2012年9月6日木曜日

経過報告(9)

  日々クリッククリック。(ゲームのしすぎで指が痛い)


  2012年10月23日(火)
  去年くらいまではとにかく一本でも多くプレイすることに齷齪していたのだけど、最近ではプレイ本数に拘泥する気分ではなくなっている。一本一本を、その一クリック一クリックの成り行きを、ゆっくり味わい尽くしたい。SLG作品でもユニットの動き一つ一つを見ているだけで本当に楽しいし、AVG作品でもヴォイス一つ一つを玩味しながら、あるいは移りゆく立ち絵差分の一つ一つに見惚れながら、読み進めていきたいと切に思う。すべてが愛おしい。……なんだか枯れすぎ?

  ゲームに限らず、昔よりもいろいろなものがより良く分かるようになってきたという実感はある。たとえば音楽にしても、何度も繰り返し聴いてきたディスクでも、最近になってあらためて一つ一つの音とそれらの関係がもっと細かく聴きとれるようになってきた。漫画にしても、数年前の一時期は1ページに含まれる大量の情報量に圧倒されてほとんど読むことができなくなっていたのだけど、これまたごく最近になってようやく適切な距離感とともに――いわば「覚めた感動」とともに――正面から付き合っていくことができるようになった。これら以外の諸々の創作物についてもそう。



  2012年10月21日(日)
  「VOICE ACTRESS CONCERTO! Vol. 5」(杏子氏/遠野氏/東氏/御苑生氏)を目当てにTG誌を買ってきたのだけど、ボイスドラマなどの音声コンテンツがDVD-ROMには収録されておらずTGサイトからDLさせる形式で、しかも雑誌発売日時点ではまだ準備中だなんて……いろいろとひどくないか。
  とはいえ、杏子氏がツインテ眼鏡っこだ!(そういうイラストが掲載されている)とか、遠野氏の自筆イラストを見ることができる(筆触感があって可愛らしい)とか、東かりん氏はやっぱり紫色のイメージなんだなあ(『ヴェルディア幻奏曲』?)とか、御苑生氏は広島のご出身なのか(たしか民安氏も広島出身)とか、そしてもちろんキャリアやバックグラウンドや役者としての意識のあり方とか、読んでいてたいへん面白かった。
  別掲のVAC紹介記事にも加筆しておいた。


  [ http://www.giza10.com/soft/utahime/ ]:なんだか懐かしい趣が。midi時代を思わせる。
  『さよならを教えて』のAndrd版も発売されている模様。オリジナル(PC版)って最新のOSでも起動するんだろうか。



  2012年10月20日(土)
  昨日の効果音流用の記事に少し加筆した。やっぱり制作現場の理解やコストの考慮についての認識がかなり異なっていて、それが立場の相違と議論の齟齬をもたらしているように思われる。



  2012年10月19日(金)
  SE流用をめぐって、もう一度自分の考えを跡づけてみた。書いてはみたものの、うまく整理できていないし結論も不毛なので、別ページにパージした(→「PCゲームの制作素材再利用について」)。


  全体として『まじの』はむしろ好きな部類。木村氏主演というだけでとても嬉しい作品けど、それ以外のいろいろなところも。考えが熟してくるのを待って、いつかなんらかの形で言及しておきたい。


  [ http://www.favo-soft.com/radio_oublie/ ]:ホルモンを食すメアの姿が想像できない。
  元作品をプレイしたのはしばらく前のことなのに、そしてBGMはそれほど好みでもなかったのに、ラジオにゲームのBGMが出てくると途端に体が熱くなる。音楽体験ってすごい(そういう問題か?)。



  2012年10月17日(水)
  一部のゲーム「批評」連中が害悪である理由の一つは、彼等の多くが「これは俺が言った、この指摘は俺のものだ」という愚かな発想をしている点にある。これは、ひとの発言に対して「そんなことはすでに言われているよ」と述べて議論を終わらせようとする排除的姿勢とも通底していると思われる。このような姿勢が誤っておりそしてしかも害悪である理由は本来説明する必要すら無いと思われるが、その最大の問題は「公平かつ継続的な再検討を拒絶している」という点にある。作品に対する解釈や分析は属人的に占有されるべきものではないし、また一度述べられたからといって全ての「問題」が完全かつ最終的に解決されるということは通常あり得ない。それらは事実に照らして――つまり既存のそして常に新たに現れつつある個々の作品に照らして――不断の吟味と批判と改良に晒されるべきものだ。作品受容の営みを排他的に秘儀化し、あるいは自らの(はりぼての)特権や自尊心を造営するための道具とし、あるいは一度述べられたからといってその地点で思考停止することは、対象(作品)を巡る言論のあり方として最も愚かなものだ。一言でいえばそれは「まったくもって知的でない」し、嫌みを言うなら「相変わらず文壇や批評界の悪い部分ばかりを模倣しているようにしか見えない」。十数年経っても内部的な批判と改善が働いていない(ように見える)のも、上記のようにいびつな姿勢の蔓延した集団の中ではよくあることなので、今後ともあのまま枯れ果てていくのであろう。十年間乗り越えられないほどの十分な解決を提示できるような才能ある者であれば、そもそもそんな停滞したグループに帰属し続けはしないだろうし。
  まともな人であれば、「俺しか言っていない」ことを誇るよりも、自分以外の人々もとうに解っている(そして実際に語られているか、あるいはただ単に明言されていないだけである)という可能性を考慮するだろう――自分の判断が正しいと信じる者ほどその蓋然性を高く見積もるだろう――し、もしも自分以外の誰もそう言っていないならば自分の判断が誤りであるか瑣末な問題であるという可能性を考慮するだろうし、そして、正しくかつ重要であると信じられるにもかかわらず本当に誰もそのことを(気付いているとしてもいないとしても)述べていないならそのことを残念がるだろう。つまり、「俺しか言っていない」ことを誇るのは見識の狭いバカか本当の天才だけであり、そして後者である可能性は限りなく低い。

  もう言及する価値もないと思っているが、このような発言がたまたま視界に入ってきて非常に不快だったのでここに吐き出しておく。しようもない虚栄心とセットでなければ創作物について語ることのできなくなった人(たち)は、つまり作品批評を自尊心のための道具として弄ぶような輩は、早急に引退して口を噤んでほしいなあ。以前から同じような(そして実の伴っていない)我のみ尊し的発言を繰り返していた人物であることは、不幸にして憶えている(――たしか、とりたてて特別でもない指摘を、普通のゲーマーたちはこのようなことに気付いていないだろうという侮りと、自分の批評を実作者たちは読んでいる筈だという虚栄心と、自分たち[いわゆる「批評」志向の一部集団]は特別なことをしているのだという妄信と、そして創作物及び作者に対する憐憫[!]の素振りというグロテスクな思い上がりを綯い交ぜにしつつわずか140字のテキストに収めたすさまじいものだった。もはや笑うに笑えない)。

  個人的には、「ひとはなんらかの特定の具体的なバイアスを外部から埋め込まれなければ本来"正しい"判断ができるものだ」というようなことはまったく信じていない。それは例えば数学的認識の正しさについてもそうだし、政治的社会的判断についても同様だと考えている。それは人間の能力及び性質に由来するとともに「正しさ」それ自体の性質にも由来する現象だろう。そして人の知識及び学習にももちろん限界があり、「学ばなければ(教えられなければ)分からないこと」は無数に存在するのに対して、個人がそのために投資しうる時間的コストは限られている。だから、基本的には、個人の偶然的個別的な誤謬乃至無知に対してはある程度寛容でなければ対話は立ちゆかないと割り切っている。重要なのは状況をその場から将来に向けて改善していくことであって、そしてそのために可能なかぎり公平かつ理解可能な説明を提示しようと試みること、相手の説諭を真摯に受け取りその都度その主張及び論拠をきちんと再検討すること、そのような知的誠実を果たす意外に議論の前進は無い(――なお、小中学生のような若年者に対する「教育」は、そもそも対話に含まれるかどうかが疑わしい)。

