2013年5月7日火曜日

経過報告15

  その他諸々(2013.05)。


  2013/05/31(Fri)

演出論ブログ版個別記事
雑記
1-13 / 14 / 15




 
 
コメントページ
趣旨説明
自己紹介
 
 

  思い立ってブログトップをこんなふうにしてみたが、今一つだったのでとりやめ。これはこれで、デザインとしてもきれいだし、タイルレイアウトとしてもちょうど良いし、各項目が非常に見やすくなるのだけど、私自身のデザインだと言えないものを看板として掲げることは躊躇われるので……。せっかくなのでここに残しておく。ちなみに各辺の長さの比は適当(――元作品はきれいな整数比だが)。



  2013/05/30(Thu)

  ああ、これだよ、成瀬氏のこのカキンと陽気に響くソプラノシャウト、そう、これだよ! 美少女ゲーム分野(特に白箱系)の朗らかさと美しさと豊かさと瑞々しさと純粋に理想化されたその世界とその幸福をその声一つをもって象徴し体現しているかのような、このまっすぐな声。


  私はどうして『月あかりランチ』(明日発売)の予約券を持っているのだろう……白衣萌えくらいしか思い当たる理由は……と、気付いた。波奈束風景買いだった。うん、これは当然買うよね。


  「プレイせねば」という言い回し――先日ここで書いた文章の一節――は、形式的には文法上なんら間違いではない筈なのに、なんだか物凄く違和感がある。「プレイ」という外来語と「せねば」という古めかしい表現の相性が良くないからだろうか。


  以前に何かのタイトルで、真理幸福統一なんちゃら学会みたいな名前のカルト団体が登場するものがあった筈だけど、30分ほどweb検索しても見つからない。 たしか最近(ここ1~2年くらい)の低価格タイトルだったと思うけど……。私の検索スキルもこの程度か。


  SkyFishのにゃんとかマキアートは、CGのネコたちがもっと可愛ければ……買うけど。



  2013/05/29(Wed)
  来週からは多忙になるので、ここの更新が滞る……かも。


  ふりかえってみると、「プレイしておきたいと思っているタイトル」や「ユニークな内容らしいので知っておきたいタイトル」や「きちんと向き合わねばならないと考えているブランドの、里程標的重要性があると見做されているタイトル」は、少なくともXP時代以降(要するに今世紀の作品)に限ってみればだいたい買い揃えてあるのだった。もちろん、そのわずか数百本の中にアダルトゲームのすべてが含まれているわけではなく、私が知識としてすら知らない数千本の中にも優れた作品は無数にあるに違いないし、XP以前のものはほとんど知らないままと言っていいし、そしてそもそも買うだけで積んでしまっていては意味が無いが。
  そんなわけで、これまでは中古コーナーをたまに見て回ることもあったが、今後はもう中古タイトルはできるだけ買わず、新作を買うようにしていきたい(――中古購入では、肝心のメーカー側にお金が届かないし)。そして、買うよりもプレイすることに努めていきたい。
  中古コーナーを見て回るのもたいへん楽しい時間なのですけれども。時代の懸隔を超える出会いや歴史を感じさせるタイトルとの出会いは、古本屋巡りと同じように、とても刺激的なものです。

  今でもXP実機(ノート)とwin98実機(ノート)は一応手許に置いてあるけれど、そうした時代のゲームをわざわざプレイすることはかなり億劫になっている。心理的な意味だけでなく、インターフェイスやクオリティ(CG解像度や音質)の問題といったプレイ環境の物理的問題がプレイヤーを遠ざけているという意味においても。
  2005年以前のタイトルを100本以上も"積"んでしまっている(愚かな)私ですら、今年に入ってからプレイしたのは大半が2010年以降に発売されたもので、2005年以前のタイトルは1本しかプレイしていない。それらのタイトルに興味が無くなったというわけでもないし、それらのタイトルの歴史的意義が果たされきったというわけでもないのだが、セーブスロットが少なく既読判定も存在せず回想モードも整備されておらず、ヴォイス音質も低く立ち絵の輪郭はジャギーだらけで解像度も低く原画のセンスも一時代前で、ことによると動画のコーデック対応やインストーラーのOS対応も失われていたり当時の攻略サイトも閉鎖されていたりするタイトルをプレイするのは、いよいよ難しくなっていく。だからこそ、あれもこれも早くプレイせねばならない。青山氏初期の名演を、木村氏の主演タイトルを、西田氏最盛期の記録を、大波氏の(当時の)代表作を、鈴田氏の全作品を、長崎氏やAYA氏や神崎氏や宇佐美氏が第一線にいた時代を。


  [ ameblo.jp/ogurayui/entry-11537666171.html , 11538286278 , 11538392756 ]
  声優さんの自キャラコスプレ……! 文字どおり複数次元の交錯する表現に、頭がくらくらする。
  自キャラコスにも先例は存在し、その意味では突飛な振る舞いというわけではない。美少女ゲーム界隈で最も有名なのは、例の着ぐるみ声優かもしれないが。


  鈴田氏インタヴューというと、「visual style」第13号(p.8-)がある。
  [ www.product.co.jp/?center=vs&vs=3 ](※「visual style」一覧ページ)
  [ www.product.co.jp/?top=vs&no=13 ](※第13号)

  [ www.chuable.net/blog/1208 ](※『アステリズム』に関する鈴田氏インタヴュー)
  なんと、こんな連載記事があったとは……。



  2013/05/28(Tue)

  おー、双龍氏原画の新作が出るのか。
  そういえば、「しゃくなげ」ブランドの作品はほとんどプレイせずじまいだったなあ……。なるみすずね氏と双龍氏の原画二枚看板に、成瀬未亜氏を常連起用(※5タイトルすべてに出演)されていた、その意味ではとても趣味の良いブランドだったのだけど、なんとなく縁が無くて『オト☆プリ』くらいしかプレイできなかった。『プラゥヴ クルイード』あたりをプレイしておこうかなあ……あっ、こんなところに成瀬ヴォイスの傘キャラがいるー!


  眼鏡を外すのは駄目じゃろうがっ!
  ……あるタイトルをプレイしていて、つい叫びたくなりました。
  外していい眼鏡は……うーん、えーと、例えば「グリグリ眼鏡」と、「一時的変装のための眼鏡」と、あとはせいぜい「戦闘敗北時の眼鏡破砕」とか「眼鏡を外すとその裸眼から異性を興奮させる魔法が放射されてしまう『マジカルウィッチアカデミー』のショタ主人公」くらいではなかろうか。
  グリグリ眼鏡のヒロインは、『巫女みこナース』とかにもいた筈。姉三六角巫女みこナース!

  何度でも言うが、『ToHeart2』には、(プレイヤーが経験するイベント順序でいえば)物語の進行とともに眼鏡を掛けるようになるという素晴らしいヒロインがいる。ただただ感涙に咽び泣くしかなかった。ちょうど当時のみつみ絵は、バランス良く完成度の高いものだったし(――私がプレイしたX-RATED版は2005年発売。PS2版は2004年)。
  『ドラクリウス』にも、物語の途中で眼鏡を掛けるようになるヒロインがいる。こちらは新堂真弓か上田朱音かといわんばかりの赤メガネで、これもこれでたいへん良いものでした。
  『Chu×Chuアイドる』のアイドルヒロイン(上杉うた)も、変装のために眼鏡をかけ帽子をかぶるという立ち絵変化を披露してくれた。



  2013/05/27(Mon)

  エンドロールの時間は忙しい。エンディングの感興に浸りつつ、流れている楽曲にも注意を払わねばならないし、クレジットの内容も注視しておく必要があり、さらにその後に来るであろうエピローグに備えて心の準備も整えながら、次周プレイの計画もそろそろ考え始めることになる。実に忙しい。


  純愛系AVGで告白シーンから即座にベッドシーン(その場の状況から、ベッドの上ではないことも多いが)に移行していくのはたしかに味気ないものだと思うが、しかしやむを得ないことだとも理解している。告白成就という最大のクライマックスシーンが、ヒロインと初めて結ばれるという最高の(プレイヤーに対する)報酬シーンへとまっすぐに受け渡されるのは、"アダルト"ゲームとしての価値構造及び作劇構成としてあまりにも理に適ったものである。さらに、イベントCG配分上の最適化調整や、ベッドシーン増量要求に由来するベッドシーンの前倒し要求(2004年の『燐月』『巫女さん細腕繁盛記』あたりが先鞭をつけ、2006~2007年にはすでにWhirlpoolUNiSONSHIFTを通じて顕在化していた)なども、この傾向を後押ししていると思われる。それに対して「情趣あるいつくしみを、戯れに満ちた交歓を、やさしい情愛を」と望む者は、「全年齢ギャルゲーでもやってろ」という反駁の前にただ押し黙るしかない。
  もちろん、一昔前にもこのようなものはあった。告白-即濡れ場-即エンディングという体裁の作品は十年以上前にも非常に多かった。当時の純AVGタイトルは、『ToHeart』(1997)も『Canvas』(2000)も『ONE2』(2002)も『パティシエなにゃんこ』(2003)も、どれもそうだった筈だ。告白成就からベッドシーンへ向かう道程をじっくり描くようなスタイルは、むしろ常に傍流であり続けてきた、あるいはただ単にマージナルなごく少数の事例の飛び石でしかなかったと述べる方が正しいのだろう。そして、2013年現在の目で見れば、それよりも有望だった(そして成果を挙げた)のは、ストーリー上のドラマティックなシーンと"実用向け"のアダルトシーンとを分離するのではなく、アダルトシーンの中で愛情表現を扱いきろうとする、いわゆる「イチャラブ」志向のアプローチだったと思われる。

  できるだけ実際の個別作品を念頭に置きながら書いたが、ふりかえってみると私は純愛系AVGをそれほどプレイしていないので、全体の展望や事例への言及に自信が持てなかった。


  【 「純愛系」の定式化? 】
  「純愛系(恋愛系)AVG」を理念型的に定式化するなら、どのような要素が挙げられるだろうか。1)ストーリー面では恋愛要素が中心的な役割を占め(※つまりプレイヤーが追求すべき価値として措定されており)、2)エンディングも主としてヒロインとの関係に即して描写され、3)分岐構成も(イベント内容とフラグ構成の双方において)個々のヒロインを基軸としている、といったところだろうか。
  1)は大前提だろう。サスペンス要素やSF要素が物語全体の中で支配的な位置を占めるものは、恋愛系とは呼ばれまい。2)については異論の余地があるかもしれない。3)は、例えば各ヒロイン(とのエンディング)がフラグ構成上等価に並列されている(cf. 「エンディング配置」論)という場合には、"恋愛系"らしさを強めるだろう。
  ……こんな話も、2000年前後には活発になされていたものだが、最近は――というか「批評」がみずからその都度の新作の新機軸に身を浸すことを止めて単なる受け身の雛鳥に退行して以来ずっと――ユーザーの間でそうした理論的な意見交換が為される機会は乏しくなっている(――彼等のこの十数年が、いったい何人の才能を見出し紹介し得てきた[こなかった]か、あるいははたしてどのような理論的にまとまった成果を出してきたか[こなかったか]を考えると……少なくともアダルトPCゲームに関していえば、「批評」の十年は砂漠の十年だったんじゃないの? 十数年前には存在したそうした可能性――すなわち客観性[実証性]と一定程度の一般化可能性そして技術的に[or技術に関する]正確な分析の可能性、つまり「学」を育む可能性――に目を塞いでしまった十年じゃないの?)。


