2012年8月15日水曜日

PCゲームにおけるラフ画像使用についての覚書

  PCゲームにおけるラフ画像使用の実例及び効果についてのごく簡素な覚書。


  PCゲームの中に単色ラフスケッチ画像をそのままの形で取り込んで使用しているものは稀である。その原因としては、1)解像度の低い時代にはラフスケッチの筆触を表現することが困難であったであろうという歴史的経緯、2)原画をあくまで素材と見做し、斉一なスタイルで隙のないかたちで着彩されたCGこそが完成形態であるとする様式的観点、3)美しく着彩されたCGの価値――いわゆる「美麗イラスト」としての美的価値と、とりわけユーザーに対する褒賞的価値――を重んじるゲーム特有の価値観、などがあると考えられる。しかしながら、そして当然ながら、この禁則は絶対的なものではなく、実際にも原画のままの画像や無彩色画像をそのまま提示する試みは実在する。本稿では、それらのいくつかを概観し、それぞれ簡単に検討を加えていく。

  この観点でまず重要な作品は、『白詰草話』(Littlewitch、2002年)である。連続放映もののTVプログラムを模した10話構成を採るこの作品では、各話の終わりに毎回エンドロールが流れるが、そこではその話(回)の本編で使用されたCGのラフ画像(下絵原画)のいくつかがスライドショー的に表示されていく。それらの正式な(きちんと着彩された)CGは、本編中にあってはFFDシステム(註1)の下でそれぞれ特有の形に(いわば漫画の齣絵のように/あるいは個々の映像ショットのように/あるいはカットインとして)区切られてその都度複雑に組み合わされつつ全体としては一つの形に留まることなく推移していったものであるが、エンドロールパートでは、FFD表現の濃密な劇的緊張からほどかれ、各画像を規定していた息苦しい枠とそれらを締め付けていたタイミング制御からも解放されたラフ画像たちが、黒背景の画面上に静かにゆるやかに広がっていく。しかも、それらの下絵画像の中には、原画家からの指定コメントや余白の落書きが残されているものもあり、そしてまた、本編では使われていなかったと思われる画像すら含まれている。このように、形態(単色ラフ画像)においても内容(描写されている物事)においてもそれらが現れる仕方(無時間的提示)においても、つまりあらゆる意味において、本編の進行表から自由にされたこれらの画像のシークエンスは、まるで本編の物語から遊離した夢のように感じられる。そしてその「絵」としての感触は、プレイヤーの意識と感性をいったんクールダウンさせ、そしてその生成途中にある描線の印象を通じてFFD表現それ自体の構築性を、距離をとって俯瞰することを可能にし、さらにはその回顧的表出によってその回の物語の印象をいわば「いったん額縁の中に収め」てその都度物語進行に節目を与えるものとなっている。
【註1】 LittlewitchのFFDシステムについては、演出論Ⅰ章1節を参照。

  あるいは、『こみっくパーティー』(Leaf、1999年)のOPムービーとEDシークエンス。EDの方は、ヒロインたちの設定原画とおぼしきラフスケッチ群が入れ替わり表示されていくもので、これは上記『白詰草話』と同じような捉え方をすることができる。他方でOPムービーのある箇所では、あるヒロイン(「高瀬瑞希」)の画像がラフスケッチ→クリンアップされた線画→トーン貼り付け→フルカラー化と次々に変化し、最後にまばたきする。この作品は、同人漫画作家を主人公とする作品であり、物語はしばしば創作に携わる者のアイデンティティに踏み込んでいく(――例えば、良い作品と売れる作品との矛盾、才能の限界に直面した者の苦しみ、趣味同人作家と職業漫画家の間での選択など)。しかも、このようなコンセプトから察せられるとおり、作中にはフィクションとしての自律性を茶化すような表現も時折現れる(――例えば、作中キャラクターが画面上の特殊効果や選択肢文言に言及する場面があり、また、本作の原画家を含む実在の同人作家たちに原稿依頼することができる)。このような作品コンセプトに照らして、このOPにおける瑞希画像変化は、漫画の成り立ちや漫画創作現場へとプレイヤーの意識を向けさせるという意味で、そしてもちろんPCゲームの成り立ちに対する再考を促すという意味においても、この上なく本作に相応しい表現であったと言うことができるだろう。
  『こみっくパーティー』と同じチームが後に制作した『天使のいない12月』(Leaf、2003年)も、OPムービーで本編イベントCGのラフ画像を大量に使用し、その筆触のざらつきと迂遠さそして色彩感の希薄さによって特異な効果を挙げている。ただしその後のLeafは、アニメーションOPへ強く志向していくが。