  物事は語られなければ残らない(、あるいは、語られないものは知られないまま失われていく)ということは実際にあるのだし、そしてそれゆえ価値があると考える物事を語り残しておくことは意義のある活動だと考えている。以前(2012年6月11日付雑記)にフィクションの舞台探訪写真の意義について否定的に述べたが、あの評価は偏り過ぎていたと反省している。実在のある特定の場所が当該作品の(画像上のorイメージ上の)ロケ地であったこと、あるいはそもそもロケ地と考えられる実在の土地が存在したということは必ずしも自明ではない。それゆえ、第三者にも検証できるような公平な形でロケ地を紹介し証明するために、作中の描写に合致する現地画像を撮影してweb等で公開することは、十分価値のある仕事だと思う。ただし、そうした事実を知ることが作品理解に寄与するかどうかについては、私はけっして牧歌的に考えてはいないが。


  きたがわさむい氏は好きではないが、もしも地方都市ものの新作として鯖江市を舞台(モデルまたはロケ地)にしたAVGを書いてくれるなら是非買ってプレイしたい。もちろんヒロインは全員メガネ着用。


  そういえば、特殊な"共演"機会としては『クロノベルト』と『姫狩り~』の他に、『あかね色~』(「白石なごみ」役のみる氏と「白石ゆとり」役の青川ナガレ氏)もあった。『英雄*戦姫』の沢村氏と波奈束氏もそうだとされているようだが、私には自信を持って判断できない。


  一口に「効果音」と言っても、たとえば1)システムSEなのか、2)雨音のような背景効果音なのか、3)ギャグ演出用の(つまり非写実寄りの型通りの)SEなのか、4)特定の状況に即したSEなのかによって、SE使い回しに対する評価のための前提も変わってくると思うし、それらの中で最も要求が高くなるであろう最後の場合ですら、複数作品での使い回しは一概に批判されるものではないだろう。それが「駄目」だとされるべき理由が、つまりそれが「怠慢」だとして非難されねばならないという価値観が、私にはほとんど理解できない(――もちろん、市場的業界的観点から、SE制作は外注化されることが多いとか、汎用素材が数多く販売されているとか、テキスト等による描写に対して従属的補充的かつアドホックに用いられがちであるため制作工程上の自立性や計画性を持ちにくいとかいった様々な事情を指摘することも可能だが、それらを措くとしてもなおも)。複数の場面の間で立ち絵が同じままであるような現代AVGの記号的表現空間について、複数の作品の間でSEが同じであったとしてその事実はそれほど強い批判に服するのだろうか? 私にはそうは思えない。もちろん、その都度の場面に合わせて適切なSEが用意されるのがベターなことである(作品の印象を可能なかぎりより良くしようとする、丁寧な仕事である)ことは疑わないとしても。
  私見ではむしろLiar-softのSEこそは、例外的に使い回しが最も強く肯定される特殊事例だとすら考えられるので、Liar-softを批判の槍玉に挙げていること自体、理解に苦しむ。あのブランドは、出演声優の極端な――おそらく自覚的であろう――固定化からも窺われるように、いわば「劇団・嘘屋」のような興行性を受け入れたところでやっていると思われる。だから、特定の演劇集団が毎回同じハコで同じ舞台装置のあるステージで同じ役者たちが異なった演目を上演してもその「同じ」であるという事実それ自体は非難されるようなことではないのと同様に、Liar-softのエンジンやSEが代わり映えのしないものであっても、私はそれが表現上の失敗や無思慮だとは思わない。そのぶん演出は、原画家選定から彩色スタイルからレイアウト(立ち絵やテキストの表示形態)からミニゲーム組み込みに至るまで、その都度様々に趣向を凝らしているのだし。[ 258240854127419393/258241178741403648 ]

  SEのみならず、BGM流用や背景画像流用も、実例は少ないながら存在する。面白い例では、先日プレイしたSTG『淫力吸しゅ~!』は各ステージのBGMとしてどうやら同社旧作群の主題歌が流用されていたようで、それ単体として見ると非常に贅沢なものになっていた。



  2012年10月14日(日)
  最近でいえば例えば『英雄*戦姫』で、遠野ヴォイスの酸いも甘いも噛み分け(たかのような素振りでい)たシニカルかつ野心的な喪服喫煙美人さんすらヴァージンだった時は、私もひとたび自分の目を疑ったのちテキストを見直して唖然としそして爆笑をこらえるのに苦労したものだけど、しかし考えてみるとその違和感がどこから来ており何によって正当化されるのかは必ずしも自明ではないのかもしれなかった。1)性表現に関する特定の(いわば一種の)社会的-理念的-イデオロギー的立場との関わりで捉えられるべきなのか、それとも2)あくまで作劇上の分野的-構造的-内的事情とともにある現象として(あるいはコードの一つとして)理解されるべきなのか、あるいは3)創作物もまたおよそ個人の現実的経験の一つとして受け取られるという条件からしてほとんど逃れがたい「常識(通念)」に照らしてその当否が評価されてよいものなのか。
  これまでたいして深く考えてこなかった私の現時点での暫定的な立場としては、「建前としては、フィクションの自由さを前提として、基本的にはどちらに対しても規範的主張を提起するつもりは無い(規範的主張を提起する権限が受け手には存しない)」が、「個人的には、少なくとも、ヒロインが痛がっている描写は好きではないという一点で、初経験描写には好ましくない要素が含まれ、そしてそれ以外にもどちらかといえばデメリットの方が多いと感じており」、そして「現実的判断としては、(殿方向けの)恋愛フィクションとしての事情を尊重して、そうである場合には受け入れるしかないと割り切っている」といったような見解になるのだと思う。
  特有の分野的/商業的/技術的な要請に基づく合理的な処理の結果として(それ自体が特定の価値を表現するものとして、または副産物的な帰結として)、受け手の常識に対して軋みを生じるような描写が成立してしまっているという点では、たとえば「ローティーンの凄腕剣士という、常識的にはあり得ない設定」、「何故かそれぞれ四大元素を体現している中ボスたち」、「何故か日本に集中して怪獣たちが立て続けに襲来すること」、「弾切れの無いSTG自機」、「物理法則を無視した対戦格闘キャラクターの動き(例えば小パンチ一つで巨漢の跳び蹴りを撥ね返せる)」、「もしも現実に行ったら顰蹙ものであろう過激ギャグ行為」といった描写が現実基軸の目で見れば不自然極まりないものであったとしても受け入れざるを得ない、というのと同一地平上で捉えられるべき事柄なのだろう(か?)。