  【 Escu:deと音響設計 】
  (ここで書いてもたぶん読まれないと思うので、あくまで独り言[あるいは一般論]のつもりで。)
  [ d.hatena.ne.jp/mp_f_pp/20120331#c ]
  『あかときっ!』(2011年)は、現実世界におおむね等しい状況として受け取れる架空世界(つまりその世界にベートーヴェンやショスタコーヴィチが"実在"したとしてもおかしくない世界)なのか、それとも現実世界の延長上にイメージすることのまったくできない世界像なのかが曖昧にされたままであり、それゆえククリク様が必殺技を「ベートーヴェン交響曲第5番」や「グスタフ・マーラー」や「歌劇『魔弾の射手』」と――つまり現実の歴史的事実(固有名詞)以外の意味では理解できないかたちで――名付けている事実をどのように受け止めればよいのかも、終始宙づりのままだった。このアイデアが、ディレクターサイドからのコンセプチュアルな提案の下にあるのか、それとも脚本家の裁量事項として彼の筆によってもたらされたものなのかも、ユーザーには分からない。
  本編中でのククリク様のキャラクター造形は、アイドル好きという側面は描かれていたが、クラシックに関しては一切言及されていない(――FDでどうなっているのかは知らない)。クラシック音楽の固有名詞群によっておおまかに示唆されるそのイメージは、「ビューティフル&エレガント」を自称する彼女のゴージャスでブリリアントな「王者」のイメージと重ね合わされるのだと言えないこともないが、しかし彼女が最も頻繁に見せるところの純朴で善良な子供じみた側面には似つかわしくないし、また、人声を取り込んでヒップホップを基調としつつガムラン風へボサノヴァ風へと遊び回るBGM群の編成に対してもいささかミスマッチを感じざるを得なかった。正直に言えば、そのクラシック系ネーミングは、意味が分からないものだった。
  BGMとの関係についてみると、スタッフコメント欄で音響担当のTOY氏は「時間の限られたプロジェクトだったため、残念ながら素材提供だけになりました」と述べており、時間的余裕があれば実際にその名前に対応する効果音が付与されていたのかもしれない。しかし、時間的余裕があったと思われるFD(※ちょっとだけプレイした)においても、そうした音響追加はなされていない。ここから、クラシック系ネーミングは、制作サイドからはほとんど重視されていない、単なる気まぐれのお遊びであったという可能性も考えられる。
  ただし、補足しておきたい――強調しておきたい――が、Escu:deの音響作りはけっして安易なものではなく、それどころか(とりわけ上記TOY氏がBGM制作するようになって以降)丹念かつ意欲的な音響制作を試みているブランドである。その白眉は『ヴェルディア幻奏曲』(2008年)だろう。この作品は、魔力楽器を演奏する5人のヒロインたちとともに街の音楽祭に出場する物語だが、ここでは汎用的なBGM群とともに、本編中で彼女等が演奏する楽曲が何十曲も、そしてしかも全員合奏だけでなくデュオ(二重奏)やトリオ(三重奏)が様々な組み合わせで様々な場面のために、あらかじめ用意されている。そして全体としては、この作品の中で流れる音楽は、(三枚組サウンドトラック[ele-a006]によれば)80曲以上にものぼる。「サウンドスケープADV」の名乗りに恥じない、物語の音楽的表現を追求した秀作であった。さらに、3勢力でプレイできる大規模なSLG作品『乙女恋心プリスター』(2010年)では、多数のキャラクター専用BGMから勢力×ムード別のアレンジ曲集に至るまで、楽曲数は115曲(サントラCDで4枚)にまで拡大されてその作品空間を彩っている。

  『ヴェルディア』『プリスター』のサントラ曲目については、さしあたりgetchu.comの
  [ www.getchu.com/soft.phtml?id=576611 ]
  [ www.getchu.com/soft.phtml?id=684727 ]
を参考にされたし。『ヴェルディア』サントラは所持しているし、『プリスター』は本編製品版をすでに購入していたのに「本編+FD+サントラ」セット版をわざわざ買い直したのだった。


  ……って、え、あれ? 私、いつの間にか、Escu:de萌えになってる……。



  2013/05/26(Sun)

  以前は「積み○○」という表現に実感を持てなかったのだけど、最近になってその言わんとするところが理解でき(てしまっ)た。うん、物理的に「積」み上げてしまうんですね……。紙箱タワーが1本、2本、3本、そしてその背後には段ボール箱の山がまるで土嚢のように2段、3段、4段……自室の中に防壁構築でもしたいのかと自分にツッコミしたくなるほどに。いくつプレイしてもけっしてなくならない積み石。書籍の場合はできるだけ本棚に収納している――というか書籍を縦積みにしてしまうと利用上致命的なので、きちんと配架していかなければ、どうしようもなくなってしまう――が、ゲーム紙箱の場合はサイズが大きすぎて収納しきれないうえ、縦積みしてもそれほど不便にならない軽さなので、つい……。
  ディスクメディア(とマニュアルとシリアルコードペーパー)だけ取り分けて箱は潰してしまえばコンパクトになるし実際にそうしていた時期もあったが、あまりにも情趣に欠ける行為なので、万一の時の最後の手段だと考えている。


  表面にキャラクターの顔がプリントされ下部には柔らかな隆起が設けられた○○マウスパッド、試しに使ってみようかなと思い立ったものの、店頭で手にとってみたらこれは無理だと気付いた。自分の腕をその上に置かせてもらうのは良いとしても、キャラクターの顔面にマウスを擦りつける行為は、さすがに申し訳なくて出来ない。
  それなら後ろ向きのヒップマウスパッドなら大丈夫だろうかと考えてggってみたら、たしかにそういうデザインの商品もありはしたが、しかしそれらも見返り美人的にこちら側へ顔を向けていたので問題は解決しなかった。


  【 既成曲使用について 】
  PCゲーム(AVG)におけるクラシック(既成曲)使用についてはすでに概括的に言及した(cf. 演出論Ⅳ-4-2-α)し、ある程度収集されてもいるが、そろそろ使用形態や位置づけについてのまとまった論説的記事が書かれてもよいだろう。ただしそれはおそらく私のすべき(私になし得る)仕事ではないが(――自分がプレイした範囲でも、30タイトル以上の実例を知ってはいるものの、やはり知識も能力も全然足りない)。音源選択、アレンジの有無、使用曲と使用者、クレジット分析など、考えねばならない論点は多岐に亘る。さしあたりおおまかに捉えてみると:
  ブランド単位でいうと、たとえばpajamas soft系列は(意外にも)既存曲使用が多いように見受けられるし、light、elf、Leafのそれも目立つ。Waffleもクラシック使用が多いかもしれないと予想される。クリエイター個人で見ると、水無神氏が携わった2タイトルが際立っている。
  使用形態については、1)内容上無関係なもの、2)演奏シーン(特にピアノ独奏曲)、3)音楽学院もののBGM、4)パロディ(特に『2001年』や『地獄の黙示録』といった映画からの引き写し)、5)効果音的使用などがある。
  音源については、既存録音をそのまま使っているものはおそらく皆無に近く(『SWAN SONG』くらいか?)、打ち込みにも手間が掛かるので大編成の曲を長時間流すことは稀だと言っていいだろう。それらの事情からして、わざわざループ処理が施されることも少ない。
  商業PCゲームでは、作中で既成曲を使用した場合、エンドロールに明記されることは少ない。既成曲の使用範囲の少なさ(時間の短さ)や、BGM作曲者とは異なる管轄範囲であることをその理由として想定する見解は妥当だろう。



  2013/05/25(Sat)

  【 はにはにラジオ 】
  「はにはにラジオ」の素晴らしさをかみしめている最中。なんたって、岩居氏と猪口(いのくち)氏がパーソナリティなので。いのくち氏は、アニメ『ヨスガ』では悲劇的なヒロインの感情の機微を目の詰んだ芝居で細やかに表現されていた方だが、このラジオではふにゃふにゃした発声で、なんだかとんでもなく可愛らしい。このラジオはパーソナリティが本人としてではなく作中キャラクターとして出演する体裁の、なかばラジオドラマのような構成になっており、そのせいもあるのだろうが、しかしそれだけでは説明しきれない魅力がある。
  web版では何度か聴いていたが、残念ながらディスクはまだ全巻買い揃えていない。

  ……って、あれ? 今の今まで、神田理江氏と神田朱未氏を混同していた。ごめんなさい。偶然にも同い年(1978年生)らしいが、"理江"さんは――PCゲームに関係するキャリアでいえば――AUGUST作品のアニメ版2本(『月は東に日は西に』『FA』)で主演されているお方で、"朱未"さんは『D.C.』シリーズのアニメ版やPCゲーム『アマネカ』『CLANNAD』に出演されているお方。「プリっちラジオ」で幡宮氏と仲良くそして時々黒くおしゃべりされていたのも、こちらの「はにはにラジオ」で幡宮氏と順番で登場されているのも"理江"さんの方。
  (※後日追記:またも間違えていました。ご指摘に感謝しつつ修正しました。)

  さらに余談になるが、『はにはに』コンシューマ版と『プリっち』ドラマCD版は、妙にキャストが被っていて、幡宮氏と神田理江氏、そしてひと美氏といのくち氏(※この2006年当時はまだ漢字表記)まで出演されている。私が持っているのは「プリンセスうぃっちぃず ハイ☆ぱ~ドラマCD」の一枚だけ。『プリっち』のドラマCDはあと2枚リリースされているらしいが、そちらはPCゲーム版のキャストで構成されている模様。
  cf. [ www.pajamas.ne.jp/goods/drama05.html , drama06.html ]
  さらにさらに余談だが、pajamas softのドラマCDもキャストが変わっていることがあり、「ぱじゃまドラマCD」では「ミオ」役が倉見氏ではなく成瀬未亜氏になっていて、この成瀬版ミオもこれはこれでたいへん良いものでして……。
  cf. [ www.pajamas.ne.jp/goods/drama01.html ]


  「桜ノ杜ぶんこ」ってどんなのだろう? ……と訝りながら難波メロンをうろうろ探してみたら、なんと目に鮮やかなピンク色背表紙のシリーズだった。「フランス革命と潜水艦をこよなく愛する、ワープロを打てる猫」という日野氏の自己紹介も妙に面白い。


  『どろり~』は無事買えた。こんなこと[tw: 335317900539871232 ]も言われており、予約しなければ買える保証が無いというのはつらい話だが、やむを得ない(――上の発言者はメーカースタッフなのでおそらく本当だろう。しかし、これが常態化するということは、ユーザー層が「忠実な予約購入者」と「カジュアルな中古購入者」に二極化する危険に晒されているということでもある。ちょうどアニメ分野が、高額なディスクを購入する者と放映のみの視聴者に分かれているように)。


  丸新氏は、すでにアダルトゲーマーの第二世代なんですね。文化的な「世代」の話ではなく、実際にお父上が本格派のアダルトゲーマーで、その影響を受けてきたとのこと(cf. 『すぽコン!VFB』131頁)。


