2012年8月15日水曜日

主題変奏型BGMについて

  主題-変奏型BGMについて(再叙)。cf. 演出論Ⅳ章4節2款α


  主題-変奏型BGM編成は、映像分野と同様にPCゲーム分野においても支配的な作曲形態となっているように思われるが、その造形及び用法は大きく異なっている。雑駁にまとめて言えば、洋画にしばしば聴かれるのは機能的な作曲方針と断片化された(つまり認識されにくい)使用であり、国内アニメにおいては主題歌(OP曲)を元曲としてBGMの多く(全てとは限らない)が比較的分かりやすい形のアレンジになっているものが多数存在する。それらに対して、現在の国内アダルトゲームにおけるBGMは、同じように主題変奏型BGMを採用しつつも、
  1)主題歌と連動したBGMである例は相対的に少なく、また
  2)BGM各曲が相互に主題-変奏的関係にあることはあまり強調されない
という傾向が強く見られる。一作品内のBGM群が、実際にはそうした共通性の下にある場合――これが現在のアダルトゲームBGMの多数派であろう――でも、おそらく一般的なユーザーにはそれと認識されにくい(と思われる)水準で各変奏が作曲されているのが通例である。

  ここで私の関心と疑問は、「他分野の多くの実例のように、もっと認識しやすい形の変奏/アレンジにしないのだろうか? そして、意図してそうされているのなら、それは何故だろうか?」という点にある。既知のメロディがその基本的輪郭は維持しつつもその趣を変じて再度提示される瞬間の感興は、ゲーム作品であれ映像作品であれ、そして主題変奏であれ旧作BGMの再登場であれ、音響表現に最低限の注意を払っているユーザーであれば誰でも何度も経験しているものだろうし、そしてその感興がけっして小さくないどころかむしろしばしば知的情緒的な感動と感覚的な痛快さと結びつくものであることを経験上知っているだろう。それがPCゲームにおいては何故こうも隠微な形でしか遂行されていないのか。

  その理由(事情)については、さしあたり二つの側面から二つの推測を提示することができる。一つはPCゲーム表現の特殊事情に目を向けた分野内在的、媒体内在的な視点であり、もう一つはPCゲーム制作過程に関する表現外在的、社会経済的な推測になる。前者について私が考えているのは、BGMが流される「長さ」の効果である。20時間、30時間、あるいはそれ以上の時間をユーザーに要求する現代のAVGにおいては、一つ一つのBGMが流されるスパンも長ければ、それらのBGM群を聴き続ける総時間も長大なものになる。それゆえ、その長いスパンを保たせるためには単なる「変奏であること」以上の聴くに堪える品質が各曲に求められるし、また変わり映えのしない変奏群でユーザーを飽きさせてしまわないようにする必要もあるだろう。劇場アニメのわずか2時間であれば、あるいは連続アニメの毎週二十数分ずつであれば積極的な表現効果となるものが、AVGの20時間の中では「食傷」の効果をもたらしてしまう虞があるし、私個人についても実際にそうした食傷の経験はある(――失礼ながら名前を挙げると、『Aster』はまさにそうだった。ちなみに、これと同じ理由で『ラピュタ』も私は二度と視聴することが無いだろう)。ユーザーをうんざりさせないためには主題-変奏表現は必ずしも優先されるべき考慮とは限らないという立場は、十分考えられるものだ。

  後者は、主題-変奏スタイルのBGM編成をもたらす制作過程に関する、いささか気の滅入る想像だ。何故このスタイルがこれほどまでに普及しているのか。単純な回答の一つは、映画劇伴がそうであるように、作曲上の効率性を指摘するものだろう。また、現在のPCゲームの多く――統計を取ったわけではないが――では、主題-変奏型BGMが主題歌とは連動していない場合が少なからずある。これは主題歌とBGMとがそれぞれ別個に(つまり別の作曲家に)発注され作曲されているという事情ゆえであろう。PCゲーム音楽制作に関するこれらのような事情の下で、主題-変奏型BGM編成を持つ作品がその主題-変奏型BGM編成を強調すべき表現上の理由は無い。その共通主題それ自体には何の意味も価値も無いのだから。

  しかしながら、にもかかわらず、いくつもの優れた作品において主題-変奏型BGMが非常に美しい統一感と反復再現の快感をもたらしてくれていることは確かだ。結局のところ、少なくとも私の経験の範囲内では、上記の二つの推測はあくまで「弱い」理由に過ぎず、それを覆すのはけっして難しくないと思われる。

  (2012年2月23日:公開。同年8月15日:単独記事化)

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