  2012年10月11日(木)
  件の藍澤光バースデイ壁紙が公開されているのだが、瞳の中にハートマークを描き込んでいるそのセンスは、日本のキャラクターイラストシーンの最先端の流儀をいち早く取り入れたものとしか……(例:PCゲームでは、2011年の『大帝国』に続いて、2012年の『紅蓮華』『英雄*戦姫』が代表的。他分野では例えば『夢喰いメリー』は漫画版第1巻[2008年]の途中からすでに瞳孔の四角デザインが始まっている)。もちろん漫画等では「ハートマーク型の両目」や「3の字型の裸眼」あるいは「目の中の無数の輝き」といったデフォルメが以前から存在したが、カラーイラストキャラクターの瞳の中に特定の記号化された表情表現的or性格表現的な造形(ハート、大きな星、十字架など)を組み込むスタイルは、私の経験の範囲内では「ごく近年の出来事」に位置づけられている。遡ってみれば、あるいは視野を広げれば、まだまだ他にもあるのだろうか。奇抜瞳孔といえば『ねがぽじ』(2001年。複雑な幾何学模様)、『腐り姫』(2002年。赤い長方形の瞳)、『明日の君に逢うために』(2007年、正方形の瞳)などもあるが、ただしこれらはいずれも異種族らしさを明示するための瞳孔デザインと考えられ、性格表現や表情表現のためではないと考えられる。
  流行のきっかけはPCゲームではなくて『閃乱カグラ』(2011年)の「雲雀」かなあ。


  PCゲームに限ってみても、私は90年代(要するにXPより前の時期)をよく知らないんだよね……。90年代の作品は、いくつかの有名タイトルを除けば「名前すら知らない」レベルのものが多いし、いまだにほとんど手を出せていない。2000年代初頭もかなり怪しく、プレイ経験と知識がなんとか備わっているのは2003年作品くらいから。そこそこの知識があると言えそうなのはせいぜい06-07年以降だろう(――もちろんそれ以前の時期は他分野の趣味に目を向けていたわけで、それらの分野については90年代のものに知識及び蔵書が偏っていたり、あるいは00年代前半あたりまでしか知らなかったりするが)。いずれにせよ私の知識は本当に貧しいものだし、そして私よりもはるかに詳しいゲーマーの方々がたくさんいらっしゃる。もちろん後者は喜ぶべき事実だが。
  例えば「1995年発売作品をその当時18歳以上としてプレイできた人」というのは、2012年現在では35歳以上という計算になるが、この数字がどれほど高い時間的ハードルなのかは私には判断できない。しかし、以前にtwで交流させていただいていた方々の中には、ゲーマーキャリアからしておそらく30代半ば以上(あるいはもしかしたら40歳以上)の方が何人もおられたので、90年代のPCゲームシーンを経験してきた現役ゲーマーは案外たくさんいらっしゃるのだろうかという希望を持ちつつある。将来に向けての懸念は、むしろ、個々の(未プレイ/既プレイ)作品に対する私の興味が失われるより先にそれらの作品に対するOSの対応が失われる方が早いのではないかという点だ。


  ひとの趣味は変わるか変わらないのかという問について、私個人に関していえば、「関心対象の『範囲』は緩慢に広がり続けており、関心を喪失するようになった分野というのはあまり無いが、他方でそれらに対する『視点』(理解のアプローチまたは評価のための視点)はしばしば劇的に変化してきた」と言えるかもしれない。以前に強い関心を持っていた分野も、活発な「開発区」ではなくなったとしても「旧市街」に呼べる程度にはずっと維持されている。


  ソフトハウスキャラのエンジン(systemAoi)には、F10キーによる特殊システム設定画面で「マウスの左右ボタンを入れ替える」という機能が実装されている。このようなコンフィグを実装しているゲームエンジンが他にあるかどうかは寡聞にして知らないし、左利きのゲーマーにとってこの機能がどれほど有用であるのかは私には分からないが、気の利いた配慮だとは言えるだろう。



  2012年10月10日(水)
  『門』クリア。いくつか脇筋イベント回想が埋まっていないが。
  「BugBug」2012年11月号(p. 192-3)に攻略情報があるが、ED条件と作中作発生条件くらいしか記載されていない。



  2012年10月7日(日)
  SHC新作、ほんの60ターンずつの高速周回プレイが楽しい~。戦闘を何度か挟んでも1時間かそこらで一周回できるくらいの規模で、周回プレイのその都度生起してくる幕間イベントも色とりどりでいわば万華鏡のような多様性がある――つまりランダム性の下でのその都度の成り行きの偶然性と一回性そしてそれに伴う体験的感覚が。そして、反復プレイの中でそれらのイベントの発生フラグが見えてくるにつれて、システム全体への参加者(プレイヤー)としての自分がよりいっそう自覚的能動的に動けるようになり、それとともにシステムの側からのリアクションの意味もより深く正確に把握できるようになり、要するにこのゲーム世界の運行が理解できるようになっていく。このようなシステムと出来事とプレイヤーの絡まり合ったSLGの動態の面白さと不思議さを言葉で説明し尽くすことは、おそらく私にはできない。



  2012年10月3日(水)
  『門』のプレイメモは一区切りついてから公開する予定。



  2012年10月2日(火)
  今日は杏子氏出演作品をプレイしたい気分。声量と調子を抑制した芝居においてすら常に聴く者の耳をそばだてさせる存在感は、この現代のデジタル複合メディア表現シーンにとってたいへん貴重なものだ。この素晴らしい役者さんの幸いの永からんことを。



  2012年9月30日(日)
  夜を徹してSLG (自由律)



  2012年9月28日(金)
  『英雄*戦姫』の原画集とVFBが発売されていたのをようやく知ったところ。
  不思議なことに、そして残念なことに、tw等でご縁のあった方々が(SLG系ゲーマー諸氏すら)ほとんど誰もプレイしていないようだが、とても良い作品であることは間違いない。全体としてはオーソドックスな設計だが、戦闘パートはスキルや配置の楽しさというスパイスが効いているし、ミッション実行型のイベント管理システムは『少女魔法学』以来の巧みなフラグ制御によってドライヴされていて面白味があるし、そしてなによりキャスティングが素晴らしい。小倉ヒミコの軽やかな登場に始まって、青山信長の華麗な啖呵と北見タケルの重厚な口吻、木村アーサーの可憐な演技、遠野コロンブスの孤高の淑女ぶり、そして比較的まっとうなヒロインを演じてきた佐本氏に電波キャラ(ジャンヌ)を割り当てるウィットに至るまで、各声優の基本イメージを再規定しようと試みるかのような刺激的かつ説得的な配役は実に楽しい。このキャスティングに焦点を当てて、まとまった感想をいつか書いておきたいくらい。脚本面も、簡潔なテキストワークの中で各キャラクターの個性を良く際立たせているし、以前に揶揄されていた性描写シーンの一連のフェティシズムも行為者たちの肉体性を匂い立たせるうえで一つのありうる方策だと思えた(――5/10付の雑記も、間接的な形でこれを擁護したつもりだった)


  『門』は月曜日から開始する。



  2012年9月24日(月)
  よきせぬおしごとが入ってきたので、今週のゲーマー活動は完全停止(――ということは、このブログもおそらく月末あたりまで更新停止することになる)。今月はそこそこの本数をやりこなせていた分、結果として帳尻が合ってしまった感じ。『門』のために週末には復帰できているといいな、というか、週末までに片付けてしまえればいいのだが……。



  2012年9月22日(土)
  今週末は静養の予定。


  濡れ場イベントに入ってから「あ、このライターは濡れ場テキストがやたらと長いんだった……」と気付いた時の困惑はもうどうしようもない。これのおかげで、(その方の筆致は好みであるにもかかわらず)参加タイトルに手を出しにくい脚本家さんが何人かいたりする。ベッドシーンの存在それ自体を嫌っているわけではないが、経験上、読み手である自分がダレやすい箇所なので、警戒してしまう。普通のプレイヤーにとっても、一つのシーンがあまりに長過ぎるとメリットが無くなると思われるし、センシュアルな迫力を表現しようとするうえでも、場面転換を挟みつつ複数のシーンを畳み掛けるように連ねていく方がよほど効果的だろう(――例えば『女将と仲居に~』がそれで、場面が切り替わっても切り替わってもその都度すぐに新たな濡れ場が出現してくるのには圧倒された)。