  「肉じゃがは定番のメニュー」だという話は、とりわけ「女性が男性に対して作ってあげると受けの良いメニューだ」という主張は、ゲーム内テキストで頻繁に(そして実生活上でもたまに)耳にするが、肉じゃがの良さが分からない私にとってはただそれを不思議がることしかできない。べつに嫌いな料理ということでもないけれど、ちっとも特別なものではないし、単なる平凡なメニューの一つとしか思えないのだが、いったいどういうところが良いんだろうか? あるいは、どういうイメージから、そんな共通了解(?)が形成されているんだろうか?
  例えば『痕』(1996)には、ヒロインの作った料理を推察する選択肢場面があり、そこで「肉じゃが」を選ぶと大喜びする男性主人公に対して違和感を覚えつつも「この主人公は、肩肘張らない庶民的な和風の味覚に馴染んできた素朴で善良なキャラクターとして描かれているんだな」と納得したものだが、それ以降もくりかえし同種のネタを目にして、本当に不思議になってきてしまった。
  考えてみれば、日本人ならほとんど誰もが知っているであろう家庭料理であり(しかも味付けや盛りつけのヴァリエーションが極端に異ならないためイメージを共有しやすい筈)、揚げ物のような手間が要らず食材もポピュラーなものばかりで比較的手軽に作れる(それゆえ作っている場面を想像しやすい)メニューであり、「温かさ」「素朴さ」「和風」のイメージをはっきり表しているので、いわゆる「おふくろの味」という通念に合致しやすいのかもしれない。これはこれで嫌な話だが。そして、それはそのようないわば代用として規約的に定められた嗜好表現なのか、それとも現実的経験に即して再把握され(ることを期待してい)る志向性表現なのか。


  [ www.alcot.biz/page_ev/ev_rad/rec.html ]:6月6日から配信開始とのこと。
  キャラクター芝居ではない遠野氏ご自身としてのおしゃべりは、triangle作品のフリートークくらいしか聴いたことが無いが、たしかサービスの行き届いた洒落の分かるおしゃべりを披露されていたと思う。北見氏は、「こいそらじお」のディスク版特別ゲスト(「若葉椿」氏)としてラジオ登場されたことがあり、こちらも(ゲームで演じておられた役とは対照的に)陽気な笑いを振りまいておられたのを憶えている。このお二人であれば、きっと楽しいラジオトークを作り出して下さるに違いない。


  ……あ、まずい、迂闊に「はにはにラジオ」ディスクを引っ張り出してきてしまったせいで、今日一日ずっとそれを聴きっぱなし、浸りっぱなしでいた。



  2013/05/24(Fri)

  2013年現在でアダルトゲームを、たとえば「10年間」プレイしてきたということは、倫理機構的自主規制に即した振舞いをしているならば、28歳以上(=1985年以前の生まれ)ですからね……。EGScapeの登録者分布を見ても、以前の雑記(2013/3/2付の下の方)でも概観したとおり、この世代が最も(群を抜いて)多い。本当に、世代を感じずにはいられない。
  ※私がこの世代に属しているという話ではありません。


  [ www.youtube.com/watch?v=EvqFIMk-pBs ]:こんなふうにサンプルを見ていると、E-moteはやはりスカートを動かしてパンテラレオさせるしかないのでは、と思えてくる。



  2013/05/23(Thu)

  今日も飯野汐里ヴォイスを聴けた。
  もう怖くない。

(……失敗。パロディとしても上手くないし、実際の気分をなんとなく反映してはいるもののテキスト単体として見て意味不明だし、表そうとしているコンテキストも正反対だし、「汐」と「海」をちょっとばかり掛けてみたとはいえ文のリズムがまるで出来ていない。反省。ただし、「この芝居を聴けたのならもう後悔することなど無い」と言いたいくらいの気持ちになったのは本当。)


  【 逆光表現について 】
  『ONE2』『屍姫と羊と~』の頃から、私の中ではNEXTON(特にBaseSon)は、逆光夕陽演出が許されるのはこのブランドだけだと言ってしまいたいくらいの地位にある。実写に比べてCG彩色では逆光を(そしてライティング全般を)コントロールするのが容易であり、そしてそれゆえ逆光エフェクトを盛り込む敷居が非常に低いのだが、しかしそれが伴いうるイメージの幅の狭さのせいもあり、一度やってしまうと急速に陳腐化してしまいやすい。
  とはいえ、ORBIT作品の鮮烈な夕陽や、Escu:de作品の柔らかでやさしい残照や、SkyFishが見せてくれた遠く鈍い輝きはたしかに美しく、それらの前では文句など出よう筈も無いのだが。最近でも、例えば『少女神域~』(※未プレイ)のOPムービーやサンプルCGを見ると、その一見明らかな光源表現への注力ぶりにもかかわらず、夕陽それ自体をどぎつくフレームインさせることは差し控えられており、自然光(陽光)や人工光(灯籠)の赤くあるいは白い照り返しのみによってキャラクターの輪郭を隠微に彩っているのが見て取れる。OPムービーでも、夕陽はカメラの隅にちらちらと見え隠れするばかりであり、直射光とともにフレームインする場合でも間近の木の枝によって即座に覆い隠されてしまう。制作者による明確な設計を窺わせるライティングコントロールである。デビュー作『青と蒼~』の水没都市イメージから『Festa!!』のオレンジ色テキストボックス多重表示に至るまで、着想は良いものの美術的センスが今一つ野暮ったく通俗性の印象を拭えないブランドというイメージだったが、今作のLassはそのあたりが随分ブラッシュアップされたように見える。
  ……早くプレイしたいなあ。もちろんすでに買って手許にはあるのだけど。


  補足説明のために丸括弧"()"やダッシュ"――"を多用してしまうのは悪い癖だと自覚しているので、できるだけそういう挿入句/節は減らしてストレートに読めるようにしている。なかなかうまくいっていないけれど。


  篠原氏、鮎川氏、みる氏、姫川氏、萌花ちょこ氏、金松氏、まき氏あたりでキャストを固めた甘々なゲームを作ったら、その世界に飲み込まれて"帰ってこれなく"なってしまうユーザーが続出したりしないだろうか。もしそんな作品が出来たら、相乗効果でどんな音響空間になるか、想像しきれない。ブランドで言えば、たとえば脳彼あたりがそういうのに挑戦してくれないものだろうか。


  アダルトゲームで有名な日付といったら、現実の4月26日(2002年の有名な発売日。奇しくも『426』というタイトルも発売された)や、ありがちな12月24日(ポリバケツ)を別とすれば、やはりループゲームの最終日だろうか。『3days』の10月18日(錠前破壊)、『腐り姫』の8月14日(赤い雪)。それに類似するヴァリアントとして『終ノ空』の7月20日も。『うさデリ』は酷暑の季節だったと思うが、具体的な日付は忘れてしまった。
  現実サイドの象徴的な日付としては、不幸な「沙織事件」の11月25日というのもある。


  【 作品内時間の長短 】
  いつものとおり他愛のない気散じの話題だが、作中の経過時間の最も短いタイトルはどれになるのだろうか。
  ちょうど上で言及したように、ループゲームはしばしば(経過した時間の総延長はともかくとして)暦の上での開始日と末端日の距離は極端に短くなっている(――例えば『3days』はタイトルどおり3日間、『腐り姫』は4日間のループ。『あかときっ!!』なども同様)。ファンタジー設定や入れ子構造を伴うことによってある観点では経過時間が非常に短いものになるというタイトルもある。例えば『黒の図書館』は、多数の「本の中の世界」を経験して回る物語だが、それらの上に立つ図書館の世界の次元では、わずかな時間しか経過していない。
  ミドル/ロープライス込みで考えると、物語全体がほんの一日の間の出来事として構成されているタイトルも、少なからず存在する(例:『ワンコとリリー』『雫』『だめがね』、等々)。非AVG作品(とりわけSTGやACT)もしばしば、中断や時間経過を挟まず、すべてが一日の出来事に収まっていると見做されることがある。
  フルプライス級では、ややトリッキーな作りだが『Crescendo』(CD版)は卒業式の一日をベースにしており、その中に大量の回想シーンが挿入されているという構成になっている。『しすたぁエンジェル』も、一日一話の4話構成=4日間の物語。『らぶKISS!アンカー』『神樹の館』も時間経過はずいぶん短かった(たしかほんの2~3日間のストーリーだった)ように思う。
  短くなりがちなのは、サスペンス/スリラー/ホラー/ミステリものだろう。例えばサスペンスものの『鎖』は、(エピローグ部分を無視するとして)メインパートのみに限って見れば、せいぜい48時間以内のことだった筈。ミステリの『クロウカシス』も、作中の経過時間は1~3日。古典『野々村病院』や、『つくとり』『百鬼』『獄淫の尖塔』などもたしかそういう作り。ループや回想を含まないストレートな進行のタイトルとしては、おそらくこのあたりが最も短い部類だろう。
  非常に先鋭的でありそしてきわめて洗練されたゲームデザインの実例として、CODEPINK特有の精緻なフラグシステムに伴われた『皇涼子のBitchな1日』はここで特筆されるべきである。

   他方で、大きな飛躍無しに継続される時間経過が最も長大な作品というと、300年プレイのできる『グリンスヴァールの森の中』が有力だろう。この作品では、1ターンで1年が経過し、最大300ターンまでプレイすることができる(――この他に、一部のSLG作品では、ルール上/システム上、ゲーム終了期限が存在せず、それゆえ事実上無限に時間経過させることができる。ただし、プログラム上のカウンター上限が存在するため、通常は厳密な意味での「無限」ではあり得ないが、例えば『南国ドミニオン』が「999日目」以降を「【幾星霜】日目」としているように、無限経過を可能にすることはできる)。単純な時間的延長の長大さでいえば、ビッグクランチ(宇宙の終わり)とおぼしきシーンまで描いた『R.U.R.U.R』がトップクラスになるだろう。AVGの中でも、ループゲームの各周回を単純に加算していくことを認めるならば、テキスト上で万単位の周回を繰り返しているとされる場合もあり、そのシステム上、プレイヤーが望んでそのようにプレイしさえすれば無限に周回をくりかえすことができる場合もある。

  漫画単行本では、たとえば描写の細かいスポーツ漫画であれば、一冊あたり十数分相当というものもありそうだ。


  ループゲーム+タイトル画面変化は、非常に相性が良い。『腐り姫』。
  cf. [ www.geocities.jp/asano_mizuki/kouryaku/kusarihime.html ]


 
  2013/05/22(Wed)

  いつもながら、演じるキャラクターと同じ名前の役者さんがキャストされているページは、注視することができずすぐ閉じてしまう。これについては、建前としては(以前[2012/08/10付雑記]にも態度表明したとおり)芸術上の観点でも道徳上の観点でも問題は無いと述べることが可能だし、もとより現代のコンピュータAVGは役と役者の違い(分離)が意識されやすい分野でもあり、さらにアダルトゲーム声優諸氏は(とりわけベッドシーンを含む場合には)ほぼすべて芸名であって役者の個人的アイデンティティからは明らかに距離が取られており、そして実際にプレイしている最中はほとんど気にならなくなるものだとはいえ、しかしながら、この種のものにはどうしても耐えられず、まるで忌まわしいものを見てしまったかのような気分で目を背けずにはいられない。最近では、「メイメイ」役の○○○メイ氏の符合は偶然だったとされているが、「××こおり」役の「○○こおり」氏の場合はさすがにきつ過ぎる。冗談としても笑えないし、喜ぶこともできない。