  その他の諸事例。
  a)位相の異なる描写であることを示すために(例えば回想上の場面であることを意味するために)ラフスケッチ画像や原画の線を残した浅塗りの画像を用いる手法、あるいはその筆触の荒々しさによってその場面に殺気立った印象を付与するために使用するアプローチもある(――『想い出の彼方』[PL+US、2000年]の回想表現、『ONE2』[BaseSon、2002年]の回想表現、『めぐり、ひとひら。』[キャラメルBOX、2003年]のラフ画像使用、『えむぴぃ』[ぱれっと、2007年]の線画使用、等々。とりわけ『えむぴぃ』は、ラフ画像のみならず、線画立ち絵、単色立ち絵、陰影を強調した特殊立ち絵、SD画像等も含む様々なスタイルの画像を、その楽屋落ちギャグに満ちたスラップスティックコメディの中で縦横無尽に活用している)。
  b)また、作中の登場人物が絵を描いている時、その絵の下絵状態がラフスケッチとして画面内に現れる場合もある(――たしか『Canvas』シリーズ、『屍姫と羊と嗤う月』、『殻ノ少女』、『夢喰い』などにあったと思う)。これらも、位相の相違を表示するための機能的な使い分けと言えるだろう。
  c)同様に、描線を極端に崩したSD画像も、その場面の特定のムードを表すための機能的変化であるが、これらも時としてラフスケッチの印象に接近しうる(――典型例として『君が望む永遠』[age、2001年](註2))。
  d)その一方で、本編部分に含まれない箇所でラフ画像を使用する場合もある。とりわけ多いのは、OPムービーの中でラフ画像や線画画像を素材として使用するものである(――『Piaキャロットへようこそ!3』[F&C/FC02、2001年]、『バルバロイ』[xuse、2005年]、『クロウカシス』[Innocent Grey、2009年]、等々)。メニュー画面の背景画像としてラフ画像を表示している作品もある(――『誰彼』[Leaf、2001年])。下絵ではなく線画レベルだが、『ワンコとリリー』(CUFFS、2006/2007年)では、エンドロールの画像が下絵段階から順次彩色されていき、最後に一枚絵(タイトル画面の画像)として完成するというものがある。
【註2】 『君が望む永遠』のSD画像表現については演出論Ⅳ章4節1款δを参照。

  しかしながら、そして残念ながら、これらは今なお希少な例外であって、基本的には、斉一なスタイルで着彩完成されたゲーム画像空間が崩されることはほとんど無い。現代の商業PCゲームがいかなる美意識といかなる価値観に基づいて成り立っているかを窺わせる一側面としてこの生真面目な着彩維持慣習は興味深く、また他方で、本稿が紹介検討してきたいくつかの事例はPCゲーム表現のさらなる可能性を開拓するものとして評価されるべきであろう。


『白詰草話』 (c)2002 Littlewitch

(図1:)第2話EDより。クレジットに合わせて、本編部分で使用された画像の原画画像が、黒白反転された落ち着いた印象で行き来していく。

(図2:)上記図1の画像は、本編部分ではこのような形で使用されている。カラー彩色されているのはもちろん、画像サイズも異なり、左右に白い遮蔽エフェクトが掛けられており、さらに(左記引用画像だけでは分からないが)横スクロールする。



(図3:)第6話EDより。この画像は本編部分では使用されていない。没画像か、あるいは原画家の手すさびによるイラストであろうかと思われる。原画家自身によるとおぼしきコミカルな台詞の書き込みもそのまま残されている。その軽みは、この話数制進行のストーリーに、柔らかく節目を設ける。

『めぐり、ひとひら。』 (c)2003 キャラメルBOX

(上図/下図:)ラフ画像や単色化画像は、正式なフルカラー彩色画像と対比的に使用されることによってさらなる複合的効果を生むことがある。


『ワンコとリリー』 (c)2006/2007 CUFFS

(図1:)エンドロールに添えられている画像は、単色の線画から始まって、全体に色が乗せられ、陰影が施され、細部が描き込まれ、つややかな瞳が仕上げられるところまで変化していく。
(図2:)最後の完成状態。男性主人公が、幼馴染ヒロインと一緒に、ヒト型ペット2匹を連れて散歩するという風変わりな短編がこのような形で締め括られるのは、ミニマルな関係を丹念に形成していくデリカシーを暗示するものであろうか。

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