  ここ数ヶ月はSLG系ゲーマーとして活動できていなかったが、『門』には集中して取り組めるだろう。ただし、攻略情報を出せるようになるかどうかは分からない。研究開発ツリーやユニット一覧や進行フラグはどこかのサイトやwikiや雑誌記事が扱ってくれるだろうし、体験版に触れてきたかぎりでは私が落ち穂拾いをできそうな、あるいはする必要がありそうな要素があまり見当たらないので。SHC作品の攻略記事ではユニット成長パターンが看過されがちだったので、レベルアップの規則性等がうまく発見できたら整理して公開するかもしれない。
  AVGの表現システムは、それ自体としては静的な「インターフェイス」としての側面が支配的だが、SHCやalicesoftのようなSLG作品の進行制御システムは動的-複合的-参加的な運動過程そのものなので、その都度のシステムの仕組みとバランスを注視していくのは実に刺激的で面白い。



  2012年9月21日(金)
  今週は火曜日あたりから毎日ずっと、「明日はもう土曜日だ」という不可解な錯覚に囚われていた。休日が来てほしいという願望ではなくて、むしろ日数経過してほしくない(新たな週への変わり目に到達したくない)という願望の裏返しなんだろう。
  今日はまだ金曜日。今日中に低価格タイトルの1本くらいはクリアしておきたい。


  数年前の自分はブログ開設など絶対にすまいと考えていたが、今ではこのblggrの環境はそれなりに便利だと感じている。考えが変わった原因はいろいろある。1)レイアウトの自由度が十分高まっていること(――このブログで重視しているのは、「余計なもの(広告やリンク集など、本文への集中を妨げるもの全て)を極力見せない」ということ。配色を含めてレイアウト全体について、それを意図して設計した)。2)更新の手軽さと再編集の容易さ(――私にとってはどちらも重要。特に後者に慣れてきたのが大きい。タグを用いたレイアウト編集もできるし)。主要なのはこの二点だろうか。
  この雑記欄(「経過報告」)の使い方も、一見すると90年代末頃のオタク系日記サイトめいた(ちょっとしたレトロ感すらある)不格好な体裁になってしまっているが、2012年のこの私なりの執筆スタイル及び目的意識に良くフィットするものとして調整しているつもり。この雑記欄のテキストには、正式な単独記事としての重みは持たず、かといって単なる書き捨て日記でもないという中間的な位置づけの中で、それらを自分の「編集」趣味の下で何百回も――誇張ではない――編集し更新し続ける思考実験と情報整理と(暫定的)蓄積と反省再考と推敲錬磨の場として、役立ってくれていると思う。もちろん最初からこうあることを意図していたわけではなく、試行錯誤と最適化の結果として幸運にも獲得された(ように思われる)合理化だが。もしかしたら内外の環境の変化によっていつかこのブログの動きを止めることになる時が来るかもしれないが、とりあえずさしあたっては、うまく行っていると言っていいのだろう。
  この雑記の各項目も、一度書いた後でも2~3日ほどは細々と再編集し(、それとともにその主題を巡って考え続け)ていることがよくある。全文の大がかりなリライトまでは滅多にしないが、段落追加くらいはしているし、特にデータ収集的なトピックでは、数ヶ月前のものでも思い出したり新情報を知ったりする毎に加筆したりもしている。これは自分自身のため(覚書としての役割)でもあり、また一般的に「読まれるのがいつであれ、読まれた時その都度(私の能力と時間の限界内で)最善の状態にしておきたい」と考えているためでもある。

  この「経過報告」欄は、10ページ目まで行ったら一度ふりかえって整理しておきたい。せめて細目次をつけるくらいは。撤退して丸一年になるtwアカウントもまだ消滅せず残っているが、そちらもきちんと再利用していきたい。


  いつもながら木村氏のこましゃくれた年下キャラは素晴らしい。このふてぶてしくしたたかな役柄でも、役者の持つドライな明るさがキャラクターを救っている。個人的に、いたずら好きなトリックスター系キャラクターの名手だと思っている役者さん。それでいて、情の深い年上役(『あねいも2』)、無愛想な寡黙キャラ(『朝凪』)、飄々とした先輩キャラ(『Signal Heart』『水平線~』)、悲劇のヒロイン(『ヨスガ』)、快活な同級生芝居(『ツナバン』)、思い詰めた後輩(『夏めろ』)、福々しい神格キャラクター(『いな☆こい』『鬼神楽』)、そして堂々たるメインヒロイン演技(『ONE FVV』『秋色』)に至るまでしっかりと聞かせてくれる。素晴らしい。
  あえて言うなら、ツンデレヒロインや過剰なギャグキャラにはほとんど出会ったことが無い、あるいは、そのような性格付けではあまり演技されていない。演じる役毎のインテグリティが強くて、感情の色をしっかり乗せてくる方なので、キャラクターの底を割ってみせてしまうようなお芝居はあまりお好きでないのかもしれない。



  2012年9月20日(木)
  体格差カップル描写はわりと好きなのに、出会う作品はヒロイン(女性)側が小柄なのばかりで、長身の主人公(男性)はなかなか見かけない。180cmを超える(と思われる)体格の主人公というと、『とらハ2』(191cm)を筆頭に、『水月』(172cmの雪さんよりも頭一つ高い。140台の鈴蘭とは40cm差ということに)、『裏入学』(183cm)、『誰彼』、『水平線まで~』、『黒の断章』(涼崎181cm)など。『SeeIn青』『pianissimo』あたりの主人公も(テキスト上または画像上で)長身だったような曖昧な憶えがある。『霞外籠逗留記』の主人公は六尺(180cm)とのことだが、一枚絵ではそれほどの長身には見えなかった。八宝備仁原画作品も長身(+美形)の印象が強い(『彼女×彼女×彼女』は178cm、『クラ☆クラ』は180cm)し、SHCの主人公も体格の良いキャラクターが多い(『海賊王冠』『ブラウン通り』『DC』)。『とらぶるDAYS』の大柄主人公を初めとして、e.go!/でぼの主人公たちも身体能力の高いキャラクターが多い。ただ単純に巨躯主人公を求めるだけなら、総数としてはファンタジー作品の異種族主人公が多そうだが(――とりわけ「魔王」主人公の系譜。『BE-YOND』『英雄×魔王』『冥色~』『デモ二オン』等)。あるいは、黒箱系タイトル(かぐや作品とか)にも多いのかもしれないが、そちら方面はプレイ本数が少ないのでよく知らない。そして、長身男性キャラクターはやはり女性向け(乙女/BL)の領分だろう。
  近年では小柄(orショタ)主人公の方が多いと思われるが。大柄な女性キャラクターも、『Theガッツ』シリーズを初めとして何人かは知っている。長身ヒロインは深井ヴォイス(イシュタル、ヴァネッサ)、かわしまヴォイス(水守なるみ[183cm]、オクタヴィア)に多いという印象はたぶん間違っていない。白箱系だと『星空へ架かる橋』の酒井陽菜(175cm)がかなり長身の部類。隣接分野では、『サクラ大戦』の桐島カンナさん(197cm)が有名だろう。
  フルプライス級の作品であれば企画時点で各キャラクターの身長設定はきちんと確定しているものだろうが、具体的な数値がユーザー向けに公開されることはあまり無い(VFBで初めて公開されるという場合も多い)ので、なかなか知りづらい情報だったりする。