  【 伊藤氏の企画と演出 】
  テキストボックスを使ったユニークな"仕掛け"というと、『ク・リトル・リトル』(Black Cyc、2010)がある。下半身に特徴的な変化を生じるキャラクターたちが登場するのだが、彼等の下半身は通常進行の最中はテキストボックス(※ぎりぎりの半透明デザイン)に遮蔽されたままであり、そしてテキストもさしあたりその事実に一切言及しないまま、ゲームは平然と進行していく。物語の後半では彼等のその身体的特徴が明示されるようになるのだが、それ以前に、彼等の登場している場面でたまたまテキストボックスを一時消去したプレイヤーは、その発見に驚嘆せざるを得ない。プレイヤーがいつその変化に気付くか、そして、気付いたプレイヤーは「その変化が実際にはいつから生じていたのか」と考えることになるか。ここではクリエイター側とプレイヤー側との間で、その発見を巡って非常に隠微なかたちで表現上の遊戯が仕掛けられている。
  この作品の企画立案者(伊藤ヒロ)は、このブランドの他の作品でも、これと同じようにプレイヤーへと直接に指し向けた表現を試みている。例えば、脚本を担当し(そしておそらく企画立案も行っ)た『夢幻廻廊』(2005)には、背景画像の中にいつの間にか人影――『ヤプー』に倣った家具人間――が増えているというシーンがあるが、ここでもテキストはその変化には一切言及しないし、その背景画像も局部照明のみが当てられており、家具人間たちはなかば影に潜み隠れるようにして"いつの間にか"登場して、佇みあるいは蹲っている。その続編『夢幻廻廊2』(2009)においても、主人公の心理状態に決定的な変化が生じるその都度、縛鎖の金ずれの効果音がじゃらじゃらと響くが、これは作中世界に物理的な鉄鎖が存在するという意味ではない。
  無数の楽屋オチを含むスラップスティックコメディ『えむぴぃ』(ぱれっと、2007)がテキストボックス破砕芸を披露し(cf. 演出論Ⅲ-1-2)、あるいは『奥さまは巫女?R』(pajamas soft、2004)の登場人物たちが話者欄の存在に言及した(cf. 演出論Ⅳ-4-3-γ)際には、それらは作中キャラクターがそれらのインターフェイスを認識したものとして描写されていたが、それに対して上記作品群における「テキストボックスによる視界遮蔽」や「心理表現としてのSE」は、通念的に理解される「作中世界」の層に媒介されることなく、それを飛び越えて直接的に、受け手(プレイヤー、ユーザー)の側へ向けた表現となっている。上記『ク・リトル』には、シーンとシーンの幕間に、作中キャラクターが物語の分岐条件を(皮肉に)説明する場面すら設けられている(――同じような分岐案内を『痕』[Leaf、1996]や『THE GOD OF DEATH』が行ったのは、あくまでエンディング後に、つまり物語の幕をいったん下ろしてからのことであったが、本作ではそれが物語進行の真っ只中で、ふてぶてしくも公然と行われる)。


  あらためて言うまでもないことだが。豊かな効果音は、AVG表現の密度と分量をただ嵩増しするだけではなく、それを引き締めることにも寄与する。何百個ものSEが描写の一部を引き受ければ、テキストは冗長にならずもっと簡素に、あるいはテキストが担うべき重要な点に専心していくことができるようになる。もちろん、SEとテキストの関係にとどまらない。演出過多は物語進行を不必要に引き延ばすだけだという偏見(であり、かつ、的外れな理解)はいまだに広く流布しているが、優れた演出は、もちろん、物語進行の速度と快適さを高めることもできる。
  「演出」はストーリーを粉飾しゲーム進行を遅滞させプレイ時間を水増しする単なる余剰的夾雑物にすぎないとする、このありがちな見解は、いったいいつ頃、どこから生まれてきたのだろうか?


  例の呪文を私が音声として初めて耳にしたのは『巫女さん細腕繁盛記えくすとら』(2004)だった。このファンディスク作品に含まれるアクションゲームの中で、ボス敵の一人が必殺技の予備動作として「えこえこあざらくふんぐるいむぐるうなふ」と唱える(――佐本二厘ヴォイスで実際に音声出力される)。この有名なフレーズが公表媒体上で音声表現された例としてはおそらく映像作品等に先行事例があるだろうし、日本のコンピュータゲームの中でもクトゥルフネタを取り上げた作品はそれ以前にも何本も存在した(その後も、例えば対戦格闘ゲーム『CHAOSCODE』でもこのフレーズが音声化されている)が、個人的経験としてはこれが初めてだったし、このブランドについて見てもこの時期からこのネタを取り上げていたセンスとそれをあくまで遊戯的にそっと描き込んだ趣味の良さを端的に示す良いシーンだった(――脚本家日野亘氏と同じく、このブランドは「いあいあ」「ティンダロス」などの語彙をしばしばテキスト中に楽しげに織り込んできた)。



  2013/05/21(Tue)

  インターフェイスデザインへの注力、BGMの選定、そして背景美術の洗練(画像単体としての品質においても、その見せ方においても)に至るまで、作品コンセプトを表現する重要な一部として美術設計をきちんと組み上げてくれているブランドというと、やはりSkyFishとEscu:deを挙げねばならないし、そしてその工学的に内在化された美意識はたいへん好ましい。Littlewitch、UNiSONSHIFT、Innocent Grey、そして(往事の)F&Cも、そうした趣味の良さと、そうした趣味の持つ力を豊かに発揮してきた。


  まきいづみ氏には勝てないよ……。
  そういえば、まき氏のtwアカウントの自己紹介欄で、比較的最近の出演タイトルが多めに挙げられているのは自然なことだと思うが、『HoneyComing』の教師キャラ(サブキャラ。まき氏としては珍しい、喉を軋らせる低音系芝居)が入っているのは随分意外だし、2004年発売の『シンシア』(わふわふ!)を忘れずにいて下さっているのは当時のユーザーとしてとても嬉しい。


  新作の公式サイトを閲覧中に、キャラクターサムネイル画像で「このキャラの配役はもしや、七ヶ瀬氏か?」と思いながらページを開いてみたら当たっていた。ちょっと嬉しい。


  実生活上では、片目隠しファッションも嫌いだし、傘(とりわけ雑踏で日傘を開く人や、畳んで横持ちにする人)も嫌い、そしてスキンシップも環境音ノイズも大嫌いだけど、フィクションではどれも好き。それらが相反するという意味ではなく、ただ単に双方の次元の好悪は無関係に成立することがあり得るということだろう。


  好きなブランド/スタッフの新作情報で、キャストがまだ公開されていない時のやきもきは、やはりキャスト予想(妄想)で紛らすしかない。あまりにももどかしく、かつ自力ではまったく解決できず、そしてしかし(自己満足的な)幸せ(の予感)に満ちた時間。


  「零/ZERO」系のネーミングのはしりはどのあたりだろうかと考えてみたら、PCゲームでは2000年の『EVE ZERO』と2005年の『IZUMO零』があるが、アーケードも含めれば最も有名なのはストZEROシリーズ(1995-)だろう。簡略化されたグラフィクスはむしろスタイリッシュにすら見えたし、ドラマチックモード(二対一バトル)もあった。バーディーのLv3必殺技は、コンボの途中で相手を一度強制的にピヨらせたうえで再突撃する(一連のアクションが自動化されたコンボになっている)というものだが、相手が真・豪鬼の場合はピヨり瞬間復帰されるため、コンボが最後までつながらないばかりか手痛い反撃を受けてしまう。当時ゲームセンターでプレイしていて、友人と大笑いしたのを憶えている。
  ggってみたら『Natural Zero+』(2000)がヒットしたが、どんな内容なのかは知らないままだった。



  2013/05/17(Fri)

  おお、この「原秋葉」氏って、木村さんか!
  わずか1分少々のフリートークでここまで聞き手を幸せにできるとは……。


  『どろり~』は、くらすけ氏原画からやさしい中間色の彩色に至るまでコンセプトを正確に見据えた作品として完成されているにちがいないが、来週まで店頭に残っていることを祈っておく。



  2013/05/16(Thu)

  記事を増やしたせいで、この雑記欄ページが投稿リストの下方へ押し下げられてしまって、更新しにくくなった。うぐぅ。


  桜川氏はなんでこんなにも、おとぼけキャラ(や、おバカキャラ)が上手いんだろう。有名なのは『さくらシュトラッセ』の「里村かりん」や『モノラごころ』の「アコ」だろうが、『シュガーコートフリークス』の終盤で登場する「ふぇいるん」も、ほとんど非人格的なまでにすっとぼけた芝居ぶりで、桜川氏にしか演じられないのではないかと思えるほどの出来だった。「きゃー。警告ー警告ー」 脚本家飯田氏お得意の天丼(繰り返し)テキストも、その場面をユーモラスに造形していた。
  しかも興味深いことに、その一方で桜川氏は、それとは正反対の、表情豊かでライヴ感溢れる日常芝居をも得意としている。例えば上記『SCF』の中でも、世故長けて愛想も良れば気っぷも良い「おかみさん」役を兼ね役として演じきっている。『デモニオン』『恋姫†無双』『英雄*戦姫』等で聴かれるように、戦場シーンでの威勢の良さと非戦闘時シーンのさばさばした親しみやすさを両立させた好人物も、しばしば桜川氏が配役されてきたし、そしてそれらはほとんど当て書きかと思われるほどに良く馴染んだ好演に結実してきた。『水スペ』の主演も、パートヴォイスを惜しまずにいられないほどの、華々しく求心力と活力に満ちたものだった。
  氏の存在は、芝居とは無数の多面的な要素を含む(含まざるを得ない)ものであるという当然の事実のほんの一つの例証に過ぎないが、 その優れた例証の一つでもあると信じられる。


  ああ、この世にはこんなにも良い作品が、楽しい演技の記録があるのに、なんで私はあれもこれもあれもこれもプレイできていないんだろうか。ただのPCゲーマー以外の何者でもない純粋な存在になってしまいたい。


  たしかに80円が100円になるのも辛いけれど、00年代初頭は130円以上にもなっていたので、その当時洋書を買っていた人たちは……。


  このブログでは、個々の創作物の美質を説明し称賛するとともに、時として他の人々に対して批判の言辞を(場合によっては罵倒の言葉をすら)振り向けてきたが、いずれの場合であれ、自分の言葉には責任を持てるように務めており、そしてそれは、できるだけ論拠を明示するということによって行おうとしてきた。とはいえ、もちろんそれは、「自分なりの理由(事情)」のようなものに伴われていさえすればいかなる批判の言葉も自動的必然的に正当化されるというようなもの(十分条件)ではないが、しかし他者に対して公然と提起する言葉が正当化されるための――結果の妥当性という、あり得るもう一つの[ただし実際には議論の正当性を委ねるには頼りない]基礎と並んで――必要条件ではあるだろうし、そして議論が人格攻撃に陥らず公平なものであり続けるために備えておくべきフェイルセーフでもある。

  「旦那さまー。『ふぇいるん』って呼んでー」


  気持ちとしてはフォーエバー・ナインティーンで。(※一応、18歳以上にしておく)


  (個人的にはこれらは使いたくない言葉であることをあらかじめはっきり断ったうえで、)PCゲームのタイトルなどで「女教師」という言葉が時折使われている――EGScapeによれば、この言葉をタイトルに含むものが60本以上存在する――が、これはどう発音するのだろうか。暫定的な私見としては、「女王」「女医」「女学生」「女学園」と同様に「じょ」教師と発音するのが日本語としてはオーソドックスであろうが、しかしこうした分野に限っていえば和語で「おんな」教師と呼ぶ方が色気があると感じられるのかもしれない(――あるいは、熟語としての結びつきが一般に十分普及してはいないという理由から「おんな」教師としておくのが適切であるかもしれない)。
  某攻略サイトでは『女教師冴子』は「お」の欄にあり、『女教師鈴音』は「し」の欄に置かれているが、これが意図的な区分(例えば製品内のタイトルコール等でそう判別された、とか)なのかそれとも恣意的なものなのかは知らない。

