることがあるが、本当にそうだろうか? 例えば『To Heart』(Leaf、1997年)は、選択肢形式による放課後の場所移動選択を基軸として物語が展開(フラグ変化)していくものであり、その際にはそれぞれの選択肢に進むとどうなるか(つまり、選択した場所に誰かが、あるいはプレイヤーが会おうとしている特定のキャラクターが、いるかいないか)は、実際に選んでみなければ分からないというものだった。選択肢文言も「1階を歩く」「2階を歩く」「家に帰る」といった素っ気ないものばかりで、内容上のヒントにはならなかった(――「美術室に行く」「神社に行く」「○○を待つ」のようには特定されていない)。のちの『とらいあんぐるハート』(janis、1998年)以降?では、『To Heart』自身のPS版(1999年)も含めて、選択候補にキャラクターアイコンが表示されるようになり、プレイヤーは自身の選択の帰結を予測しつつ行動することが可能になった。しかし、この当初の『To Heart』を、「単なる運任せのシステム」だとか「S/Lによる機械的なキャラクター登場チェックを強いられる、洗練されないシステム」だと見做すことは妥当だろうか?
  私は1997年当時のゲーマーたちの認識が実際にどのようなものであったかは分からないが、しかし、与えられた作品のシステムの中でプレイヤー自身が――「主人公キャラクターが」ではなく――目当てのキャラクターを探し求めて試行錯誤することは、少なくともマインスイーパの試行錯誤過程が「ゲーム」と見做され得るのと同じ評価軸において、十分に「ゲーム」と言うことができた筈だ。さらに、特定のキャラクターに関しては、単純にそのキャラクターだけを追っていれば済むというものではなく、「対決イベント」と俗称された好感度上昇イベントを発生させなければ必要なフラグが充足されないという仕掛けも存在した(――その発想それ自体は、『下級生』[elf、1996年]のような先行作品にもたしか存在したと思うが)。
  もちろん、「(狭義に解される)ゲーム」であるか否かという一面的な問題設定乃至価値観それ自体が妥当性を問われねばならないが、その問に関する再考を脇へ措くとしても、『To Heart』は現在の目で見ても確かにゲームであり、そしておそらくは当時のユーザー意識にあってもゲームであり得たのだと判断することはできるだろう。
  制作者がAVGの進行制御機構のあり方に対して十分に自覚的であったであろうことは、このブランドの他の作品からも傍証的に窺われる。例えば『痕』(1996年)では、常識的なプレイヤーであればきっと採るであろう選択肢の先にはバッドエンド(物語の全体像をほとんど示さないまま途絶する最初のデッドエンド)を置き、常識的な者であれば採らないであろう選択肢の先に大きな展開を用意している。そして本作は、グローバルフラグ等の自動的-不可抗的なメカニズムによってではなくこの一種の心理学的なギミックによって、予備知識無しに進んできたプレイヤーの大多数を、設計されたとおりの自然な順序で誘導していくことに成功している。しかも、もちろん、このギミックが担っているのは、一回性の「誘導」作用だけではない。このような選択肢上の仕掛けは、プレイヤーがリトライして選択を試行錯誤することを、明らかに期待している(――何故なら、そうした試行錯誤の遂行が含意されていなければ、この仕掛けは意味を成さないから。高速な「次の選択肢へ進む」機能と、プレイ回数を明示する「しおり」システムは、それを後押ししている)。


  『とらいあんぐるハート』といえば、忍者試験に失敗したいづみが主人公のところに来た場面の苦い味わいは忘れられない。自分の目標に向けて頑張っていて、その姿勢に主人公が深く敬意を持っていた女性が、その目標に迷いを持った結果として自分のところに「落ちて来ちゃった」瞬間の、その挫折と苦しみを悲しみつつも同時に彼女を手に入れ得る機会を得たことを自覚してしまった主人公のその罪悪感。彼自身は好人物であるだけに尚更、プレイヤー(読者)はその罪悪感が非常に真率で重大なものであることを素直に受け入れ、かつ、余計な事情を含まない純粋に倫理的な問題としてそれを受け取ることになった筈である。


  ちょっと躊躇しつつのメモ。気まぐれにnavbarの「次のブログ>>」をクリックしてみたら、日本の商業アダルトゲームを中心としたデジタルゲームを紹介している外国語ブログ:[ vnmaniac.blogspot ]に行き当たった(――本文はすべて英語で、『ライディ』などは英語版を参照しているが、プロフィール欄を見たらインドネシアの方であるらしい)。発売日(もちろん日本での)、導入部分(要約)、それからゲーム画面のスクリーンショットなど。特に、自前で撮ったとおぼしきSS群は、作品毎に6枚ずつ、しかも一枚絵だけでなく立ち絵シーン、選択肢場面、(SLG作品では)システム画面も律儀に掲載されており、これはわりと便利だと思ってしまった。SSのチョイスもなかなか良い趣味。ただし、少なくとも日本法に従うかぎり、正当化される引用の範疇を超えていると思われるのが残念な点だが。
  ちょっと面白かったのは、これらをすべて「Visual Novel」と総称しているところ。『零式』や『Galaxy Angel』は「Strategy Visual Novel」だし、『ライディ』や『サクラ大戦』は「RPG Visual Novel」、そして『ひだまり』などのAVG作品は「Love Simulation Visual Novel」という、現在の日本ではまず使われていないであろう呼称。「RPG(ゲームパート) プラス Visual Novel(AVGパート)」といったように理解すれば筋は通るが。

  日記ブログ一般を嫌っているわけではない(他人は他人で任意の価値観で行動していればいいと思うし、それらが各自にとって主観的に幸福である方が私にとっては危険が少ないと思う)けれど、自分自身が自己の実生活上のプライヴァシーを駄々漏らす日記ブログ子になるのはまっぴらなので、ここではゲームに関して少しでも意味のあることを(つまり、書き残される価値のある事実と、それらに関する根拠ある判断を)、そしてそれだけを、できるかぎりの責任をもって書き留めて公開するようでありたい。
  ……とはいえこの姿勢は、望ましい価値に関する信念の表明であるというよりは単なるプラグマティックな利己的動機に根ざしたものであって、実際にはたいして有意義でもないとしても、実際には発言の(少なくとも道義的な)責任を取りきれてはいないかもしれないとしても、そして実際にはほとんど読まれていないとしても、それらを目指すことそれ自体が私にとって自分の活動のための一種のインセンティヴとして機能しているという理由から、これを採用しているようなものだが。そして、こんなことを書いておきながらこの有様だが。

0 件のコメント:

コメントを投稿