  そういえばこういうデータベースサイトもあったのだった:[ Ragna Archives Network ]。



  2012年9月19日(水)
  「社会人もの」「主人公が大人」と一口に言っても、「主人公が(その作中世界における)成人年齢に達している」「主人公が(作中社会で一般的に成立している)職業人である」「主人公が生活及び生計の維持のための(作中社会において合法であれ非合法であれ)活動に従事している」といった様々な形態があるが、いずれにせよ社会人ものの少なさは、大学生主人公の少なさと同様に、学園もののメリットの裏返しとして説明すると分かりやすいように思われる(cf. [ http://hwm2.gyao.ne.jp/serio/games/diary09.html#20081201 ])。とりわけラブストーリーを成立させるうえで、学生主人公のアドヴァンテージは明らかだろう。

  しかし、だからといって「社会人ものは困難で不毛な道でしかないのだ」ということにはならない。社会人ものにも、学園もののメリットと対置される独自のメリットがいくつも存在する。
  1)学園ものは参加者及びロケーションが限定され、かつ参加者たちが特定の形で定型的に組織化されている空間である。しかし他方で社会人ものは、そうした人的/場所的な限定に服することなく、主人公の活動領域を幅広く持つことができる。
  2)学園ものは、大抵のプレイヤーの経験に合致するいくつもの定型的なイベントを、物語進行の手掛かりとして利用することができる。他方で社会人ものは、そうした状況の定型性や既知性に拘束されない。とりわけファンタジー世界設定の作品や、非合法的乃至非公然的職業を取り上げる作品の場合に、この強みが発揮される。
  3)学園もの作品では、未成年主人公のモラトリアム的地位を(恋愛表現においても、教師等の大人たちに対する関係においても、主人公の行動範囲の狭さをプレイヤーに対して説明する理由としても)活用することができる。他方で社会人ものでは、主人公がすでに社会人(大人)として自立した行動のできる能力及び資格を持っていることを説得できる。

  そして、以上のように考えられたこれらのメリットを実際に効果的に具体化しているのが、他ならぬソフトハウスキャラの作品群である。このブランドの制作してきた18本のタイトルは、そのほとんど全てが、作中社会の中で特定の職業的地位を持つ主人公造形を用いている(――その唯一の例外も、孤島に漂着した記憶喪失の大学生というものであり、要するに通常考えられる意味での「学園生主人公」はこれまで皆無である)。
  1)複数の勢力がそれぞれ自身の利害関心に即して行動し、お互いに交渉し合い、時には対立し、決着を図っていく過程それ自体がゲーム化されているのは、このブランドの基本的姿勢である。王国内部の複雑な政治的駆け引き――秘宝を巡る王妃、第一王女、第二王女、宰相と軍部、マフィア、そして賞金稼ぎに至るまでの様々なアクターたち――を、鬼ごっこ的ボードゲームシステムの中に展開してみせた『うえはぁす』。夜の学園を舞台に、部活に勤しむ学園生から平穏を求める妖精から食物を漁りに来る熊に至るまでの、それぞれ独自の目的を持って往来跳梁するキャラクターたちと出会いながら、最終的には学園の混乱をもたらしている黒幕を探し当てる『アルフレッド学園魔物大隊』。不思議な孤島に辿り着いた10人の漂流者たちの間で生じうる、文字通りあらゆる活動をそのシステムの中で表現し尽くした『南国ドミニオン』
  2)そしてそれらは、しばしば非常にユニークな状況設定の下で、そしてその作中世界のありようと絡み合った形で(つまり、その架空社会のシミュレーションとして理に適った形で)主人公の活動目標が設定されたうえで、展開されている。対立する二国間の衝突と駆け引きの合間を縫って、海賊主人公が大きな利益を巧みに引き出そうとする『海賊王冠』。許嫁との結婚準備のために巣作りを開始したドラゴン主人公が、ダンジョンに侵入してくる冒険者たちを撃退しつつ財宝を収集し、その一帯を治める王国の指導者と交渉し、さらには魔界の商会が主人公の活動に対して陰に陽に関与して利益を得ようとしている『巣作りドラゴン』。西洋中世ファンタジー世界で巨大学園を経営する主人公が、夢を通じて運命を操れる妖精ヒロインとともに、学園の内外で発生する様々な出来事――教育、敷地開発、投資、王国との交渉、卒業生派遣による近隣への文化的影響、学園への侵入者、ダンジョン探索、戦争、等々――に対処していく『グリンスヴァールの森の中』
  3)そのようにして作中世界の中で自己利益のために自立して行動する主人公は、当然ながらその社会の中で一定の社会的役割を担う「大人」として立ち現れる。それはしばしば、物語のすべてをその一身に体現する絶対的な主人公ではなく、あくまで所与の状況の中でアクターの一人として存在し、状況の中で自己の(作品の初期設定上の)個人的目標を追求する個人としての主人公である。ヒロイックな冒険者ではなく、「冒険者の店」を経営する『ブラウン通り三番目』。昼はサラリーマン、夜は非合法賞金稼ぎの二面性を持ちつつ、闇の組織との契約から解放されるために大金獲得を目指す『Dancing Crazies』。三年後の魔法大会で弟子を優勝させるために、魔法使いとしての教育に励む隠遁者主人公の『Wizard's Climber』

  新作『門を守るお仕事』も、このような観点の下で期待することができるだろう。体験版に触れたかぎりでの感想だが、この作品の基本システムは、ゲームらしく抽象化されているものの、非常に隠微で複雑な政治ゲームとして成り立っているように思われる。主人公が指揮する傭兵団は、前線の小都市に居を構えているが、都市全体と利害が一致しているわけではなく、あくまで都市と契約した余所者に過ぎないことが明示されている。主人公は、都市の様々な勢力と交渉して利益を引き出しつつ、敵国軍隊を撃退して自身の必要性をアピールし、また敵国に対しても軍事的直接衝突だけでなく密通や賄賂によって交渉して、団の存続を図るものとなっているようである。まさに「戦争は政治の一部である」と言わんばかりであり、この体験版から窺われる範囲でもそのシンプルな軍事SLGの外見に反してその企みは非常に深い。
  このような社会的広がりを表現するうえで、SLG(非AVG)には大きな強みがあると言ってよいだろう。もちろん、それらを適切に制御することの難しさはあるが。

  たしかに、比較的多いパターンは、退魔巫女や探偵やアパート管理人や校医や職業調教師やメイドマスターやパティシエなにゃんこや幼なじみは大統領だろうけど。AXLとかは、職業人主人公と学園ものを両立させるような設定にしていたりするし、Littlewitchもしばしば主人公に一定の「仕事」を持たせるような物語にしている。[tw: 247848203553230848 / 247850381911146497 ]


  ……あ、ちょうど『門』デモムービーが公開されてる。


  これまでファンディスク作品はほとんどプレイしてこなかった(――プレイ済みタイトルの中で、FDに該当するものはわずか5%)。しかし最近になって、「FDもいいかな」と思えるようになってきた。着彩の良い作品、声の魅力的な作品、背景の美しい作品、テキストの心地良い作品、インターフェイスの快適な作品、演出に見所のある作品、それらのうまく組み合わさった作品を、もっとプレイし続けていたいという欲求が、私にも分かるようになってきたということだろうか。

  (数行削除。ここはtwの時のような駄々漏らし雑記にするつもりは無いので。)