  そういえば、かぐやの『女教師』のDVD版は、木村氏(主演)と西田氏が出演されていたのだった。残念ながら買っていなかったが、木村氏のキャラクターは「冷酷で、自分の思い通りにならない劣等生たちをゴミ扱いするような一面を見せる」とのことでどんな芝居をなさっているか楽しみだし、教師ものらしくと言うべきか眼鏡キャラが二人もいるし。……いつものかぐやのハイカロリーなベッドシーン連続に中途挫折させられる可能性も高いけれど。


  一般論としては、なんでもないところでいきなり「あなたの知らない○○」を言い立てる人物の発言は、最大限の警戒心をもって読むようにしている。そうした姿勢では、虚言が交えられる可能性が高いからであり、とりわけ「その人しか述べていない話である」という状況下では、他者による吟味が致命的に不足したままであるため、鵜呑みにするにはあまりにも危なっかしい。もちろん、地位や実績に鑑みて、あるいは論拠の正確さに照らして、十分信用できるという場合も多いが。
  なお、検証可能性に関してこれと多少相通じる事実状況として、現代のPCゲーム(AVG)演出についてまとまった議論を展開し(ようとし)ている方をほとんど見かけないので、私は自分の考えていることがどれほど妥当であるか、自分が書いてきたこのわずかな一連のテキストがはたして公表に値する水準に(つまり、読まれうるレベルに)達しているか否か、自分の議論にどのような欠陥や偏りがあるのか、自分の問題関心が自分以外の人々にとってどれだけ理解可能であるのか、自分の主張がPCゲーマー(及び制作者)一般にとってどれほど受容可能であるのか、多くのゲーマーたちの認識に照らしてどれほど常識的でありあるいはどれだけ新しいことを言えているか、そういったことがほとんどまったく分からないままでいる。……作品外の示唆(作品経験以外の刺激)の乏しさはともかく、自分の興味関心が他人に受け入れられるかどうかについては気にしていないが(――例えば「傘ヒロイン」なんて、ゲーマーの多数から共感してもらえるなどとは期待していない)。


  Escu:de関連の文章、個々の原画家の特質についてのコメント、声優語りのテキストなどは、それぞれ一つのページに集約しておいたらどうだろうかと考えてみたが、前二者はともかく最後のものは間違いなくしかも激烈に恥ずかしいことになるに決まっているということに気づいて、恐れおののきながらその愚かな思いつきを破棄した。鷹月氏や西田氏や木村氏や松田氏についていろいろ書いてきたが、他人の役に立つならまだしも、あれらはただ自分が納得するために書いた文章でしかないし(――私は「書くことで確かめる」タイプで、最初の直感が本当に妥当であるかどうかを、実際に論述として書いてみることによって確認していることがよくある。あるいは、「(単なる中空の想念を超えて実際に)書く」行為とは、そのためにあえて行っているのだと言ってもいい。もちろん、正当性が信頼されうるのは、少なくとも、自分自身が論証上の欺瞞を行っていないかぎりにおいてであるが)。
  「声優語りに限らず、おまえのこのブログは全てが痛々しいじゃないか」とか言わない。うぐぅ。



  2013/05/15(Wed)

  『魔導書の司書』、主人公は眼鏡キャラで、ストーリーは旅ものか。

  3rdEyes新作は、主人公が七支刀(っぽいもの)を振り回す模様。わりと珍しいアイテムで、『アリスマチック』や『11eyes』でも、あるいはSLG作品の『D+VINE[LUV]』や『英雄*戦姫』にも、七支刀は出てこなかった。ともあれ、ダブル桃井に姫川氏、榊氏、越氏まで出演されるので、やはり買うしかない。


  今日はいくつかの記事を単独ページに分離。ネタ記事っぽいのもあるが。論争的なテキストを自ら掘り返して目立たせるつもりは無いのでそっとしておく。経済関係の話題や時論的議論もすべて封印。

- 「PCゲームにおけるワイド化の目的と意義をめぐる小考
- 「CG観賞モードの諸形態
- 「多層的テキスト表示についての覚書
- 「キャラクターの再利用(再登場)に関するメモ
- 「瞳孔表現の変化についてのごく私的なメモ
- 「『門を守るお仕事』のシステムデザイン
- 「『神楽』シリーズについての雑感
- 「ウェイトレスものについての雑感
- 「眼鏡主人公
- 「傘をさすヒロインたち
- 「眼帯キャラたちについてのメモ

  ……なんか、しようもない記事ばっかりという気がしてきた。内容上の重要性と、論述規模(テキストの長さ)と、他人が読んで面白いかどうかと、論述が成功しているかどうか、結論があるかどうかは、それぞれ別問題だよね。「フラグの可視化」や「AVGの画面は何であるか」といった議論は重要だと思っているが、現時点ではきちんとした体裁で提示できていないため、単独記事化は見送らざるを得なかった。フラグまわりの話は、もっと考えて、そしてきちんとした形で提示したい。

  「ウェイトレスものについての雑感」記事はurlを"gogowaitress.html"にすれば良かった!(おばか)

  眼鏡主人公や眼帯キャラを見つける度に雑記ログの該当箇所をいちいち探し出しては更新していたので、早いうちに単独記事にしておくべきだった。
  他の記事も、せっかく単独記事に切り出したのだから、殴り書きのままにはせず、論述の体裁を整えていきたい。

  昔の――といってもほんの一年か一年半程度の昔だが――自分は雑記欄をもっとコンパクトにしていた(本当にメモくらいしか書いていなかった)という事実に気付いてびっくり。


  くっ、羽虫がディスプレイに止まったせいで、タッチパネルが反応して誤動作を!



  2013/05/14(Tue)

  他人に対してなにかを(わざわざリストアップして)おすすめしたいという気持ちになることは無い。趣旨(目標)と対象(相手)を定めずに「おすすめ」を想像する習慣が無いというせいもあるし、リスト形式で本数を「限定」するというのが好みでないせいもあるし、他の人々が私よりも無知(不勉強)だと思い込めるほど傲慢でもないし、あるいは逆におすすめリストを大口開けて待っているような連中の知的怠惰を助長したくもないし、上手いリストごっこのような遊びも趣味ではないし、そもそも他人に対して特定のものを推奨するという行為――つまり知的誘導あるいは知的拘束という知的不誠実――それ自体が受け入れがたいというせいもある。しかし、それらを圧してもしも仮にそういう気になってみるなら、私はどんなタイトルを挙げられるだろうか。
  「良い(優れた)」作品であるかどうか、あるいは「歴史的意義のある」タイトルか、「大作」であるか、「私個人が好きな(あるいは思い出深い)タイトル」であるかといったような考慮は完全に振り捨てて、それらとはまったく別ものとして、かつ、今この瞬間の思いつきとして、手許のプレイ済みゲームリストを見ながら「他の(アダルトPC)ゲーマーたちにプレイしてもらいたいと思えるタイトル」を適当に10本ほど挙げてみるならば:

『あかときっ!』『幼なじみは大統領』『カルタグラ』『桜吹雪』『終末の過ごし方』『少女魔法学 リトルウィッチロマネスク』『水平線まで何マイル?』『とっぱら』『ひめしょ!』『翠の海』(五十音順)

  ……うわ、なんだかすごく恥ずかしいラインナップだ! 嗜好の如何はともかく、どのタイトルも一般的な意味でのクオリティについては自信をもって保証するが(――なお、winXP/win7で動作しそうな範囲で選んである。というか、これを言い訳にして、昔の傑作群を無理矢理落とすことができた。また、一ブランド一タイトルの制約も掛けている。「SkyFishのどれか」「秋華脚本作品ならどれでも」「木村あやか出演作品全部」のような総称的な指示も差し控えた。低価格タイトルも除外した。当初は『ツナバン』と『わんこ』も入れていたが、これだと木村氏出演作品ばかりになってしまうので、泣く泣く削った。それにしても、Liarも緑茶もSHCもLeafも挙がらないなんて……。まあ、翌日に同じことを試みたらまったく別のラインナップになるであろうようないい加減なものだが)。


  7月は、Frill新作と、Heartsの「孤島のテーマパークいちゃラブADV」、それから『いろとりどり~』(本編とFDのセット版)あたりを予約しておけばとりあえず大丈夫だろう。Luxury新作はキャスト公開されていないうちは保留。

  Frillのは、フキダシ型テキスト表示を――十年以上遅れていながら――「業界初」と言われても困る。クリック進行によって直前のフキダシが消去されず画面内にとどまっている(と思われる。サンプルCGを見るかぎりでは)という点まで見ても、LW(『白詰草話』以降)やLiar-soft(『水スペ』のみ?)が先に行っている。他方でlight(『タペストリー』以降)や緑茶(『プリンセス~』以降)のフキダシテキストでは、複数のフキダシが同時表示されるのは同時発声を表す場合のみであって、発せられた時間を異にする複数の台詞が並列表示されたままでいることは無かったと記憶する。フキダシ型と通常テキスト表示型をユーザーが切り替えられるというのも、Purple SW(『初恋~』)が行っている(cf. 演出論Ⅲ-2-6)。

  恋泉氏と唯々月氏の絵が近づいてきたように見えたけど、そうじゃなくて私の目が悪いだけか。

  時間を異にする複数の台詞フキダシを同時(並列)表示するか否かの様式的選択は、もしかしたら音声の有無と関係しているのかもしれない。直近のフキダシがすぐには消去されず、その場面の進行が一段落つくまで画面内にとどまり続けているスタイルは、(実際にLW自身がそう述べたように)漫画寄りのものになる、つまり静的(無時間的)画面構成に近づいていく。平面上に定着させられた漫画では個々の台詞が時間的延長を表すことは無い。それに対して、個々の台詞がヴォイス表現を伴う場合、そこには時間的推移が――しかもその音声によって規定された、特定かつ固定的な時間経過が――不可避的に表されてしまい、それゆえ、特定の時間を表した台詞Aとその後に現れてまた別の特定の時間を表す台詞Bとが一画面内に併存し続けることは、ある種の違和感をプレイヤーにもたらすのかもしれない。……さて、このような説明は妥当だろうか? 実際にはLWのFFD表現においては、音声を伴わない『白詰草話』『Quartett!』であっても、個々の台詞は表示速度の変化やエフェクト付与といったかたちで時間的な幅を常に含んでいたので、上記の仮説はこれらを適切に説明できないということになるが、さらにそれらの事実に対して「音声(生身の人の声)の導入にはそれ以上の決定的な違いがあるのだ」という追加的説明を試みることは可能なのだろうか? 上記Frill新作は、まず間違いなく台詞音声を伴うタイトルであろうが、この作品が複数フキダシを並列表示していった時にはたして我々ユーザーはなんらかの様式的不整合を感じ取ることになるのだろうか? 同じく音声有りの複数フキダシ連続表示型の『おいしい魔法のとなえ方。』に際してはどうだったか?

