のみならず、AVGにおけるイベントCGは、その存在それ自体について特権的地位を認められている。「ストーリー上重要なシーンではイベントCGが表示される筈だ(あるいは、そうあるべきだ)」という認識は、現在の国内PCゲームシーンにおいて広く共有されている暗黙の前提である(註23)。それゆえ、イベントCGをどの場面で使用するか(どの場面に何枚割り振るか)は、演出上も構成上もきわめて重要である。
こうした重要性のゆえに、イベントCGを表示する際にはしばしば特殊な演出的処理が施される。例:画像表示に際してウェイトや装飾的なエフェクトを掛ける。クロスフェード表示する。サイズの大きい画像をスクロール表示(パンニング)していく。画像一部分のクローズアップ表示から入り、次第にズームアウトして画像全体を表示する、あるいはクローズアップから切り替えて画像全体を表示する。画像の一部を切り取ったカットイン的表示から、画像全体のフルサイズ表示へ移行する。等々。
さらに、イベントCG画像それ自体が様々な仕方で加工表示される場合がある。(1)感情表現エフェクトや目パチアニメーションの追加、(2)降雨降雪等のアニメーション付加、(3)多重スクロールによる様々な変化(空間表現など)、(4)イベントCGの動画アニメーション化、などの手法が実行されている。(1)については3章2節4款を参照。(2)については3章2節5款で、(3)については3章の各所(とりわけ同1節2款、2節1款、2節5款で、(4)については3章3節で、それぞれ言及した。
そして、このような様々な技法を取捨選択しあるいは組み合わせて適用することによって、一枚絵シーンの表現スタイルはブランド毎、作品毎に個性的なものになる。立ち絵シーンについてブランド毎に様々な特徴的な演出様式が見出されることを先に述べた(cf. 3章4節)が、一枚絵シーンの見せ方についても同じような様式的多様性を見出すことができる。例えば、静止画としての自律的な美しさを最大限追求するイメージイラスト的な一枚絵。断面図カットインや迫力ある局部ズーミングによって煽情性を強調する画面構成。あるいは多重スクロールやオーバーラップといった操作によって一枚絵シーンに運動性と迫真性を持ち込もうとするもの。極端な拡大表示から入ることによってプレイヤーの好奇心を刺激する見せ方。大量の一枚絵を素早く切り替えていくことによって一枚絵シーンに速度感を与えようとする試み。構図から着彩までを周到に設計することによって立ち絵シーンと一枚絵シーンの落差を埋めようとする流儀、あるいは逆に「AVGの華」としての一枚絵シーンのその特別さをいっそう際立たせようとする取り組み方。等々。
註23) 現在この分野の作品においては、イベントCGを収集制覇すること(CGコンプリート)が、その作品を読了したことの判定基準となる、あるいはそれと同一視されるのが通例となっている。これは、上記の暗黙の了解を逆算したものであろう。エンディング一覧を表示する作品が少ないのも、おそらくこれと関連する。CG制覇が読了確認のための基準として十分であるならば、エンディング一覧はもはや不必要であろうから。 ところで、演出強化された現在のAVGにおいては、イベントCG以外の各種素材(立ち絵差分、背景画像、各種演出オブジェクト)も大量に制作され使用されており、それゆえイベントCG枚数のみでゲーム全体の規模や充実度を測ることは困難になっている。例えば『えむぴぃ』のCGモードに登録されるイベントCGはわずか74枚であり、『はるかぜどりに、とまりぎを。』に至っては65枚に過ぎない(――2008年現在の標準的なフルプライス作品のイベントCG枚数は、おそらく95枚程度である)。しかし、これらの作品が空疎さの印象を与えることはおそらく無い。何故なら、これらの作品が緻密な立ち絵アクションと的確なカメラワーク操作を施しているからであり、さらにはCGモードに登録されない様々な演出素材を大量に投入しているからである。演出技術の多様化は、ゲーム内容の多層化とともに、ゲームの価値基準の多元化をもたらしている。 |
【追記コメント】