  2012年9月17日(月)
  浅い眠りの中で、なんかすごい夢を見ちゃった……。青山氏と録音室で共演して、青葉氏が姉or妹になって、木村氏とゲーセンで遊ぶという……どうしちゃったんだ私。普段から、特定の個人(実生活上の知人であれ歴史上の有名人であれフィクションの登場人物であれ)が夢に出てくることはほぼ皆無で、とりわけ声優さんが夢に出てくるなどということは無かったのに……。目覚めた瞬間に恐懼し赤面し、それから頬を緩めてしまったとしても、私を非難できる者はおるまい。


  PCゲームをしていて立ち絵一つの美しさや台詞音声のたった一言のそのえもいわれぬニュアンスや絶妙のゲームバランスがもたらす神秘的瞬間やそれらの絡まり合いによって実現される演出のスペクタクルに、感極まり頭に血が上りきってそれ以上プレイし続けられなくなり頭痛とともに就寝する他なくなるものの寝付くことすらできず悶々とする(※今晩これからの予想される事態)ことになってしまうこの体質と性格をなんとかしたい……。音楽(単体)や読み物や絵画や映画ではこういう状態になることはあまり無いのだが、PCゲームではわりと頻繁に生じる。感激することはそれはそれで構わないのだけど、ゲーム(に限らずおしなべて創作物)に対しては「正気で」向き合いたい――飲酒プレイなど論外だと思っている――し、そもそも興奮状態でプレイできなくなるとペースが落ちてしまうのはつらい。私以外のゲーマー諸氏は普段どんな精神状態でプレイしているのだろうか。プレイ中は大はしゃぎなどせず粛々と進めるといった姿勢の方が良いのだろうか。
  ……こう書くと常時エキサイトしっぱなしの面倒な人物のように思われるかもしれないが、実生活の私は「いるとほっとする」「かわいい」「和み系」として位置づけられている。これはこれで釈然としない。



  2012年9月16日(日)
  『クラ☆クラ 八宝備仁アートワークス』131頁:ワイド画面制作に移行して、「最初は四苦八苦していたんです。今まで入っていたものが入らない。でも、それを逆手に取って迫力優先のカメラワークに切り替えるようにしたら、これはなかなかいいな、と思いまして。わかりやすく言えば、『クラ☆クラ』までは止め絵なんですが、ここから後の作品は動画を切り取ったような構図、躍動感を意識しています。だからもう、こういうエロゲーらしいエッチシーンは『クラ☆クラ』で最後かな、と」。
  『クラ☆クラ』以降というのは具体的には『万華鏡』の2作品のことだろうが、それらの一枚絵レイアウトについての示唆に富むコメント。ただしその分、『クラ☆クラ』以前には見られた男性主人公顔面のぎりぎりのフレームイン――プレイヤーの微笑を誘う構図――が減ってしまったようだが。


  小柄軍服ヒロインの魅力には抵抗できないことをあらためて自覚した。構えた銃器とのギャップも良いし、軍帽を被っていてくれると嬉しいし、立ち絵の敬礼ポーズ差分があったら狂喜するし、オイルや血糊を浴びてしまった姿もそれはそれで味わい深いし、サイズが微妙に合わなくて袖口が余り気味だったりしたらもうたまらない。


  雑談の中で「猫を飼いたい」と口にしたら、周囲から全力で押しとどめられた(泣)。彼女等が現在独り身の私を案じてくれているのは分かるのだけど……。



  2012年9月15日(土)
  『白神子』は、店頭であの衝撃的なモノクロパッケージに恐れ戦いて、手に取ることすらできずそのまま離れてしまった。単色パッケージ(特に白-黒のモノトーン)というと、他には『RUMBLE バンカラ夜叉姫』くらいしか知らない。クロッキー(素描)めいた単色ヒロインイラストに、リボン(とタイトル文字列)だけが赤く染められているというパッケージアート。バカゲー好きの間では有名であろうこの作品に相応しい、野心的なデザイン。
  あるいは、ケロQの極端に彩度を下げた着彩(『素晴らしき日々』)も、モノクロの印象に近づいている。『euphoria』も同様。『とらハ123BOX』『大機関BOX』のような特殊商材も、表面にキャラクターの描かれていない(ほぼ)単色の装幀になっている場合がある。『時の森の物語』も、タイトルのみが刻印された木箱パッケだった。いずれにせよ、表面にキャラクター(ヒロイン)イラストが描かれていないというだけでも、この分野ではきわめて珍しいものだが(――孤島の遠景のみが描いてある『百鬼』とか、プラ外装を外すと無人島の浜辺だけになる『南国ドミニオン』とか。『SinsAbell』もたしか真っ黒だったような……)。
  個人的な好みを言うなら、『水月』(のオリジナル版)のパッケは今でも好き。那波の麦藁後ろ姿。


  頭痛持ちゲーマーに、嬌声叫びの連続するシーンはきつい。ただでさえ、物語が怪しい雰囲気になってくる度にいつも、いつ濡れ場に入るかと戦々兢々の思いをさせられているというのに……。


  「らめぇ」台詞が出る度についスクリーンショットを撮ってしまう習慣。どうしてこんな習慣が……。
  立ち絵の美しすぎる作品も困りもの。その感興の持って行きどころを求めて、SSに設定したキーをばんばか乱打したくなってしまう。


  一つのゲーム作品をどこまで忠実にやり通すか。手許のデータを見ると、今のところ8割弱はコンプリート(CG欄制覇、回想欄制覇、一応のED制覇)までプレイしている。残り2割は、趣味に合わなかったのとか、数回プレイして十分満足してしまったのとか、複数脚本体制の作品を特定の脚本家を目当てに喰い散らかしてしまったのとか、SLG作品の難解なEDに自力到達できなかったのとか、バラエティ作品(ファンディスク)をつまみ食いで済ませてしまったのとか。SLG作品はできるだけ自力コンプするようにしているが、『鬼神楽』『英雄×魔王』『空帝戦騎』あたりは技術的or精神的事情によりいまだにコンプリートできていない。未読スキップに手を染めたことは……ああ、恥ずかしながら、たぶん3回(3作品)ほどある。分枝EDが多すぎてグランドフィナーレを待ちきれなかった時と、原画家目当てで買ったけど趣味に合わなかった時と、調教SLGの物量にこちらの心が耐えきれなくなった時と……。
  もちろん、プレイしていて興の乗ったAVG作品では、全ての選択肢を選び、全てのフラグを経由し、全てのイベントを見て、全ての音声をきちんと聴くところまで食べ尽くす。SLG作品でも同様。



  2012年9月14日(金)
  潜伏中。

『色彩用語事典』『カンガルー日和』『メロンパンの真実』等々と並んで、『モロッコのインテリア』『カンディンスキー』『イタリア絵画』といった洋書のある小河坂君の自室。他人の本棚って気になるよね!(そういう問題ではない)




  2012年9月8日(土)
  隣国といえば、コリアンヒロインこそは稀だろう。たしか『青い涙』に一人いた(らしい:未プレイ)のは知っているし、『TACTICSBRID』にもいた(――ただし国家単位が消滅し世界政府の下に統合された近未来世界設定なので、「韓国朝鮮"系"」という扱い)。あとは……それだけ? (※追記:『サフィズムの舷窓』をすっかり失念していた! 『桜待坂Stories Vol.2』の鮎川ひなたキャラのことは知りませんでした。そういえばこれも都築企画作品だった筈。)
  国別(地域別)カテゴリーでいえば、北欧系ヒロインは総じて好きと言えるかも。なのでHOOKSOFTとUNiSONSHIFT(A)の新作も買う。