  この問は、たとえば「ひとは漫画や小説(特にLN)を読む際に、台詞の音声を想像したりその状況の空間的配置を想像したりしながら読んでいるのか(そういう人はどのくらいいるのか)」という問とも部分的に関連するし、さらには「聴こえぬ声を想像しながら読まれることを期待しながらLiar-softはパートヴォイス作品を制作しているのか」という問にもつながっていく。
  Liar-softの作品づくりがいかにも舞台芸術を念頭に置いているように見受けられるというのは、制作者自身の証言を待つまでもなく、あるいは例えば『Forest』の「改賊」たちの人工的な拍子の囃子に言及するまでもなく、おそらく共通了解的に受け入れられている認識だと思うが、しかし、そのような演劇めいた外皮にもかかわらず、このブランドの作品群はその実際の音声の用い方との間にどうしても埋めがたい溝を持っているように感じられる。それは、00年代前半の(上記『Forest』を含む)星空氏企画作品の頃にも感じられたし、近年の桜井氏企画作品などに際してもやはり違和感として感じられる。すなわち、1)概括的に目指されている「上演」志向(それがほぼ必然的に帰結する筈の現前志向)と、2)音声表現を視覚表現及び文字表現からいったん引きはがしたうえでそれらを時には衝突させつつその間隙に豊かなニュアンスを注ぎ込もうとする演出上の実験性と、3)それらの作品が実際にはパートヴォイスのかたちでのみ提供されているというあからさまな事実(※旧作の音声追加版を除けば、2012年の『黄雷』が初めてのフルヴォイス作品の筈)は、いったいどのようにして調停されるのか。そこに現れていない声を想像しながら読むことが期待されているのか、それとも、むしろ彼等のAVG作品においては音声は必要無いというのが原則的立場である――序盤やアダルトシーンで音声追加されるのは単なる余録に過ぎない――と見做すべきなのか、あるいはそれ以外のなんらかの一貫した見識が成立しうるのだろうか?
  仮説的に説明を試みることはできるだろう。最も単純なものでは「彼等の理念は一貫しているが、それが経済的事情で制約されているに過ぎない(:つまり、安上がりで済ませるためのパートヴォイスにすぎない)」というものから、「音声の有無は、そのシーンの重要度を表すためにその都度選択されているのであって、そうした設計の下ではヴォイスの欠如は自動的に音声軽視を意味するものではない」といった好意的な捉え方、あるいは「音声を想像して――想像してでも――聴きとろうとすることを、ユーザーに求めているのであり、それは音声を(、演者を、役者を、)軽視するものではない」という読み込み、「そもそも『上演』テーゼなど存在しない」という見解、あるいは「PCゲームという自由で雑種的な媒体にあっては、音声も、画像素材も、ゲームパートも、テキストも、あらゆるものが取捨選択されうるのだ」といった大掛かりな説明など、さまざまな正当化の理路を想像してみることはできるだろうが、しかし私が自身の同社タイトルをプレイした経験に照らして十分に納得できるものは思いつかない。

  現に存在するテキスト(台詞)の中に音声を想像する(ことができる)かどうかという次元と、いまだリリースされていない作品の配役を想像する(ことができる)かどうかという次元は、同じではない。だから、あるいは何故ならば、例えば私自身はテキストに誰かの音声を"当てはめ"ながら読むことは苦手だが、発売前タイトルの配役予想をしたり、あるいは既存の作品に音声が当てられることを想像してみるのはとても楽しい思考だ(――LNのアニメ化であれ、漫画のゲーム化であれ、小説の舞台化であれ何であれ)。そうした配役予想をする時、私は個々の役者の具体的な台詞表現を勝手に想像しているわけではなく、そうした個々の現れについては曖昧なままで、いわば個々の役者のポテンシャルを測る(期待する)ような気持ちで考えている。


  高身長のマナ板キャラというと、『ピリオド』の幸奈先輩もたしかそうだったけど、『Wizard's Climber』のソシエットさんもですね。『桜花センゴク』のあのキャラは、スレンダーさんかと思いきや、サラシできつく締め付けているという痛ましい設定だった。スレンダーキャラもとてもきれいで良いと思うのだけど。



  2013/05/13(Mon)

  【 キャラクターに対する好悪のあり方についていろいろ 】
  通俗的にいえば、物語の中で「嫌われ役」と位置づけられるキャラクター(つまり嫌われるために、嫌われるように描かれている登場人物)はたしかに存在し、そしてプロットがそのように設計されているならば、脚本家(ライター)と演者(声優)は、そのキャラクターが実際にそうあるべく、自らの領分の仕事をするものだろう。だから、一般的にいえば、ユーザー(受け手)がそのキャラクターを嫌う(心情的な反発を抱く)ようになれば、その脚本家及び演者の企図は成功したということになる。以上のような(それ自体としてはあまり洗練されない次元の)認識を前提としながらも、にもかかわらず、私にとってはある声優がそうした役を演じている時、その声を――そしてその役を――嫌うことがどうしても出来なくなっていたことに気付いた。おそらくはその声優さんのことが役者としてあまりにも好きになってしまったからだと思うが、そのためにかえってこのような、芝居に対する――創作表現に対する――受容態度としては「不純」と断じられるべき受け止め方しか出来なくなってしまったのは、やはり不幸なことであり、そして、申し訳ないと言うべきだろう(――このような姿勢を、「それこそが最も公平な、距離を置いた聴き方なのだ」と擁護することも、もちろん可能であるが)。
  だがしかし、どんなに小生意気なキャラでも、あるいはどれほどドス黒く残忍な性格の役柄を演じていても、あるいはいかに理不尽な言動を繰り返す登場人物であっても、その方のお声で――もちろん「声」(声色)だけの問題ではなくその方の芝居全体から匂い立つ魅力とそこから生まれる感興のことだが――表現されているかぎり、ただただ感激しつつその瞬間瞬間のアーティキュレーションのあらゆる細部をその全体の舵取りの巧みさと併せてうっとりと聴き惚れ続けるしかないではないか。

  上のような意味で、たとえば『Dies~』とかも、私はもう普通のかたちでは(普通の受け止め方では)楽しめないんだろうなあ……。

  もう少し考え直してみると、そもそもフィクションの登場人物そのものを嫌うということは、基本的に無かったのだった。醜悪な行為の描写に不快感を覚えることはあれど、物語の中に存在するキャラクターはそれ自体として好き嫌いの対象になることはほとんど無い。軽薄ぶった素振りで主人公を度々挑発してくる『シュガーコートフリークス』の一色キャラ(の、いつもどおりの超絶的名演)も、他のキャラクターの生命と人格を弄ぶ『英雄*戦姫』の驕慢なかわしまキャラ(の、『声優戦姫』とすら呼ばれるこのタイトルのトリを務めあげたラスボス芝居)も、あるいは女性を蹂躙しながら自らの手で絞殺したその体をそのまま蹂躙し続けつつ強制的に蘇生させさらに蹂躙し続けた(枕流氏の綴ったこのシーンはPCゲームの中で、私の知る限り、最も冒涜的な描写だった)『鎖』の岸田さんも、歪みきったエゴイズムと差別意識の権化のような(そして間寺司氏の芝居も、なんというか、かすれるような低音の猫撫で声がさらに裏声化したかのような奇怪極まりない発声とともに、私の知る限り最も徹底的に変態的な気持ち悪さを表出していた)『3days』のヴァルターも、『SWAN SONG』の哀れなクワガタ君も、ヒロインの身体と精神の両面を深く傷つけた『ドラクリウス』の笠井君も、そして『BALDR FORCE』の暴力的蹂躙者ゲンハに対しても、「キャラクターとして嫌いだ」という感性は生まれなかった。

  ここで「悪女キャラ万歳だ!」などと口走ったら話の趣旨が誤解されそうなので差し控えたいが。
  上の話とは別に、悪人キャラとか、過ちを犯してしまったキャラクターとかは、結構大好きです。

  作品それ自体とはまったく関係の無い、私個人の心理的事情によって、その作品をプレイすることが(気持ちのうえで)ほぼ無理になるということはある。たとえば『ねがぽじ』や『あかね色』は、たぶん普通の気持ちで(再)プレイすることはできないだろうし、だから今後もはや(再)プレイすることは無いだろう。当時あのような「メア」トークのTLに晒されていながらも、その後あまり屈託を持たずに『星空のメモリア』をプレイできたのは、本当に僥倖だったと言うほかない。
  時が経てば、気にならないようになってくるかもしれないけど。

  以上、私もゲームキャラに対していろいろと屈折した接し方をすることもあるという話でした(?)。



  2013/05/12(Sun)

  【 ゲーム、スポーツ、SLG 】
  Escu:de新作が、世界や信念を賭けた生き死にの"バトル"ではなく、共通のルールに則って行われる競技としての"スポーツ"を選択したのは慧眼だということは先日(雑記欄2013/03/25付)述べたとおりだが、開発スタッフ(メイン脚本家)の方がそのことをもっと明快なかたちで書いておられる。
  [ 326373105394139137 , 326380420755238912 , 326381336703156224 , 326381574784430082 , 326381944763994112 , 326382337631862785 , 326383823329820672 , 326384619597492227 , 326385711131537409 ](※いずれも2013/04/22付。twlg等を利用されていないようなので、一続きの投稿のurlを転記しておく)。
  一連の投稿は以下のような主旨である: バトルものでは、敵側にも理由を(同情に値する、あるいは正当性のある、あるいはユーザーが共感しうるような事情を)持たせてしまうと、その敵を打ち倒した時に割り切れなさが残ってしまうが、しかしユーザーの価値観ではまったく肯定できないような(不倶戴天の絶対悪と見做すほかないような)単純な敵対者像にすると、リアリティを欠いた浅薄なものになってしまうというジレンマがある。それに対してスポーツの領域では、当事者たちは対立する信念をぶつけあうのではなく、あくまで枠組(競技ルール)と目標(ルールの下での勝利追求)を共有したうえで競い合うので、打ち倒した相手の価値観を「継承」するという側面を、説得力ある形で描くことができる。
  もちろんスポーツものがすべてそうなるというわけではない(――相手チームをひたすら嫌味な存在として描くものもある。たとえばカーリング部のあれも、たしかそうだった)。しかし、スポーツものストーリーのこのような積極的側面を正確に洞察したうえでディレクション&ライティングが為されれば、作品はきっと成功するだろう。
  その長所とは、私なりに詳述を試みるなら、1)ルールに沿った競技としての公平性と明快性、2)相容れない信念同士の対立ではないという限定性(価値中立性)、3)一回きりの勝負ではなく、再戦ができるという点、といったところが挙げられるだろう。ルールの枠内で行われる競技であるため、後出しの必殺技のような描写には頼れず、当事者の実力(戦術と技量、そして部分的には運)に応じた結果を出させることが期待されるが、このような性質は(脚本家が一方的にドラマを提示する読み物AVGよりも)プレイヤーが操作(参加)するSLGにこそ相応しい。この分野のゲーム作品の常として、ユーザー個人が操作する側とコンピュータが操作する側との間の勝負という形になる(つまりプレイヤーの次元では非対称性が存在する)が、そのゲームバランスを適切に設計する力量をこのブランドが備えていることは、すでに何度も示されている。もちろん、相手のいない単独の行為として成り立つスポーツや武道も存在するが。マラソンや弓道などは、そのようなものとして描くことができるし、実際にアダルトゲームの中でも描かれてきた(例:『夏めろ』『すぽコン!』)。
  ただしジャージキャラはやめてほしいけどな。例えば『すぽコン!』の男性主人公の赤白ジャージ姿は、一枚絵にフレームインしてくる度にげんなりさせられた。Escu:de自身も、私生活のだらしないヒロインの私服を赤ジャージにした苦々しい実績があるし……。今回の新作でも、教室で水泳用ジャケットを羽織っている一枚絵がサンプル公開されているが、個人的には、これならまだマシだと思う。