本文ではわりと散漫に書いてしまったが、「イベントCGを表示する際」の見せ方は大事なところなので――おそらく制作サイドでもその重要性は十分に意識されている――作品毎にどのような処理が施されているかを注意深く見ていきたい。例えばアダルトシーンでは(、そしてとりわけその場面に使用できる一枚絵がほんの1~2枚であるような場合には)、最初はヒロインの表情アップから入って次第に全身表示サイズに移行するかたちだと、とても良い効果を挙げる。緊張から解放へのカメラワークと、そして表情の強調から全身運動への注目へという性描写シーンの成り行きに適した視線移動と、この2重の移行プロセスがそこに含まれることになるからだろう。またあるいは、重要なキャラクターの初登場シーン――つまり登場当初は謎めいた印象から開始する場面――でも、一枚絵のクローズアップ表示からズームアウトしてフルサイズ表示に移行するというプロセスはしかるべき効果を挙げ、そしてそれゆえいくつかも作品で実際にそのようなスクリプトが観察される。同様の効果のためにスクロール表示のパターンが用いられる場合も多いが、どちらにしても非常に明快かつドラマティックな印象を与えるのに好都合であろう。
現代AVGにおいて、一枚絵は現在深刻な問題に直面しつつあるように思われる。複雑で精緻にそしてよりいっそう柔軟に拡張されていく立ち絵演出に対して、基本的に一枚の全画面静止画でしかない一枚絵はその「画面が動かない」という欠点を露呈させつつあるという意味で。一枚絵に対する従来の評価は、「汎用素材でしかない(=価値が低い)立ち絵シーンと比べて、ワンオフで素材製作されかつ着彩品質に関しても大きな労力を掛けた一枚絵のシーンは、物語の重要な場面で投入されるべき――そしてそれゆえ自らの重要性を通じてその場面の重要性をも担保し体現する――AVGの華」といったものであっただろう。しかしながら、立ち絵が単純な――あるいはお好みなら「抽象的な」――存在提示であった時期から次第に多彩な表現作用を担いうる素材として認識されるようになり立ち絵シーンが複雑さと運動性を増していく中で、それとの落差として一枚絵シーンの硬直性が意識されざるを得なくなってきた(――これは私個人の経験にも由来するが、現にゲーム制作の現場においても明確に意識されているようである。証言の一例として:[ http://togetter.com/li/20286 ]。実践的には一枚絵よりも立ち絵の品質にこそ労力を投入すべきだという診断まで現れている)。
それでは一枚絵は、抽象的なイメージイラスト的画像をただ素朴に提示しておくだけで済ませるスタイル――つまりまさに紙芝居的な表現――が許され認められていた時代の遺物であってその時代の古い様式感覚と結びついた一種のレガシーコストのようなものでしかないというのだろうか。私はそうは思わない。(1)第一に、立ち絵のみならず一枚絵に関しても様々な拡張的表現の手立てが開発され導入され普及してきている。本文でも『恋色空模様』からいくつかの例を挙げた(Ⅰ章2節)が、差分増加、レイヤー分割、アニメーション導入、拡縮やスクロールといった様々なアイデアが、いくつものブランドによって試みられている。(2)また、一枚絵が有する特有の存在感は、AVGの歴史の中で習得され形成された感性にすぎないというわけではなく、一般的に妥当するものであろうから、一枚絵が完全に廃棄されるということは考えにくい。(3)さらに、幸か不幸か、脚本の長大化傾向に比して一枚絵の枚数はここ十年来ほとんど増加しておらず、それゆえゲーム進行全体の中で立ち絵シーンと一枚絵シーンの比重は大きく変化している。ここからさらに、一枚絵シーンの比重を減らしていく(あるいは一枚絵シーンでの脚本進行の長さを切り詰めていく)という方向性で、問題を解消することも考えられるだろう。いずれにせよ、一枚絵に関しても表現技巧開拓の余地はまだ十分に残されているというのが、私の予想であり期待である。
……こういうことを考えて、本文に加筆した。
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