  Miel新作『俺たちは~捜査官』。一般SLG『ぼくは航空管制官』からの照り返しを窺わせるネーミングであり(類似の発想は『通勤快楽 ~■漢でGO!~』にもあった)、この一人称複数「俺たち」がおのずから醸し出しているバカゲー的志向は、『俺たちに翼はない』の突き放した詩情とは趣を異にし、むしろ『おまえのなつやすみ』(永井もどきキャラで有名)や『僕らのいきなり同棲計画!』(エヴァもどきキャラで有名)に近しいセンスで、タイトル公開の時点ですでにしてなかなか味わい深い。
  総じて集団蹂躙もの(婉曲)の男性モブたちは、非常に気持ち悪い(気持ち悪いように描かれることが多い)ものだが、同時にきわめてバカバカしい――バカバカしいほどに単純な――存在でもある。作品によっては「男2」「男3」だけでなく「男11」とか「男16」にまで派手に増殖していって、しかもその無名無貌の彼等全員が見事に呼吸を合わせて協調している。ブキミなことこの上ない。



  2012年9月7日(金)
  中国系キャラクターというと、『家族計画』(2001年)の春花もあるが、個人的には『とらいあんぐるハート』(2000)の菟弓華が刺激的だった。この学園恋愛系AVGの一ヒロインである彼女は留学生ということになっているが実は身分を偽って入国した職業暗殺者で、イベント後半にかけては彼女の凄惨な過去と彼女が縛られている異様な組織規律が明かされていく。さすが都築真紀。言葉は片言の日本語で、当時すでにCVが付いていたのでそのイントネーションのおかしい日本語も見事に音声出力されていた。『あいあん・めいど』(2003年)という作品もある。ファン・ウーは「全然中国人に見えない国籍不明住所不定年齢不詳」というキャラクターで、「いつも怪しい煙管をくわえてボーッとしてる」というのも阿片のイメージを反映している。ダーク系タイトルの『大阪CRISIS』は、リニューアル版(2011年)で「中国から留学生兼出稼ぎ労働者としてやってきた」ヒロインが追加登場するらしい。中華系ヒロインというと、『キャッスルファンタジア ~エレンシア戦記』(私がプレイしたのは2003年発売のリニューアル版)は、西洋中世ファンタジー寄りの世界設定にもかかわらずチャイナ服キャラクター(リー=ミンファ)をメインヒロインにしているという珍しい作品。『MERI+DIA』(2005年)の「東洋系」(おそらく中国)の鳳美鳳も、国際企業の関わる近未来世界の物語としてごく自然な形で登場していた。『民族淫嬢』(2008年)もわりときつい作品。『WoRKs DoLL』の吏候も、チャイナドレスのサブキャラ。『仏蘭西少女』には、上海マフィアに連なるキャラクターたちが何人も登場し、しかもわりと本格的な(と聞こえる)中国語を喋る。もちろん実例は他にもあるが、ニュートラルなものであれなんらかのマイナスイメージと結びつけられたものであれ、中国人/中華系キャラクターが登場する作品は、ふりかえってみるとそれほど多くはないようだし、まして言語的障壁や社会的文化的相違が強調される描写は少ない。そういえば『オルタ』では米軍所属キャラクターたちの台詞が英語で音声出力(※日本語字幕付き)されている箇所などがあった。『仏蘭西少女』もあったか。もちろん『アセリア』や『沙耶』も。『SEVEN-BRIDGE』の他言語間コミュニケーションはどうなっていたっけ。室内に突如現れた無言のヒロインに対して主人公が英語・フランス語・中国語で話しかけてコミュニケーションを試みるシーンがあったのは、たしか『はなきゅ~』(2004年)のプロローグだった。
  ……と、こういう情報を一応提示したうえで、フィクションにおける「密入国中国人設定」を殊更に政治的センセーショナリズムの目で見ようとするその感性――作品内在的なフィクション受容の次元ではなく作品外在的な政治的受容の次元でその側面に言及しているのは他でもなくその発言者自身だ――の適切性に関しては強い疑念を抱かざるを得ない。というか、忌憚無く言えば、そういうひっかけ要素に安直に乗りすぎ。[tw: 243018791531986946 ]