  以前(雑記欄2013/01/28付)に言及した2000本クリアの方が話題になっているようなので。
  時間の都合のつく職業に就いている人なら、平日に7時間の余暇を持てるなら、3日でフルプライス1本はクリアできるだろう(――7*3=21時間あれば、現在の一般的なフルプライス作品をコンプリートできる)。土日もフルに使えば一週間で2.5本、一年で125本プレイできる。これは、たとえば新作アニメをすべて視聴しようとするのと比べれば、かなりハードルの低い要求だろう。昔はこれよりも短いタイトルが多かったし、最近は最近で低価格タイトルがかなり増えている(タイトル数ベースでみれば、おそらく半数程度に達している)ので、祝日も含めて精力的に取り組めばその1.5倍、年間180本以上も十分可能な筈。2000本クリアには、11年あれば足りる。アダルトPCゲームの市場規模と新作発売ペースは、90年代後半(つまり15年以上前)には十分整っていたらしいので、その頃からのキャリアがあるゲーマーなら、2000本以上プレイするのは十分現実的な数字と言える。
  出費に関しては、1)フルプライスだけでなくミドルプライスやロープライスもあるし、2)店舗割引等も活用しつつ、3)プレイしたらすぐ中古売却するようにすれば、おそらく一本あたり平均4000円程度の支出でやりくりできるのではないかと思う(――中古購入なども視野に入れれば、もっと安く行ける筈だ)。仮に4000円で試算すると、年間180本*4000円=72万円、一月当たりでは60000円。それなりの収入のある社会人であれば、けっして無理な額ではないし、他の高額な趣味に比べれば十分リーズナブルだとすら言っていい(――ちなみに、この試算なら平均的な大学生の財力でもその半分、年間90本は十分いける)。
  要するに、それなりに時間の余裕の取れる職にあって、余暇と可処分所得をPCゲームにつぎ込む覚悟があれば、十年かそこらで2000本クリアすることは十分可能だということだ。そして、何十万人といるであろうアダルトゲーマーの中に、2000本プレイヤーが(おそらく彼だけでなく何人も)いることはなんら不思議ではない。また、ゲームに限定せず一般的に言って、このくらいの密度で趣味生活を営んでいる人はいくらでもいる。自分の興味関心を積極的に追求する人にとって、この程度のことはまったく普通の――超人的な資質が無くともやれる――ことであって、それほど驚くようなことではない。ただし、大多数の人々はここまで一つの(単一の)趣味に専心することはなかなか無いが。
  この方のブログを閲覧してみると、作品毎のコメントはごく短いが要点は押さえてあり、とばし読みではなくきちんとプレイしていることが窺われる。もちろん、熱意なくしてはこれほどのペースは維持できないであろう。

  私自身について言うと、今後この趣味を続けていけるとしても、生涯に1000本プレイできるかどうかは疑わしい。しかしそれでも少なくともソフトハウスキャラと緑茶とEscu:deだけは、新作が発売されるかぎりずっとついていきたい。あと、Innocent GreyやApRicoTやぱれっとやSkyFishや木村氏出演作や大波氏出演作も、それからそれからもっといろいろと(きりがない)……とにかく、できるかぎり。

  アダルトゲームは、00年代に入ってからは毎年600タイトル程度発売されている。多い年(00年代前半)では700本近くあったと記憶するし、2012年も商業アダルトPCゲームは550タイトルほどリリースされている(――Android版、コンシューマソフト、PC非18禁、同人を除外した数字。リニューアル版などは算入している。最近ではAndr版はかなり増えている)。だから、年間200本であれば、発売総タイトルの1/3ほどをプレイできたことになる。

  『想い出の彼方』がAndr版でリリースされていたのか。青山ゆかり氏初期の傑作タイトル。



  2013/05/11(Sat)

  鍔広の海賊帽子(「三角帽子」)はもちろん大好きなのだけど、残念ながら着用キャラは非常に少ない。さしあたり思い出せる範囲で、『やどかりタイフーン!』『海賊王冠』『英雄*戦姫』くらい? イベントCGとかでヒロインがあのゴージャスな帽子を頭に乗っけてくれでもしたら、ただそれだけで感涙に咽び泣けるというのに……。
  帽子キャラならわりとなんでもありなので、魔法使い帽子キャラたち(こちらはまだ数が多い)に救いを求めているというのが実情。麦藁帽子キャラも、『水月』『Piaキャロ3』の頃はその幸福を当然のものと思っていたけど、結局その後が続かなかったなあ……。『Chu×Chuアイドる』にはシルクハットキャラ(しかもキャストは金松氏だ!)という珍しいものもある。シルクハットは『ふりフリ』にもいたが。
  うーん、『ツナバン』とかに海賊帽子が無かったかなあ……ああ、あったあった、ただしSD画像だけど。『PRINCESS WALTZ』のリリアーナも。『空帝戦騎』にも、海賊帽子はいなかった筈(――ミレーニさんのも三角帽子の一種ではあるが)。alicesoftは帽子キャラの宝庫なのだが、海賊帽子は残念ながら思い浮かばない……いや、『GALZOOアイランド』のヒロインがいた。
  ゲーム登場キャラ以外なら、[ www.onsen.ag/program/daikoukai/ ]こういう眼福この上ないイラストもあったりする。

  『宇宙海賊サラ』のキャラ紹介欄を見てみたら、キャラの名前が「ギーレン」だったり「ハンス・ビューロー」だったりして吹き出しそうになった。『レーベンスエンデ』には「フルトヴェングラー」というキャラがいて、あの時もわりと反応に困った。スタッフにクラシック好きがいらしたのだろうか?


  05年くらいまでは誰もがしまぱんしまぱんと叫んでいたような記憶がある(そして実際に縞々キャラがかなり多かった)けど、最近はあまり見かけなくなったなあ……。


  いまだに公式サイトにBBSを置いていて、しかもそこでスタッフが連絡や応答を(ごくたまに)しているブランドがあるのだけど、あれはもう止めた方がいいと思うんだよね……。そういう場には、どうしても一定割合で、なんというか、かわいそうな子が入ってきてしまうので。生身の他者がそこで交流しているという認識を持てていないのかそれとも性格上のものなのか何なのか、言語的コミュニケーションとしての最低限の水準に達していない独り言を投稿したり、あるいはスタッフに対して非常に失礼な(そしてその社交的非礼さについて完全に無自覚だと思われる)文面でコメントしたり、どうしようもない勘繰りをする下衆発言をしたり、常識的に考えてスタッフが到底対応しきれないような要望を書き込んだり……。おそらく悪意無しに「素朴」な意識のままで――ということは、その駄目さをいつまでも自分自身では気付くことができないまま――そういった発言を公然と書き込んでしまう人たちが出て来てしまう。当事者でない私が見ても青ざめつつ目を背けるしかないようなそうした投稿が並んでいるBBSを、メーカースタッフが否応なく定期的に読まざるを得ないというのは、彼等の精神衛生と制作モティベーションにとって非常に気遣わしい状況だ。もちろん、BBSにはまともなファンたちもたくさんいるので、スタッフ諸氏にとって全体的にみて「良い」と感じられるものであってくれればいいのだけど。


  ayumi.ことオリヒメ某が複数のwebラジオで「何故かよく知っている人」とか「波形レベルで似ている私の知人」といったネタを執拗に繰り返していて、一気に悪印象を持ってしまった。私には、たぶんこの人はもう無理。声も聴きたくない。
  ただ単に内輪ネタというだけなら構わない――もちろんけっして上品ではないが――のだけど、名義の問題は業界の性質上とてもデリケートな部分に触れるネタであり(彼女自身は公然化しているが、それが他の人々にも[ダメージが及ぶかたちで]波及しかねない事柄であることは理解している筈だ)、それを聞かされる側は(その最低限の節度を守ろうとするなら)反応しづらく、ただ愛想笑いを返すしかない。つまり相手の言葉を封殺しつつ自分一人が悦に入れる卑劣なネタをwebラジオの場で繰り返しているわけで、こちらとしては「聴き手であることを止める」という以外の選択肢はもはや存在しない。触手トークのくだりを聴いても、たぶんこの方は「自分のことを解ってくれている人たち」(の存在を確認すること)が大好きでそうしているのだろうけど、ユーザーは(デリケートな問題を弄んでまで)そういう確認儀式につきあう義理は無い。


  『美少女ゲーム声優のお仕事2』(p. 85)によれば、金松氏はシンガポールのご出身とのことで、英語の発音も非常にきれいなのだが、さすがにアメリカンポルノのような芝居はメーカー側が受け止めきれなかったらしい。下記リンク先のフリートーク参照。
  [ www.chuable.net/amanatsu/download.htm#talk ]アダルトゲームサイト注意



  2013/05/10(Fri)

  趣味の世界では勝ち負けを考える必要は無いが、しかし敗北感をおぼえることが無いわけではない。たとえば、北米出身の仕事仲間がCDプレーヤーか何かを運んでいる最中に、そのコードが垂れ下がって私の足に触れてしまい、紳士的な英語で「すまない、私の"しっぽ"が当たってしまったよ」と言われた(そしてそのジョークに上手い切り返しが出来なかった)時、ケモキャラ萌えに通じていると心中密かに自負していたジャパニーズオタクとしての矜持はその時たしかに挫折させられた。「ちくしょう、してやられた!」と(――もちろん、彼は「(ケモノ)萌え」の文脈でそう言ったのではなく、アメリカンジョークの一種だったのだろうし、彼の知性と人間性については深く敬服している)。
  社内会議で堂々と『ハルヒ』の話をされた方もいる。もちろん議題に関連する話ではあったのだが、私にはあの真似は出来そうにない。これも勝ち負けの問題ではないが、いずれにせよ、オープンオタに遭遇した隠れオタ(私)はただただ恐怖するしかない。


  『Piaキャロ』ガールズエディションの話を聞いて、『ToHeart』の男女逆転版を想像してみたら、わりと楽しそうなものになってしまった。主人公(女性)の幼馴染で、忠犬のように慕ってくる神岸君(逆転版にするとメインヒロインの風格が消えた?)。異性を感じさせないムードで、明るくて話題豊富な長岡君(わりと一般受けしそう)。孤独な雰囲気をまとった眼鏡男子、よく見るとスタイルも抜群、そして実家のある神戸大への進学を目指している知性派委員長の保科君(これだとたぶんメインヒーローになれるな!)。長躯金髪で、ごく自然にスキンシップをしてくるタイプで、実は幼時に主人公と出会っていた因縁のある、L. Miyaichi君(これまた人気キャラになれそうだ!)。長身で寡黙、ミステリアスな上級生の来栖川センパイ(しかも実家は富裕ときた。弟は朗らかなスポーツマンで、サブキャラとして登場するがユーザー人気は高い)。スポーツに熱心な後輩の松原君(逆転版でもいまいち?)。ストイックな空手部主将の坂下君(男性版にすればもしかしたら超人気キャラに!)。気弱な美形ショタ後輩の姫川君(ずいぶんマニアックだな……)。そして来栖川重工が開発したドジっこ執事ロb…いやそれはちょっと待て。


  [tw: 332822416139091968 ]:うわー、うわー! コミケC29って1985年なのか……遠い……。
  そういえばC67のカタログイラストは、あの袁藤沖人氏だったんだね。当時カタログは買ったけどどういう方なのかは全然意識していなかった。



  2013/05/09(Thu)

  [ www.studio-ryokucha.com/9thpro/ ]リンク先アダルトゲームサイト注意
  緑茶新作は亞部まとま氏企画にるちえ氏原画か! 最近幸せな話ばかりでもう幸せ過ぎる。
  しかしティザームービーには銃器を抱えたメイドさんとおぼしき線画が……これはいったいどういう。


  [tw: 332368946818859008 ]:貴方だってすでに国家繁栄省少子化対策局上席捜査官・柴田浩二君の話を書かれているじゃないですか、というツッコミの言葉を自制することができなかった。
  自らはっきり宣言してtwを辞めるとした以上、そこにおられる特定個人や特定化されるコミュニティに対して直接的に名宛てする応答(リプライ)的行為をこのブログの上で行うことは、するつもりも無いしすべきでもないと考えているのだが。もちろんweb上に存在する触発の契機の一つとしてtwを完全に無視することは現在では難しいが、それでも、特定個人に対してしか意味を成さないようなことはここでは極力書かず、できるかぎり広汎に意味を持ちうるように、つまり誰が読んでもその趣旨と意義が(一応は)理解できるように一般化された形で(そして望むらくは公論の水準で)書くように努めている。

  ちなみに上のタイトルは「妊娠確実」系のテキスト(実際にこのフレーズも何度か用いられている)なのですが、妙にパワフルで速度感のある楽しいテキストワークでした。淡々とした行為描写よりも、がっついた熱気とバカゲー紙一重な台詞回しのあるテキストの方が、間違いなく楽しい。私の耳ではキャストがついに分からずじまいだったのは、唯一悔やまれる点(――金松氏と渋谷氏がいらっしゃったようにも聴こえたが、まるで自信は無い)。

  純愛系AVGのアダルトシーンでも、せっかくなんだから、男性主人公のウブながっつきぶりとかを強調していったらもっと楽しいであろうn…こほん、いえ。


  私の中では、「メインヒロイン」という概念はほとんど鷹月さくら氏一人のためにある。単なる「(広告上の)看板ヒロイン」や「序列トップのヒロイン」や「真相を担うヒロイン」のことではなく、物語全体の中心に敢然と立ち続けるヒロイックなキャラクターのことを考える時、そのイメージは鷹月氏がこれまで演じてきた何人もの重要なヒロインたちのことを思い出させる。
  いや、べつに、特別なジャーゴンとしての「メインヒロイン」概念を提起したいというわけではないけれど、この(曖昧に使用されがちな)言葉に対してしばしば躊躇を覚えているのは確かだし、そしてただししかし幾人かの鷹月キャラが――その声とともに、そしてその声によって――「メインヒロイン」と呼ぶしかない存在感に満ちたキャラたちであったこともまた確かだった。どちらかといえば硬質な声色を基調にしたあの特徴的な感情表現の勁烈さももちろん鷹月氏の役者としての資質と卓越を示す一つの側面だが、それらはけっして大袈裟なものにはならず、そうした芝居の中でも常に正確さの――つまり、全体を見据えたうえでの個々の芝居の正確なコントロールの――印象が寄り添っている。だから、私にとっては、どんな役者さんと共演されている時でも、鷹月氏の芝居こそが常に物語の進み行きをはっきりと指し示す導きの星となってきた。この方の表現についていけば絶対に大丈夫だという信頼。その声によって作品全体をリードし物語の枠組を作り出せる役者像。私が感じているのは要するにこういうことなのだと思う。上で述べたような多面的な個性は、たとえばクールな距離感のある同級生ヒロインを際立たせもしたし、直情的な妹キャラにおいても発揮され、あるいは余裕綽々の小悪魔キャラをも美しく造形してきたが、しかしそれは物語全体を牽引すべき主演キャスト(メインヒロイン)の時にこそ最も優れたかたちで展開されてきた。この意味で、私のゲーム経験にとって、鷹月氏はPCゲーム声優すべての中で特別な存在であり続けている。

  もちろん、鷹月氏に限らずそもそも本職声優というものは、事前に入念な下読みをして、全体の見通しとそのシーンの位置づけをきちんと踏まえつつ演技するものだということは知っている。私がここで述べようとしたのは、PCゲーム媒体の中で、理知(構成感)と情緒(感情の動き)に即したその表現が、この方の場合は非常に高い水準で実現されていると感じる、ということだ。
  役者としてのこのようなあり方がどうやって形作られているのかというこの驚嘆から発して、時として「収録の場面を拝見してみたい」と思うことのある声優さんの一人でもある(――そういう好奇心は、木村氏と風華氏に対しても抱いてしまうことがある。演じられている「役」から「役者」を逆算的に想像することがまるで出来ないという点で)。もしかしたら、収録ブースの中では案外、俯瞰型ではなくのめり込み型の芝居をなさっていたりするのかもしれないが。


  サイトではSLGの細かい攻略をしたり、クロスオーバー世界設定をまとめたり、個別ブランド論のアプローチに着手してみたり、演出技術の展望を整理したり、あるいはこのブログでは彩色やインターフェイスや画面構成について論じてみたり、何人かの原画家さんの特質を言葉にしてしみたり、旧弊的批評を罵倒したり、制作過程や産業構造について私見を述べたり、眼鏡主人公や傘ヒロインといった小ネタの収集をメモしたり――twでは私は「何を」したと言えるのだろう?――、PCゲームを巡ってわりといろいろなことをしてきたつもりだけど、今では自分は要するにただの声オタなんだと自己認識している、あるいはそれがPCゲーマーとしての私の最も幸福なあり方なのだろうと考えている。
  実際には、「(趣味人としての)声優オタク」を名乗れるだけの能動的生産的な活動はまるで出来ていないが。出演作まとめのような公共的な貢献もできていないし、イベントに参加したこともほぼ皆無だし、いわゆる「聴き分け」のスキルも乏しいし、webラジオに投稿したことも一度も無いし、そしてもちろん専門的な発声トレーニングを受けたわけでもない。



  2013/05/08(Wed)

  triangle新作。ファンタジー系バトルヒロインもので佐倉氏と羽高氏がメイン共演されていると、なんだかすごくKAIブランドっぽい……というか『RGHL』そのままだ。佐倉氏と羽高氏の共演作は、EGScapeによれば7本(『プレイ!』『プレイ!惨』『RGHL』『ピュア・セインツ』『ただかの』『黒愛』『愛娘~』)。わりと貴重。「佐倉」氏に限って言えば、だけど。
  姫川氏ってダーク系タイトルにも出演されるのかと驚いたが、でぼの巣やアイルでもキャストされていたらしい。ちょっと意外。

  声優の「とりきんぐ」氏は、お名前を目にする度にどきっとさせられる。いったいどういう発想でこんな珍妙なお名前を……。


  私自身、眼鏡キャラは好きだけど、眼鏡好きを公言する人たちがweb上で戦闘的にシュプレヒコールを挙げているのには眉を顰めてきた。何が好ましくないかというと、ああいう振舞いは、趣味の世界でおこなうにはあまりにも「野暮」なんだよね(――現実世界での政治上のそうした行為もしばしば野暮なものだけど、それとは別の事柄として)。外部から見ると、あまりにも非妥協的で、異なる価値観の間での交流乃至寛容がまるで期待できないように見えてしまうので、あれだと「眼鏡好きは話の通じない人たち」という印象ばかりが残ってしまう。もちろん、政治の領域においては分配されるべきパイの大きさが限られているがゆえに妥協と調整が不可避的であるのに対して、趣味の領域では(つまり個人的な嗜好の選択に際しては)他者との妥協は必須ではない――むしろそんなことを考える必要など無いというのが基本だ――というのは、まあ、確かだけれど。


  『あかときっ!』は本当にいろいろなところが好きだけど、あれでベルト萌え(というかバックル好き?)まで植え付けられてしまったのは我ながら意外だった。773号のキュートなたすき掛けベルトといい、真姫私服の白い幅広ベルトといい、やけに大ぶりな女子制服のそれといい、ジィフェンダーさんのオーバーオールといい、そして年長者(学園長)までもよく目立つベルトを締めていた。あれはいったいどなたの趣味だったんだろうかと訝ったものだが、特に「クラヤミ」サイドに横溢する「時計」モティーフと相俟ってあの作品世界全体のイメージをはっきりと方向づける良い趣向だったと思う。現代の標準的な科学技術とは異なるが独自のメカニカルな体系のイメージを持つという意味ではスチームパンクものに近い流儀だが、スチームパンクに比べるともっと童話的でノスタルジックな、そして職工的緻密さをも印象づけるものになっていた。その都度の作品コンセプトに合わせてその美術的設計を入念に練り上げて提示してくれているというその一点からしても、このブランドのゲーム作りは信じるに値すると思っている。
  そういえば『ワンダリング・リペア!』も時計修理ものだったし、ブランドとしてのEscu:de全体に対しても時計職人的正確さの印象はたしかにある。創意溢れるゲームデザインとその完成度、精密なフラグ体系、ユーザーの掌の上で気持ち良く反応するインターフェイス設計、大柄になり過ぎない全体の骨格、そして人懐っこくもスマートな美術的(視覚的)デザイン、それらはいずれも時計によって象徴させるに相応しいEscu:de特有の美徳だ。プログラマーは水鼠氏KIT氏、インターフェイス周りの素材やタイトルロゴなどの制作ははなたかれとも氏。

  モデラー兼任のゲーマーさんがいたら、どなたか、773号を立体化してくれないものだろうか。思い切って原寸制作したら、とてもいい感じになりそう。
  彼等の設定上の身長はどのくらいなのだろうか。ゲーム本編中では具体的な描写は無かったように記憶しているが、仮に80~100cmもあったら、いかに自律的に浮遊できるとはいえ、そんなサイズで鎧まで着込んだ者にしがみつかれたら成人男性でも大変だろうからと考えて、せいぜい体高50cm程度のつもりで読んでいた。あまり大きすぎると、愛嬌が無くなるし。50cmというと、炊飯器よりも一回り大きく、大きめのマクラや小型レンジ程度のサイズになる。このくらいの体躯があれば引越しそばの箱を抱えて運搬することもできるし、空中戦闘で体当たりしてきたら十分危険な筈。長さだけで見れば小型犬と同じくらいだが、773号は丸々した体つきなので、全体のボリューム感ははるかに上だろう。



  2013/05/07(Tue)

  【 AVG作品におけるワイド化の目的と意義をめぐる小考 】
  ※単独記事化した:「PCゲームにおけるワイド化の目的と意義をめぐる小考


  『MapleColors』(2003)や『天使のひめごと』(2005)の頃からお声を聴いていたのに、有賀桃氏のお名前が「ありが・とう」と読むことは先日まで知らなかった。「二厘(ふーり)」「安玖深(あぐみ)」は当然として、波奈束風景(はなたば・ぶーけ)氏とかもそろそろ浸透しているだろうか。


  長い名前というと「アッセルハイマー=ボジョレー=ヌーボー」や「南初瀬(みなはせ)花梨オルタンシア」くらいなら今でもさらりと言えるけれど、「宮鴬住藍銀煤竹出雲守明朝仁(くおうずみあいぎんすすたけいづものかみめいちょうじん)ミカ」はまだ無理(――今回もggって調べてきた)。
  SHC作品にも、「銀毛流黒桔宮三尾ノ猫」(ゲーム内での通称:お宮)とか「プリンセス・オブ・リゼット・リンザ・クラリティーズ・クリムゾン」(リゼット)とか「メルエ・ユーナギワール・フェレインダーシュ」(メルエ)とか「メイクゥイル・ヴィ・ルガント・フリザン」(メイベル)とか、長い名前はいろいろある。


 [ hikoushiki.main.jp/ ]:webラジオのメモ。
  門脇氏といえば、『Wind』(2002)に出演されていたのを最近知った(――EGScapeによれば「校内放送、ガヤ」とのこと)。

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