  web言論で時折見かける論調として、ある一つの分野についての議論を公平に展開するうえで不可避的に存在する人々の知識量の差が問題だとして焦点化されることがあり(それらの指摘はしばしば個人的受容の反教養的フリーハンドの主張を結論とするが、その結論自体はここでは重要ではない)、そうした焦点化のロジックが私には理解できなくてずっと違和感を抱き続けていたのだが、先日ある人の発言を目にして疑問が氷解した。どうやら、個別具体的知識(の量)が関係してくる議論状況に際して、自分が(あるいは一般的に、ひとが)その時点で持っている知識のことしか考えず、あらためて自分で調べるということを念頭に置いていない――そういう人たちが非常に多く、そしてそういう人たちが上記のような論点設定をしているようだ。そしてこれは、一見するとそれなりに知的であるような人々の中にもしばしば見出される姿勢だ。
  彼等の知的姿勢は、おそらく以下のように構成できるだろう。すなわち、1)知識とはその時点で当人が個人史の中で偶然的に獲得し保有している所与のことであり、それゆえ2)知識とは属人的体験的なものであってそのままでは交換乃至流通することが困難な情報であり、それゆえ3)知識の格差は(そうした格差が、出生の先後などの外的事情によってであれ、ひとたび生じたならば)絶対的に克服できないものである、というものではないかと想像される(――そしてそれゆえ、4)知識の格差を梃子にして議論することは個人の能力ではどうしようもない外的要因の不平等さに依拠する行為であるがゆえに不公平なものであり、それゆえ5)「○○を知っていなければ△△について発言する資格は無い」という言い回しに代表されるようなあらゆる教養主義的抑圧は撲滅されるべきである、という実践上の結論に到達することは、もしも最初の前提を受け入れるならば不自然ではない)。
  しかし、知識のありように関するその想定は正しいだろうか? もちろん「否」だ。PCゲームに限定してみても、たしかに十年以上前の(XP時代より前の、とりわけwin95より前の)タイトルはしばしば入手困難であったりプレイ環境を整えることが困難であったりする。しかし、win7でも旧作の多くは動作するし、中古市場は依然として巨大であり、DL販売化されている旧作もいまや膨大な数であり、そしてこれこれこういう作品が「ある」という手掛かりもweb上には無数に存在する。作品へのアクセス手段は、様々なかたちで発見できる。そのアクセス形態は必ずしも「オリジナル版を実際に実機でプレイする」という完全なものではなく、実際に個人がアクセスできるのは復刻されたDL販売であったり、体験版でプレイするだけであったり、あるいはweb上の記事(公式サイトや通販サイト、あるいは個人のレヴューサイト)でスクリーンショットを見るのがせいぜいであったり、「△△のような内容を○○というタイトルが扱っていたらしい」という情報の手掛かりのみであったりするかもしれない。しかし、コスト(時間と労力と資金)を掛ければ、後発参加者でも過去の作品にアクセスしていくことは可能だ。
  要するに、真に対立しているのは「教養と無知」ではない。「(知的)誠実と怠惰」だ。自分が正確な言明をなすためにどれだけのコストを支払うつもりがあるか、その正確性とコストとの間のバランスを自分の中でどのように見積もるかの問題だ。重要なのは「自分が現在たまたま知っている範囲でどれだけのことが言えるか」ではなく、「自分が現在(今から)知りうる範囲でどれだけのことが言えるであろうか」だ。もちろん、「今から知りうること」には限界があるだろう。稀少な旧作を入手するために過大なコストを掛けねばならない場合もあるだろうし、「当時のゲーマー(受け手)たちの雰囲気」といったような後発的獲得の不可能な要素も存在する(――ただし、そのような特殊な知識を引き合いに出さねばならない議論は稀だし、そのような知識を信用できるかたちで提示しうる者もほとんどいないが)。しかし全体としては、少なくともアダルトPCゲームに関する一般的なweb言論の水準では、たいていのことは少し調べれば知ることができるものだし、作品そのものへのアクセスもそれほど困難ではない。知識は、特定の時点で体験した人々だけに共有される特権的閉鎖的な所有物などではない。後からでも獲得でき、そして誰でも使うことができ、そして広まれば広まるほどそれ自体の価値も高まっていくという、公平な共有財産だ。その場の思いつきだけではなく、少しでもいいから、調べよう。そして、できれば、調べたうえで正しいと判断できたことだけを語るようにしよう。さらには、望むらくは、今自分が持っている知識についても、他人が利用できるようなかたちで公開していくようにしよう。
  ちなみに、すぐ上の「中華系キャラクター」に関する雑記テキストは、基本的には記憶だけを頼りに書いているが、一度書ききった後で手許にあるデータを参照し、web検索も少しだけして、できるだけ遺漏の無いようにしているし、発売年やキャラクター名もweb検索で確認している。演出技術論についても、そのためのコストを掛けている(――それぞれの論点に関連する作品を洗い出すための検索時間、百本以上のタイトルを購入する資金、それらをプレイする時間、etc.)。コストに見合った成果を得られるかどうかは、本人の能力と運によるが。
  ここから、例えば「○○を知っていなければ△△について発言する資格は無い」と言ってよいのかという問にも答えることができるだろう。ある範囲までは、言ってよい。例えば、ある論点に関連する作品があるとして、 その作品が多数のゲーマーにプレイされてよく知られており、内容上もその論点を巡ってしばしば言及されているものであれば、その作品についての最低限の知識が抜け落ちた形でその話題について強い真理要求を伴う言明を提起する者は、比較的高い非難可能性に服するだろう。それは、「知らなかったから」ではなく、「少しでも調べれば知り得た筈であるのにそれを怠ったから」だ。他方で、残念ながら売上が芳しくなく、ユーザーからもほとんど言及されていない作品であれば、知らなかったとしてもやむを得ないと見做されがちだろう。そのような相対的な意味で、「知っているべき」から「知らなくても仕方ない」へのグラデーションは存在する。そして、知識の公平性の規準に照らしていえば、「○○を知っていなければ△△について発言する資格は無い」という主張を提起した側の者は、当該対象の当該論点について自ら実質的な説明を提供すべき、立場上の義務を負う。その場で実質的な説明を提供しなければ、自分が他人を非難すべき根拠自体を喪失する。もっとも、一般的な言論の場は「教育」の場ではないので、知り得るための十分な手掛かりを提供しさえすればよく、相手が完全に理解するまで懇切丁寧に説明すべき義理は無いが。
  もちろん、プロについては話は別である。アダルトゲームについての「プロ」を観念するのは今のところあまり現実的ではない(ただし何人かの雑誌系ライターや編集者はそう呼んでよい水準にあると思うし、テーマによっては実作者もその立場に置かれる)が、プロに対しては、誤謬や無知があれば一切の容赦無しに批判してよいと考えている。
  なお、如上の思考に対して、「それでは『教養』観念それ自体は何の役にも立たないのか」という問も生まれるだろう。もちろん、知識の該博さと、それを裏付けにした分野的理解の深さや判断の的確さには、高い価値がある。調べれば知り得るであろうことを「これから調べられるであろうこと」のまま放置しているのではなく、調べられることを実際にきちんと調べて自分の認識と思考の中に蓄積してきていること、その現実の蓄積とそこから獲得されている認識の深さをこそ通常「教養」と呼ぶのだ。その場でggった程度の一知半解の伝聞からは、形骸化した上滑りな認識の反復しか得られない。そうではなくて、事実に関する直接的な(つまり実物に自分で接して得た)情報を実際に自分の知識として獲得し、それらを自分の知性と感性の中で最大限の集中力をもって丁寧に噛み砕き、そして長い時間を掛けて繰り返し思考し続ける、そうした過程の中から、趣味の良さも精妙な分析も洗練された評価眼も妥当な歴史展望も斬新な指摘のいずれも説得力のあるかたちで精製されてくるのだ。それを超えられるのは、天才かまぐれ当たりしかない。ただし、このような意味での教養は、かなり高度な次元での要求であり、そしてそれゆえ非専門家同士の日常的な議論の中で軽々に提起してよいものではない。教養は、一つの分野に(あるいは人間的知性の関わる全領域に)なんらかのかたちで――単なる一PCゲーマーとしてであれ――携わろうとする時に、追求されるに値する価値ではあるが、それは追求される過程としてのみ存在するものであり、ましてや議論の中でなんらかの論拠になるようなものではない。
  ……ってか、これ、わざわざ言うようなことか?

  そういえば、あったなあ……。ゲームライター(※脚本家ではなく記事執筆者)が「~~なゲームがあったらいいのに」と言ったり、あるいは某社社長兼脚本家が「おれのかんがえた~~なゲーム」と言ったりしたのとほぼ同じコンセプトのタイトルがすでに実在した場合、そのライターや脚本家はそのタイトルを発売したブランドを馬鹿にしたに等しいと見做して良い(――その業界に属する本職[プロ]ならばそもそも、同業者の仕事に触れる可能性を生じるような発言は差し控えるのがマナーだろうが……あの人々はそういうことも解っていない、あるいはそういう想像力を持つこともできないのだろう。あらためて一々名前を挙げて批判することはもうしないが、好きなブランドの作品に関することだったので、こいつらの仕事には金を出すまいと決意するにとどめた)。これは発言内容に関する真理要求の問題というよりは発言行為に関する礼節上の問題だが。


  余談ながら、私のPCゲームプレイ本数は、熱意あるゲーマーたちに比べると随分少ない部類だろう。CmShp通販の売上上位100タイトル[ http://www.comshop.ne.jp/st/all/pc18_00_100.html ]の中でも20本しか持っていないくらいだし。twで検索してみると30本プレイ済みだとか40本だとか80本とかいった方々がいる中で、20本という数字はかなり少ないと思われる。……というか、皆さんそんなにたくさんプレイしているのかと愕然としている。私が特別にマイナー志向だということも無い筈だし……EGScapeには700本も800本もプレイしている方が何人もいたりするくらいだし……。


  『GoD』。金目鯛氏とninetailの結びつきが自分の頭の中でピンと来なかったが、立ち絵(キャラクター紹介欄)やサンプルCGを見ているうちに「ああ、いつもの九尾(の塗り)だ!」と得心が行った。塗り大事。超大事(CV: 松永雪希 as 蝉丸先輩)。



  2012年9月6日(木)
  いろいろと買えてない。店頭で[ http://ocelot.product.co.jp/products/kyukon/ ]のパッケを見かけて、タイトルが気になったけど残念ながらそれは中古棚だったのでひとまず保留して、帰宅してあらためて公式サイトを見てみると、あれ……一枚絵がどれも縦長だ。『アトリ』『水平線』のように画面の片側(右側か左側)にテキストを寄せて表示するタイプなんだろうか? サンプルCGを見るかぎり、縦スクロールのためとは考えにくい。原画家さんは『すぽコン!』の方のようで、そういえばこちらもももぞの氏主演作品だったのに判断保留のまま買っていなかった。

  しかし、「きゅうこん」(球根)か……往年の『きのこ 禁断の治療薬』とか『はなきゅ~』とか『平成粘菌劇場 えろ茸』をちょっと思い出したりする、どこかとぼけたような味わいのタイトルセンスではある。

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